18日(日)。昨日の朝日朝刊「オピニオン&フォーラム 耕論」で「2022年の第九」を取り上げていました ウクライナ国立歌劇場の音楽監督・指揮者のミコラ・ジャジューラ氏(1961年・生)、音楽学者の岡田暁生氏(1960年・生)、指揮者の佐渡裕氏(1961年・生)が「第九」についてそれぞれの想いを語っています 記事のリードには「ベートーべンの交響曲第9番『歓喜に寄す』の季節が来た。だがウクライナで無残な戦争が続く今年、『抱き合おう、幾百万の人々よ』と歌い上げる第九を、私たちはどう聴けばいいのか」とあります
ウクライナ国立歌劇場の音楽監督・指揮者のミコラ・ジャジューラ氏は、概要次のように語っています
「ウクライナ国立歌劇場は今年の年末、日本で第九を演奏する バレエを含め総勢200人で来日した。この困難な時期に招いてくれたことを感謝している 戦争が始まり、キーウにある歌劇場のメンバーの半分以上が一時は国外に逃れた しかし現在は、ウクライナでの芸術活動を続けるために多くが戻ってきている 電力施設が攻撃され、キーウでは停電が起き、歌劇場でも電気が消えるのはしばしば、通信も途絶えがちで、ろうそくの火で演奏を続けている われわれは十数年前から何度も年末に来日し第九を演奏してきた しかし、今年はこれまでと違う第九になるだろう。それはこの曲が平和と人類の友情を歌い上げる内容だからだ メンバーは2月以降、戦争の日々を暮らすなかで思いを新たにしている。日本の皆さんにはそれを感じ取ってほしい 私はキーウに生まれ、旧ソ連で育ち、音楽を学んだ。しかしウクライナに再び平和が訪れるまで、自国ではロシアの作曲家の作品を指揮しないと決めている 1日も早くウクライナに平和が訪れ、今年とは違う歓喜に満ちた第九を演奏できることを願っている」
京都大学教授で音楽学者の岡田暁生氏は、概要次のように語っています
「ロシアのウクライナ侵攻とコロナで、これまで通りに『第九』を演奏し、歌い、楽しむのは自明でないことが決定的になった 第九が歌う『抱き合おう、幾百万の人々よ』にイエローカードが突きつけられたのは明らかだ。コロナでは『抱き合う』ことが不可能になり、ウクライナ侵攻は、第九が象徴する市民社会や民主主義のもろさを示した そうした状況で、ただ熱い感動を第九に求めるのは、現実から目をそらすことにほかならない。第九は良くも悪くも政治的に利用されやすい作品だ しかし決して『御用音楽』の烙印を押されることはなかった。欧州連合は第九を『欧州の歌』にした。第九なら誰でも納得するのだ。第九はやはり、とてつもない名曲だ 2022年の終わりにこの曲を演奏するなら、ただ『お客さんが集まるから』でやってほしくない そして単に『歌って世界の平和を願う』だけでなく、どんなメッセージを送るのかを強く意識してほしい 演奏者には、芸術家としての社会意識が問われるだろう。第九の第4楽章は、一直線に盛り上がって終わるのではない。終盤で急にテンポが落ちて、視点をぐっと引いた印象を残し、それから慌ただしくコミカルとも思えるようなエンディングを迎える あえて、そこに焦点を当てるのもいいかもしれない。あるいは第4楽章をあえてカットして、美しい第3楽章の静けさで第九を終わるぐらいの実験をしてもいいと思う」
指揮者の佐渡裕氏は、概要次のように語っています
「これまで200回ほど第九を指揮してきた 今年も6回コンサートをする。東日本大震災直後の2011年3月、突然、ドイツから電話が入り、『日本のために第九を指揮してほしい』と提案され、デュッセルドルフで当地の交響楽団とケルン放送交響楽団の合同楽団のタクトを振った 『この状況でFREUDE(歓喜)と歌えるか』と思ったのも事実だ しかし演奏後、約2千人の観客から受けたのは拍手ではなく黙祷だった。忘れがたい記憶だ ベートーべンがこの曲を作った当時、欧州は戦争が続き、疫病もはびこり、階級間の分断も激しかった その様相は今と似ている。ウクライナにロシアが攻め込み、米国のトランプ政権発足に始まった自国ファーストの風潮で分断が広がり、コロナ禍に世界はあえいでいる 現実はこんな世界だが、そうであってはならない。分断された人々も楽しく一緒に歌うことで、喜びを分かち合おうではないか、理想の実現に向け、手を一つに取り合おう、互いに抱き合おうーと求めている 抱き合うには、互いを尊敬し合わなければできない。ベートーベンは、人間の本能の中には他者を尊重する思いが根差しているに違いないと信じているからこそ、一つの音楽の中に、喜びとともに抱き合えというメッセージを共存させているのだと思う どれだけの力があるのか分からない。それでも、歌っている瞬間、地球のどこかで戦争が起きていることを意識しての第九になるだろう」
以上のように三者三様の立場から「第九」について語っています ウクライナ国立歌劇場のミコラ・ジャジューラ氏の「ウクライナに再び平和が訪れるまで、自国ではロシアの作曲家の作品を指揮しないと決めている」という言葉は、不条理な戦争に巻き込まれた当事者としての発言として重みがあります また、音楽学者・岡田暁生氏の「第4楽章をあえてカットして、美しい第3楽章の静けさで第九を終わるぐらいの実験をしてもいい」という主張は、有料のコンサートでは非現実的です 気もちとしては理解できても、ほとんど詐欺行為と捉えられるでしょう そして、佐渡裕氏の「どれだけの力があるのか分からない。それでも、歌っている瞬間、地球のどこかで戦争が起きていることを意識しての第九になるだろう」という言葉は、演奏する側からの心構えとして受け止められると思います
3人に共通しているのは「ロシアのウクライナ侵攻をきっかけに、『第九』の聴き方がこれまでと違ってきた」ということです さらに、コロナ禍がベートーヴェンの『抱き合おう、幾百万の人々よ』というメッセージを否定する方向に働いているということです 以上 3人の見解を胸に、この日の「第九」を聴くことにします
ということで、わが家に来てから今日で2897日目を迎え、米ツイッター社が、米主要メディアの複数の記者アカウントを凍結して反発を招いている件で、国連は16日、言論の自由を損なうとして懸念を表明した というニュースを見て感想を述べるモコタロです
そもそもマスク氏がツイッターを買収したのは 言論の自由の尊重じゃなかった?
昨日、サントリーホールで新日本フィル「第九」特別演奏会を聴きました プログラムは①J.S.バッハ「トッカータとフーガ ニ短調 BWV565」、②A.ギルマン「ヘンデルの『頭を上げよ』による行進曲」,③ベートーヴェン「交響曲第9番 ニ短調 ”合唱付き” 作品125」です 出演は①②のオルガン独奏=室住素子、③のテノール=宮里直樹、バリトン=平野和、ソプラノ=高野百合絵、メゾ・ソプラノ=清水華澄、合唱=二期会合唱団、栗友会合唱団。管弦楽=新日本フィル、指揮=佐渡裕です
開演前にパトロネージュ部の登原さんとお話ししましたが、ちょうど高校生の団体が2階席に移動するところでした 登原さんによると文化庁の助成事業の一環とのことでした オケのメンバーが手分けして学校を訪ねて演奏する「アウトリーチ」活動も素晴らしいと思いますが、こうしてフル・オーケストラをコンサート会場で直接聴くことが、何にも増して感動を与え、将来の定期会員を開拓する上での絶好の機会になると思います こうした事業をどんどん取り込んでほしいと思います 登原さんをはじめオケを支える事務局で働く皆さんはご苦労が絶えないと思いますが、クラシック音楽の灯を消さないためにも頑張ってほしいと思います また オケとともに現場の第一線で頑張っている彼女たちを応援したいと思います
プログラム前半は室住素子によるパイプオルガンの演奏です
1曲目はJ.S.バッハ「トッカータとフーガ ニ短調 BWV565」です この曲はヨハン・セバスティアン・バッハ(1685ー1750)が1708年以前に作曲した作品で、バッハのオルガン曲の中で最も人口に膾炙した作品です
室住素子が2階正面のパイプオルガン席に着き、さっそく演奏に入ります 重低音がホールを振動させる体感は他に代えがたい体験です バッハのオルガン曲を聴くたびに俄かクリスチャンになります
2曲目はアレクサンダー・ギルマン(1837ー1911)の「ヘンデルの『頭を上げよ』による行進曲」です まるでクリスマス・ソングのような曲想で、楽しく聴けました
ところで10ページから成るプログラム冊子には、上記の2曲の解説がありませんでした 新日本フィルはこの日を含め5回「第九」コンサートを開きますが、オルガン曲が演奏されるのはこの日だけのようです そういうこともあって、共通プログラムとして省略したのかもしれません しかし、1年に1度「第九」しかコンサートを聴かない人もいるでしょうから、「第九」とともに曲目解説があった方が親切だと思います クラシック人口を少しでも増やすため、こうした小さな努力をした方が良いと思います
プログラム後半は、ベートーヴェン「交響曲第9番 ニ短調 ”合唱付き” 作品125」です この曲はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770ー1827)が1818年に着手し、1822年から24年にかけて本格的に作曲、1824年5月7日にウィーンのケルントナートーア劇場で初演されました 第1楽章「アレグロ・マ・ノン・トロッポ、ウン・ポコ・マエストーソ」、第2楽章「モルト・ヴィヴァーチェ」、第3楽章「アダージョ・モルト・エ・カンタービレ」、第4楽章「プレスト ~ アレグロ・アッサイ」 の4楽章から成ります
最初にP席に二期会と栗友会の合同合唱団のメンバーが入場し、女声陣(55人)が左右のサイドに分かれ、中央に男声陣(41人)が市松模様配置でスタンバイします そして、オケのメンバーが配置に着きます。弦は左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、その後ろにコントラバスという いつもの新日本フィルの並び コンマスは特任コンマス・伝田正秀、アシスタント・コンマスは立上舞です 第2ヴァイオリンのトップには元N響第2ヴァイオリン首席・大林修子がスタンバイ、さらにチェロのトップには東京フィルの首席が客演しています。「第九」公演ならではの変則布陣と言えるかもしれません
佐渡裕の指揮で第1楽章に入ります 中盤でチェロが凄まじい渾身の演奏を展開していたのが印象的でした ティンパニの打ち込みが心地よく響きます 佐渡の指揮は時に何かに対する怒りを表しているように思いました 第2楽章ではマルコス・ペレス・ミランダのクラリネット、野津雄太のフルートをはじめ木管楽器が冴えていました 第3楽章に入る前にオケがチューニングを行い、その間に4人のソリストが入場しオケの後方にスタンバイします
私は「第九」の中では第3楽章が一番好きです 「平和」とか「安心」とかいう言葉を音楽で表現したらこういう曲になるのではないか、とさえ思っています この楽章を聴くたびに思い出すのは、ファスビンダー監督による1979年製作西ドイツ映画「マリア・ブラウンの結婚」です この映画は、「1943年、マリア(ハンナ・シグラ)はヘルマン・ブラウンと結婚式を挙げたが、半日と1夜の新婚生活のあとヘルマンは東部戦線に出発する 戦争が終わってもヘルマンは帰ってこなかったが、マリアは夫の生存を信じて、尋ね人のプラカードをさげて駅に通った・・・」というストーリーです 冒頭のこのシーンでバックに流れていたのが「第九」の第3楽章でした それは、マリアが来るべき第4楽章の歓喜の世界を信じて夫を待っていることの象徴のように流れていました また、この楽章を聴きながら、ウクライナの人たちのことを想いました。いまこの瞬間にも理不尽な生活を強いられている彼らのことを 彼らはまだ「第3楽章」に達していない。まだ混沌とした「第1楽章」か、激しい「第2楽章」に留まっている。いつになったら「第3楽章」を経て「第4楽章」の歓喜の世界を迎えることが出来るのか、と
佐渡の指揮で第4楽章が嵐のような激しい音楽で開始されます それまでのテーマが否定され、低弦により「歓喜の歌」のテーマが奏でられます 再び嵐の音楽に戻り、バリトンが「おお友よ、こんな音楽はよそう!・・・」と歌います。そして、テノール、メゾ・ソプラノ、ソプラノが加わり、さらに合唱が加わり「歓喜の歌」を歌い上げます 佐渡はスケールの大きな演奏を展開します 曲の終盤、管弦楽によって「アレグロ・アッサイ」がアグレッシヴに繰り広げられ、曲が終結するや否や、満場の拍手とブラボーがステージに押し寄せました この曲には「指揮者のタクトが降ろされるまで拍手やブラボーはお控えください」というアナウンスは無意味です こうした注意は演奏される作品によってアナウンスしたりしなかったり区別すべきです。たとえばチャイコフスキー「交響曲第6番”悲愴”」などは終結部が静かに終わるので、すぐの拍手は控えるようアナウンスしても良いかもしれません
新日本フィルは、このコンサートからスマホ等によるカーテンコールの撮影が可能になりました 記念に写メしておきました