3日(土)。新型コロナ陽性に伴う自宅待機期間が満了し、昨日、5日ぶりに外出し娑婆の空気を吸いました 池袋で買い物をして、地元巣鴨に戻り、娘の誕生祝いのケーキを予約するため、苺ショートが日本一美味いという噂もある「FRENCH POUND HOUSE」 に行ったのですが、娘の誕生日(12月25日)の苺のホールケーキもショートケーキも予約限定数量に達し予約できないと言われました 誕生日がクリスマスにあたる娘の宿命です しかたないので誕生日当日に池袋のデパ地下で調達することにしました
さて、朝日新聞に連載の「語る 人生の贈りもの 井上道義」は昨日、第14回(最終回)を迎えました 吉田純子編集委員のインタビューに、井上氏は冒頭 次のように語っています
「最後に言わせてくれ。僕の愛称は小学生の頃からずっとミッキーだ。ミッチーと呼ぶ人がいるが、それは間違い 理由は知らないが、同級生にそう呼ばれた。ミッキーマウスみたいに いたずらばっかりしていたせいかもしれない」
それで思い出したのが、井上氏のプロフィールに一時期「自宅でアヒルを飼っている」という記述があり、ミッチーでなくミッキーだと知っていた私は、「なるほど、ミッキーマウスにドナルドダックのコンビということで飼っているのね」と思ったことです
意外だったのは次の発言です
「白状すると、1回だけ道草をしかけたことがある。京都市交響楽団の音楽監督時代、とある有名な政治家に焚きつけられ、市長選に立候補しようとした 古い神社仏閣ばかりじゃなく、生きたオケや舞台芸術が人々の生活の中心になる仕組みを作り、また音楽に戻ってこようと思った でも、人生の締め切りはそこまで待ってくれるかどうかわからない。諦めた」
井上道義京都市長・・・ちょっと想像できないですね 井上氏はさらに続けます
「今まさに、両親との『和解』を願って書いた僕の自伝風オペラの稽古をやってます 『やっぱりやめときゃ良かったんじゃない?』なんて言われてたまるかと、僕自身、ギリギリのところで奮闘してます でも、キリギリスでもアリでも何でもいいけど、奮闘できる何かを持てるってことが、生きてるってことの証なんだろうな」
井上氏が語っているのは「生き甲斐を持つことの意義」でしょうね 彼は2年後の2024年末を持って指揮者を引退しますが、それまでせいぜい指揮活動を通じて「ミッキー節」を聴かせてもらいたいと思います
ということで、わが家に来てから2882日目を迎え、トランプ米大統領は次期大統領選への出馬を表明したラッパーのカニエ・ウェストと白人至上主義の活動家、ニック・フエンテスをフロリダ州の自宅での夕食に招いたことが問題視されているが、共和党のミッチ・マコネル上院院内総務はトランプの名前を挙げることなく、「共和党には、反ユダヤ主義や白人至上主義を受け入れる余地はない」と明言し、そうした考えを主張する人たちと会うような政治家が、米国の大統領に選出される可能性は「極めて低い」と発言した というニュースを見て感想を述べるモコタロです
とうとうトランプは墓穴を掘って身内の共和党トップから見放された 自業自得だ!
昨日、娘が作ってくれた夕食は「北京ダック風 鶏肉野菜巻き」でした 鶏もも肉、ベビーリーフ、レタス、ネギ、キュウリを餃子の皮で巻いて、タレ(甜面醤・醤油・蜂蜜)につけて食べます。とても美味しかったです これで2人ともコロナによる自宅待機から解放されたので、来週から私が夕食作りに復帰します
デザートはFRENCH POUND HOUSEの苺ショートケーキです とても美味しかったです
伊藤比呂美著「道行きや」(新潮文庫)を読み終わりました 伊藤比呂美は1955年、東京生まれ。詩人。小説家。1978年に詩集「草木の空」でデビュー 80年代の女性詩ブームをリードする。また、「良いおっぱい、悪いおっぱい」など育児エッセイの分野も開拓した 1997年に渡米後も、熊本の両親の遠距離介護と創作活動を続け、99年「ラニーニャ」で野間文芸新人賞、2006年に「河原荒草」で高見順賞、2007年に「とげ抜き新地蔵縁起」で萩原朔太郎賞、翌年に紫式部文学賞、21年に「道行きや」で熊日文学賞を受賞するなど次々と文学賞を受賞しています
巻末の「解説」をブレイディみかこさんが書いていますが、この本に収録されている文章のほとんどは、新潮社の「波」に連載されていたもので、その時のタイトルは「道行きや」ではなく「URASHIMA」だったとのことです なぜ彼女が知っていたかと言えば、彼女も同じ「波」にエッセイを連載していたからだそうです 本書の冒頭のエッセイのタイトルは「うらしま」になっていて、カリフォルニアで暮らし、そこで夫を看取り、愛犬とともに日本に戻った著者が、竜宮城から帰ってきた浦島太郎のように日本のあれこれに驚く様子が綴られています
「20数年前、わたしは、たけだけしい中年の女で、更年期もまだだった。それが今は60数歳。もう経血なんぞひとったらしも出てこない。白髪は蓬々として、皮膚は皴々として、ちょっと無理をすると、膝にひびいて腰にくる これもまた浦島の、玉手箱をあけたときの気分だった。老婆の浦島は週のうち3日間は東京の早稲田にいる。その間は友だちの家に居候している。20代の頃からの、気の置けない女友達なのだった。そして4日間は、熊本で犬を連れて外を歩く」
彼女は、アメリカ滞在中は執筆活動をしながら、両親の遠距離介護のため定期的に熊本に戻るという生活を続け、夫が亡くなってからは熊本に戻り執筆活動を続けながら、早稲田大学で教鞭をとるという生活を送っています つまり彼女はどこで生活していても、常に”移動している”あるいは”旅している”のです タイトルの”道行き”は、一般的には「歌舞伎や浄瑠璃の中の、主に相愛の男女が連れ立って旅に出る”駆け落ち”」をイメージしますが、この本の中に何度か出てくる「道行き」の使いかたをみると、男女の区別はなく、「誰か、あるいは何かがない寂しさを伴った旅」のように思います
「粗忽長屋」というエッセイでは、メガネをなくした失敗談を語っています
「粗忽者はわたしである。とにかく物をなくす。落とす。そして忘れる こないだ犬をなくしかけたことは、もう話した。財布を忘れて、羽田で待ち合わせていた編集者 佐藤さんに3万円借りて帰ったことも話した。(中略)そんなことが日常茶飯事だ。この1週間でメガネを3本なくした 1本はタクシーの中に置き忘れた。飲みに行った帰りだった。タクシー会社の名前を思い出せなかった。もう1本は大学で落とした(後で見つかった。わたしは大学の落とし物カウンターの常連だ)。置き忘れたのは度入りのメガネで、わたしはそのメガネをかけてるつもりで、本屋で買った老眼鏡をかけ、何にも見えないのに、平気で人としゃべり、地下鉄に乗り、東京を渡り歩いて、羽田に着いて、飛行機に乗ろうとして、いつものメガネじゃないのに気づいた そして3本目のメガネは、いつなくしたかもわからない」
これは他人事ではありません 私もこれまで少なくとも3本はなくしています。しかも1本数万円もするチタンフレームのメガネです 粗忽者はわたしです
「詩人だなあ」と思う文章に接することも少なくありません 犬の散歩で河原を歩いている時の文章は次のように書かれています
「空中には蝙蝠がポトホトと飛んでいる。高いところを鴨が数羽飛んでいく。その腹が白いのである。椋鳥や燕はとっくにねぐらに入った。あとは暗く暗く沈んでいくだけだ。その中をわたしは犬を連れて歩きつづける。そこに見えてくるのが植物の声だ。植物の声だ。植物がこの河原いっぱいに繁茂して、一つ一つ、種の単位ではなく個の単位になって一つ一つの株が一斉に声を発しているのである。植物は動物以上に荒々しく、動物以上に性的に、生殖的になり、動物以上に他者に取りついたり取って食ったりしながら、ひろがろうのさばろうとする。藪の中に隠れひそむ雉や狸、牛蛙や蝮などという存在は、植物に比べれば穏やかなものだ。植物のそういう性向を、わたしは室内でそだてた観葉植物たちから見て取った」
「コウモリがポトホトと飛んでいる」という表現は唯一無二です 「そこに見えてくるのは植物の声だ」という表現も普通は使わない。声が見えてくることはあり得ません こうして文章をチェックしていくと、彼女は言葉を慎重に選んでいることが分かります
常に移動しながら人生を送る60代のインテリ女性の生きざまが赤裸々に綴られています お薦めします