25日(火)。先日のブログに、「行きつけの先生からは『絶対安静』『お風呂はシャワーのみ』『患部を冷やす』『お酒は厳禁』と言いつけられているが、寒いので お酒を控える以外はうまくいっていない」と書いたところ、Kiriokaさんからフェイスブックのメッセンジャーに「ホカホカ♨カイロの温めは 虎い、いえいえ、トライ されましたか?」とトラ年に相応しいメッセージをいただきました 保冷剤で患部を冷やしていると身体全体が寒くなってくるので、別の箇所に使い捨てカイロを貼るのはとても有効だと思います
さっそく 虎いすることにしました
「使い捨てカイロ」で思い出すのは、30年以上前の1991年1月の出来事です 当時勤めていた新聞関係団体の仕事で、ヨーロッパ諸国の新聞業界の労務事情を把握するため、「欧州新聞業労務事情視察団」を派遣することになり、事務局職員として同行することになりました
視察団はドイツ ⇒ フランス ⇒ イギリスの順に現地の新聞社や新聞団体などを訪問し、湾岸戦争勃発直前に帰国しました
ドイツから航空便でフランスのドゴール空港に入った時のことです。手荷物検査で、私だけが検閲官に呼び止められ、荷物を開けるように言われました
荷物をスキャンした映像には袋に入った白い粉が映っています
私はおもむろに「ホカロン」を出して、フランス語が出来ないので、「これはホカロンと言ってね、これを両手でもむとね、熱が出て温かくなるんですよ。それをね、腰とか背中に貼ると温かいんですよ
」と身振り手振りで説明しました
どうやら検閲官は「覚せい剤」の密輸と勘違いしたようです
一瞬「日本人、ドゴール空港で覚せい剤保持で逮捕」の見出しが頭をよぎりました
今でこそ笑い話ですが、その時はホカロンを貼っていないのに身体が熱くなったものです
ということで、わが家に来てから今日で2572日目を迎え、香港当局は23日、飼い主から引き渡されたペットのハムスター1匹から新型コロナの陽性反応が確認され、感染対策としてこれまで2200匹以上のハムスターを殺処分したと発表した というニュースを見て感想を述べるモコタロです
日本のウサギは大丈夫かな? ペレットとおやつは大歓迎だけど オミクロンは嫌い
昨日、夕食に娘が職場の同僚を通して入手した国産牛を焼いて、「生野菜サラダ」「卵スープ」と一緒にいただきました ステーキは柔らかくて美味しかったです
東京交響楽団から「第697回定期演奏会(1/30)出演者変更のお知らせ」が届きました それによると、「当日出演を予定していたヴァイオリンのクリストフ・コンツは、新型コロナ禍に係る入国制限により出演できなくなった。代わりに吉田南が出演する」となっています
なお、指揮者・秋山和慶は変更なし、プログラムの①ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」、②同「交響曲第1番」も変更なしとのことです
それは良いとして、吉田南さんてどういう人ですか? というのが率直な疑問です
ハガキには何の説明もありません。それとも「東響会員なら知っていて当然」ということなのでしょうか? 少なくとも私は初めて目にする名前のヴァイオリニストです
吉田南さんには何の落ち度もありませんが、東響は「この出演者変更に伴うチケット代金の払い戻しはございません」と書くからには、代演者の簡単なプロフィールくらいは紹介すべきだと思いますが、いかがでしょうか
藤崎彩織著「読書間奏文」(文春文庫)を読み終わりました これは「読書感想文」ではなくて「読書間奏文」というタイトルに惹かれて購入した文庫本です
したがって、藤崎彩織という人がどういう人なのかまったく知らないで買いました
プロフィールを見て初めて、彼女が4人組バンド「SEKAI NO OWARI」でキーボードとライブ演出、作詞、作曲などを担当していることを知りました
2017年に発表した初小説「ふたご」は直木賞候補にもなったそうです
彩織さんは本書の中で次の作品を取り上げています
「犬の散歩」:森絵都「風に舞いあがるビニールシート」より
「皮膚と心」:太宰治「きりぎりす」より
「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」:村上春樹
「パレード」:吉田修
「羊と鋼の森」:宮下奈都
「コンビニ人間」:村田沙耶香
「妊娠カレンダー」:小川洋子
「火花」:又吉直樹
「ぼくは勉強ができない」:山田詠美
「サラバ!」:西加奈子
「花虫」:彩瀬まる「くちなし」より
「武道館」朝井リョウ
「詩羽のいる街」:山本弘
「悪童日記」:アゴタ・クリストフ
「空っぽの瓶」多和田葉子・松永美穂訳
「フェミニズム批評」:織田元子
「グレート・ギャツビー」:フィッツジェラルド=文庫書下ろし
「夏の夜」=単行本書下ろし
「ひとりの時間」=単行本書下ろし
上記の「書下ろし」(3作品)以外の作品についていえば、筆者が本を読んだ感想を書いているわけではありません。それは「読書感想文」です 彼女の採った手法は、彼女自身が主人公となったエッセイの中に作品の一部を引用し、音楽でいう「間奏曲」のように使うという凝った手法です
それで「読書間奏文」なのです。上記の作品の中で私が読んだことがあるのは、「パレード」「羊と鋼の森」「コンビニ人間」「火花」「サラバ!」の5作品ですが、それぞれ、「作者はこういうことを言おうとしているのではないか」とか、「作品を読んでこう思った」とかいった感想や批評を期待して読んでも、答えは返ってこないということです
例えば一番最初の「犬の散歩」では、SEKAI NO OWARI はとても貧乏だったこと、メンバーは皆アルバイトをしながらバンドをやっていたが、お金が入るとすべてバンドのために使ったこと、貧乏であるというのは、友だちか音楽か、現在か未来か、常に取捨選択を迫られるということだった、と書きます そして、ここで森絵都の「犬の散歩」を引用します
「大学の頃、同じサークルに毎日毎日、牛丼ばかり食べてる先輩がいた。世界のすべてを牛丼に置き換えて考えるのが常だった 当時は牛丼が1杯400円くらいだった。例えば映画の料金が1600円だったとして、その先輩にとっては牛丼が4杯も食べられる、だからそれは高い、よほど面白い映画でなければ牛丼4杯分の価値はないという。彼は牛丼を通して世界を捉えていた
」(以上・超略)
そして、彼女は本筋に戻します
「私にとっての『牛丼』は、間違いなく仲間たちとのライブハウスだった 『ライブハウス』という基準が出来たことで、様々な迷いから解放された
友だち、飲み会、サークル、恋人、旅行、エステ、お洒落・・・いくつもの誘惑を断ることに、何の躊躇もなくなっていく
」
しかし、デビューしてバンドが軌道に乗ってくるとお金も入るようになり、不摂生になって 取捨選択する必要がなくなり、彼女の心にあった『牛丼』はなくなってしまいます 自分自身の価値基準を失ってしまったある日、彼女はネットで「チャイルド・ファンド・ジャパン」(恵まれない子供たちに経済的な援助ができる「里親」制度)の存在を知ります
月々4000円で里親になれるという内容です。彼女は8000円で2人の子どもたちの里親になります。かくして8000円が彼女の価値基準となります
里親になった半年後、ネパールの子どもたちから絵手紙が届き、さらに1年後、子どもたちから好きな先生の名前が書かれた手紙が届いた、と書きます
彼女は次のように文章を閉じます
「手紙が増えるにつれて、次第に成長していく彼らの姿を、大人になるまで見届けたいと思うようになった それは、心の中の『牛丼』が、いつも幸せの味を教えてくれるからなのだ
」
この文章を読んだ後で、純粋にこのエッセイのタイトルを付けるとすれば、「犬の散歩」ではなく、「牛丼」あるいは「価値の基準」の方がふさわしいと思うようになります
全編を通して読んで思ったのは、藤崎彩織という人は幼少時から数多くの本を読んでいて、それゆえに文章がとても巧いということです
それにしても、どういう理由でバンド名を「SEKAI NO OWARI」としたのだろうか 「世界の終わり」だと「アルマゲドンかい?」と突っ込まれそうですが、ローマ字表記でも違和感があります
同じバンドでも「Dreams Come True」の方が希望が持て、売れるような気がしますが、それは素人の赤坂見附、もとい、素人の浅はかさ なのかもしれません