「死にたい」と相手が言ったら、まずは「聴く」ことに注力すること。
たとえ相手が独り善がりな考えに基づいていたとしても、まずは相手の言い分に耳を傾ける。
「死にたい」という気持ちの向こう側にある、現実の悩みや困ったことを明らかにするためだ。
相談者がすべきことは、自殺の是非を巡っての抽象的な議論をすることではない。
現実の当事者の悩みや困ったことを少しでも解決へと近づけることだ。
まず、第一に「死にたい」という告白は誰彼かまわずなされるものではない。
「この人なら理解してくれるかもしれない」という人を選ぶ。
相手は相談者を信頼している。
だが、告白は往々にしてタイミングが悪い、ということだ。
面談の終わりや別れ際に、いささか唐突になされる。
悪意ではない。
「今日こそ言わなければ」と念じながらもずっと、ちゅちょしてきたのだ。
そして、「この機会を逃したら、もうチャンスがない」と追いめられて、「清水の舞台から飛び降りた」のである。
そして、最後に「死にたい」と告げるのは「死にくらいつらいが、そのつらさが少しでも和らぐのであれば、本当は生きたい」からである。
つまり、それは揺らぐことのない自殺の計画を表明しているのではなく、「助けて」というメッセージなのだ。
松本俊彦・国立精神・神経医療研究センター部長(精神医)
ソフトバンク4連勝で「パ高セ低」の現実くっきり
10/24(木)デイリースポーツ
プロ野球は23日、ソフトバンクが巨人を破って3年連続の日本一に輝き、日本シリーズが終了した。
【写真】巨人 3戦9タコの丸&打率0割台の坂本勇“逆シリーズ男”
セ・リーグ王者の巨人が、球団史上29年ぶりの4連敗。完膚なきまでにたたきのめされ、原監督も「かなり、高い壁はある。我々もそれに対して、まだ積み上げていかなければいけないものはある」と完敗を認めた。
これで日本シリーズは7年連続でパ・リーグが制覇。交流戦でも10年連続でパが勝ち越しており、あらためて「パ高セ低」の現実が浮き彫りとなった。
特に、リーグ優勝の原動力となった坂本勇、丸がともに打率・077と抑え込まれた事実は重い。デイリースポーツ評論家の関本四十四氏は「坂本はパワーボールを恐れる事なく内角に投げ込まれ、ペナントレースでは仕留めていた外角のボールも拾うことができず、完全に崩されてしまった。丸も去年に続いて、日本シリーズでブレーキ。弱点を見抜かれているのだろう」と解説。150キロ後半の千賀を筆頭に剛速球を投げ込む投手が次々と登場し、力でねじ伏せられた。
昭和の頃から「人気のセ、実力のパ」と言われていたが、近年でここまで実力差が歴然としていた日本シリーズは珍しい。関本氏は「時代とともに、DH制の導入を真剣に考える時期にきているのかもしれない」と指摘。パの投手はセに比べて交代期が少ないことでよりタフになると言われており、こうした背景が実力差につながっていると指摘する声は多い。
実際、セパ両リーグで選手、コーチを経験した橋上秀樹氏はかつて「セはミート重視の傾向だが、パは田中や大谷など目玉投手をどう攻略するかを考え、力強いスイングを身につけることを重視してきた」と語っていた。巨人から日本ハムに移籍して才能を開花させた大田も「ハムの選手は本当に強く振る」と、移籍してすぐ練習の違いに気づかされたという。
アマチュアでも大学リーグは東京六大学野球連盟など一部を除いて、DH制。関本氏は「社会人もDHで、何年も打者の練習をしていない選手が、プロに入ったら打席に立つことがある。裾野がやっていないことをプロでやるというのも、違和感はある」という。
セリーグ内でもDH制導入の議論はたびたび行われている。ただ、DH制導入はセパの色分けや戦術面での醍醐味(だいごみ)が失われたり、野手の年俸高騰につながったりと、さまざまなデメリット面を懸念する声もあり、実現へのハードルは低くない。
実力差を埋めるため、さまざまな角度からの検証は必要。4連敗後、原監督が語った「宿題、課題というものを残した状態で、また来季につなげるということですね」という言葉を、リーグ全体で受け止める必要がありそうだ。
解説
「世界で最もパワフルなアラブ人100人」で女性トップに選ばれたナディーン・ラバキーが監督・脚本・主演を務め、レバノンの女性たちを繊細に描いたヒューマンドラマ。
不倫の恋に悩むラヤール、フィアンセに過去を隠すニスリン、美しい女性に心惹かれるリマ、女優志望のジャマル、人生を諦める初老のローズ。ニスリンの結婚式を前にそれぞれの人生が動き出す。
『キャラメル』(アラビア語原題: سكر بنات ラテン文字化: Sukkar Banat スッカル・バナート 英題: Caramel)は、2007年製作のレバノン映画。監督および主演は、ナディーン・ラバキーによる。
タイトルの由来であるキャラメルは、中東ではムダ毛処理に使う。
砂糖、レモン汁、水を煮詰め、水飴状にしたもので、皮膚に接着してムダ毛と一緒に剥がすのである。
タイトルには、甘味と塩気と酸味があるキャラメルで、時には火傷(やけど)するということも含んでいる。
ベイルートにあるヘアエステサロンのオーナーのラヤールは、30歳の独身。仕事が手につかず恋人の電話を待ち焦がれる。
ラヤールは恋人が忘れた財布から、恋人の妻子の写真を発見する。サロンのヘア担当ニスリンは、婚約者に隠しごとがある。
シャンプー担当リマは、不思議な顧客女性に心奪われる。既婚女性ジャマルはサロンの常連で、俳優オーディションに明け暮れる。
サロンの向かいの住人ローズは、姉の世話に悩む。登場人物たちは明るく振る舞いつつ、それぞれの秘密を抱えながら、人生を展開させる。
監督 ナディーン・ラバキー
脚本 ナディーン・ラバキー
ジハード・ホジェイリー
ロドニー・アル=ハッダード
製作 アンヌ=ドミニク・トゥーサン
キャスト
ラヤール(サロンのオーナー): ナディーン・ラバキー
ニスリン(サロンでヘア担当): ヤスミーン・アル=マスリー
リマ(サロンでシャンプー担当): ジョアンナ・ムカルゼル
ジャマル(俳優志望): ジゼル・アウワード
ローズ(仕立て屋): シハーム・ハッダード
ナディーン・ラバキーの画像
「存在のない」少年の告発のまなざしは、すべての大人に向けられている
この映画には、二種類の「存在のない子供たち」が登場する。12歳の少年ゼインの場合は、両親が出生届を出さなかったから。赤ん坊のヨナスは、母親のラヒルが不法移民だから。どちらも法的に存在していない。
そんな二人が肩を寄せ合って生きる。家出してラヒルに拾われたゼインがヨナスの子守りをしていたとき、ラヒルが警察に拘束され、帰れなくなったからだ。
氷と砂糖をミルク代わりに与え、懸命にヨナスの面倒を見るゼイン。
12歳の弱者が、より幼く弱い者をかばいながらサバイバルする姿に、胸が痛まない人はいないだろう。
しかし、この映画の根底に流れるのは、そうした状況から醸し出される感傷ではなく、そうした状況を生み出す大人たちに向けられた怒りだ。
その怒りの矛先は、まず子供を労働力としかみなさず、愛も教育も与えないゼインの両親に向けられる。
そして、親たち(彼らもかつては存在のない子供たちだったのだろう)を、そんな大人にさせた社会に対しても。ゼインが両親に向けて放つ「世話できないなら産むな」という告発は、世話されない子供たちを放置している社会に向けられた言葉でもある。
弱者の視点から社会問題をえぐる。そこに、この映画の芯の強さがあり、共感の源泉がある。
実際、劇中で扱われている社会問題は、少女の強制結婚、子供の人身売買、不法移民など、日本にはなじみの薄いものが多い。
それにも関わらず「他人事」に思えないのは、育児放棄や虐待のニュースが後を絶たない日本の現実と呼応するドラマでもあるからだ。ゼインは、「生まれてこなければよかった」という理不尽な思いにかられながら生きている世界中の子供たちの代弁者だ。彼の告発のまなざしは、「生まれてきてよかった」と言える社会を実現する責任があるすべての大人に向けられている。
ゼイン役のゼイン・アル=ハッジは、レバノンに逃れて来たシリア難民。過酷な日常をたくましく生き抜きながらも、自身の非力さと限界に突き当たり、涙する場面が切なさをかきたてる。彼を筆頭に、ほとんどの出演者は役柄と似た背景を負っているという。
これほどのリアルな存在感に圧倒されたのは、実在のストリート・チルドレンを起用した「サラーム・ボンベイ!」以来かもしれない。
(矢崎由紀子)
「両親を訴えたい」育児放棄、路上生活、児童婚…貧困・移民問題を少年の視点から描く「存在のない子供たち」
2019年7月19日 15:00
ナディーン・ラバキー監督
[映画.com ニュース]2018年第71回カンヌ国際映画祭のコンペ部門で、審査員賞とエキュメニカル審査員賞を受賞、第91回アカデミー賞と第76回ゴールデングローブ賞外国語映画賞にもノミネートされたレバノン映画「存在のない子供たち」が、7月20日公開する。
貧民街で生まれた少年が“自分を生んだ罪”で両親を告訴する、というセンセーショナルな導入から始まり、子どもの視点から同国の貧困・移民問題を抉り出したドラマ。
来日したナディーン・ラバキー監督に話を聞いた。
主人公はベイルートのスラム街で暮らす12歳のゼイン。貧しい両親が出生届を提出していないために、証明書を持たない子供だ。同じくIDのない妹は、初潮を迎えた後、形式的な結婚という形を取り、中年男性に売られてしまう。
家出したゼインは、エチオピアからの不法移民労働者の女性ラヒルと知り合うが、ラヒルが逮捕され、彼女が残した赤ん坊の面倒を見ることになる。子どもだけでの生活が続く中、ゼインは妹が妊娠し死んだことを知る。
主人公のゼインを演じた、同名のゼイン・アル=ラフィーアは、シリア難民として家族でレバノンへ逃れたものの、貧しい生活を送り、学校になじめず10歳からアルバイトで家計を助けていた少年。ゼインを含めたキャストほとんどが、プロの俳優ではなく、難民や元不法移民、そしてベイルートの貧民街で暮らす人々だ。
(C)2018MoozFilms
「その理由は、演技をして欲しくなかったのです。これほどまでの苦難を描く中で、役者経験のない方に、飢餓感だとか、誰にも気づかれない透明人間のような人物を演じてください、と
いうのはとてもリスペクトを欠くこと。脚本のあるフィクションのドラマですが、作り物にしてはいけない、そういった思いが強かったのです。
彼らと一緒にこの作品を作り、自分たちの経験を通して、どんなことを口にするのか、どんなことを感じるのかを彼ら自身に表現して欲しかったのです。
とはいえ、脚本には3年をかけました。長いリサーチの中で、実際に出会った人々や、体験を観察し、ディテールを大事に作りました。
撮影は、脚本があるからと決め込まず、彼ら自身の経験を物語に寄せていきました。フィクションとリアリティ、彼らもどちらかわからないような経験をしているので、時にはキャラクターではあるけれど、自分のことを話しているような瞬間もあったのです」
学校には行かず路上で日銭を稼ぐ子ども、移民、難民の不法労働者、児童婚、人身売買など、目を覆いたくなるような貧困と不幸が次々に描かれる。これは誇張されていないレバノンの現実なのだろうか。
「かなり厳しい状況なのは間違いありません。レバノンは人口4~500万人の国ですが、これまでにシリアからの難民を150万人受け入れており、レバノン人だけでなく、シリア難民の両方に負担が掛かっています。
同じ中東地域の近隣諸国が難民の60パーセントを受け入れており、レバノンでは7人にひとり、ヨルダンでは14人にひとりの割合。トルコでも350万人の難民を受け入れています。
もともと政治経済が苦しい状況の上での受け入れなので、このようなことが起こるのです。キャンプで寒さで凍死する人、飢餓や伝染病で亡くなる人、映画と同様(戸籍のような)証明書を持たず、存在を知られずに死んで行く子供たちがたくさんいるわけです。
また、サハルのように、生理が来たら結婚、という名の下に売り買いされる女児もたくさんいます。しかし、そのことについて誰も話をしようとはしないのです。この先、どのようにこの問題を解決できるかわかりませんが、状況はこの映画のように良くないのは確かです」
カンヌでの受賞をはじめ国際的な映画祭で注目を集め、世界の様々な国で劇場公開が決まった。この映画が世に出たことによって、出演者たちに良い変化がもたらされたという。
「例えば、ゼインは国連難民高等弁務官(UNHCR)の助けにより、今は家族でノルウェーで暮らし、これまでとは違う人生を送っています。学校で読み書きも学んでいるし、良いプログラムに参加できています。
ケニアの女の子ヨナスは幼稚園に通うようになり、路上でガムを売っていたシドラは、今は学校に通い、この作品に参加した影響か、映画作家になりたいと言っています。私たちも基金を立ち上げ、彼らの生活を助けたいと思っているし、少しずつ彼らが独立して、生活できるように、そんな未来になるように力添えをしたいと思っています。道は長いですが」
「大人は判ってくれない」で鮮烈なデビューを果たしたジャン=ピエール・レオを彷彿させる、名演を見せたゼインの将来については、「時には、演技に興味があるような話もしますが、まだはっきりと役者になるとは決めていないようです。けれども、彼のいちばんのオブセッションは鳥。今は鳥と何らかの仕事をすることが夢のようです。才能がある子なので、演技の道も考えて欲しいですね」と語る。
ラバキー監督自身は、これからもレバノンで作品を作っていきたいと考えているそう。「有名な役者を使えたり、外国での撮影、英語での製作など海外からのオファーにもちろん心を動かされることはあります。でも、一番大事なのは、自分の中で合点がいくこと。有名な人と撮影をするのが私の夢ではありません。自国で起きていること、自分の文化の中で起きていること、これからもその変化を撮っていきたい。それが私の真実ですから。ただ、なにか自分が伝えるべき必要に駆られたものが、外国の企画だったとしたら、もちろん可能性はゼロではありません」
キーワードは三つある。
「廃用性委縮」「承認要求」「費用対効果」
「廃用性委縮」寝たきりの状態が長く続くと。筋肉や関節が委縮してしまう。
基本的には身体的な衰えを指すことばであるが、精神的な部分でも言えるはずだ。
つまり、高齢者が何歳になっても働き続けるためには、まずはいつまでもその意欲を持っていなければならない。
では、どうすれば意欲を持ちつづけらるのか。
ここで「承認要求」が大切になる。
「誰かに認めてもらいたい」と思う気持ちである。
働く意欲を持ち続けるためには、この「誰か」をなるべく広く社会が(機会を)開くことが重要だ。
(実際、70歳以上の高齢者を新規に雇う企業、組織は皆無である)
「費用対効果」それなりの見返りが必要。
働くためには、通勤の問題もある。
駅まで歩く、階段も上がり下りする。
そのことで、家に閉じこもっているより健康を手に入れやすくなる。
働くことでそういった「効果」を得られると考えるようにする。
経営労務コンサルタント 玄間 千映子さん
玄間 千映子 (著)
猪突猛進を否定、「自立」説く
人事・組織改革を専門とするコンサルタントとして活動する著者は、日本企業に対し米国式の人材開発・育成法の導入を強く求めている。
本書タイトルの「朗働」とは、雇用者一人ひとりが労働を苦役と考えず、自己実現を図る手段と捉えよという意味の造語。「朗働」を実現するための雇用システムの改革法について、米国の人事システムやルールを引用しながらわかりやすく解説する。
まず、ビジネスマンは「プラス思考」を持てと力説する。しかし、これまでの「ブレークスルー型」、つまり自らに鞭打つような「猪突猛進型」の思考とは異なるのが特徴だ。
本書では「深く考えない、悩まない」をモットーに、小さなことにくよくよしないで仕事の過程そのものを楽しむ法を説く。これは、1990年代の米国ビジネスマンに蔓延した心の病に対する治療にも通じる提案だ。結果的にはリスクに強い自立型の社員として必ず評価されるという。
さらに、そうした雇用環境を実現するため報酬制度、就業規則、評価システムの作り方などについても具体策を提案。管理者、被管理者相互の意識改革に役立てたい1冊だ。
(日経ビジネス2000/5/15号 Copyright©日経BP社.All rights reserved.)
-- 日経ビジネス
内容(「BOOK」データベースより)
人間にとって働くということは、物質的にも精神的にも豊かな人生を送るために欠かせないものである。
そして本来楽しいものでなければならないはずである。苦役であってはならなく、自己実現をはかるための「朗働」でなければならないはずだ。
そのためには、私たち一人ひとりが自分の能力を高める努力を絶えず行い、会社や他人に人生を委ねる「他力による管理」から「自力による管理」に考え方を変えていく必要がある。同時に企業は、学歴偏重や年齢重視の硬直化した雇用システムを抜本的に改革しなければならない。日本では、「アメリカでは解雇は日常茶飯事」と思われているが、実際はそうではない。このことを現地で学んだ著者は、日本での「雇用革命」の必要性を痛感した。本書では、できるだけわかりやすく日本の雇用システム改革の具体的提言を行ったものである。
内容(「MARC」データベースより)
会社も個人も変わらなければ生き残れない。「朗働」をキーワードに、危機に直面する日本の雇用を立て直す具体策を提言し、ビジネスマン個々の大胆な意識改革を促す。
家族だけでは育てられない
さて、ここでクイズです。
「近所の人たちがつくる育児ネットワークは、都市部と郡部のどちらで盛んだったでしょうか?」
日常のあいさつをする、などの通常の近所づきあいは、大方の想像どおり、郡部の方が盛んだった。
しかし、子育てをめぐる近所づきあいに限っては、予想を裏切り、都会の方が盛んだった。
この結果にはびっくりしたが、その後、当時、横浜市立大学教授だった矢澤澄子さんの横浜市の女性を対象とした調査などでも同じ結果が出た。
この不思議を説明するヒントになるのは、親族との距離だ。
郡部では夫の親、あるいは妻の親と同居している世帯がかなりある。これに対し、都市部では核家族が多く、祖父母を含めた親族が近くにいないケースが多い。
親族から孤立した核家族は、親と同居の世帯に比べて、子育てをめぐる近所づきあいに熱心だということもわかった。つまり都会に住む、親族に頼れない人ほど、やむにやまれず近所の人たちと育児ネットワークを作っていたというわけだ。
わたしはこれを「育児ネットワーク一定の法則」と名づけた。親族でもいい、近所の人たちでもいい。一方が無いときにはもう一方。母親たちは育児ネットワークを作って助け合って育児をしてきた。
母親だけ、家族だけで子育てができるなんて、いつの時代でも幻想だった。1960年代と1980年代の子育てを比較することからわかったのは、「家族だけでは育てられない」ということだった。
育児不安をもたらすものは何か
1980年代には「育児ノイローゼ」そのものにアプローチする研究も始まった。
「子どもがわずらわしくてイライラしてしまう」「自分一人で子どもを育てているのだという圧迫感を感じてしまう」「毎日毎日、同じことの繰り返ししかしていないと思う」といったチェックリストからなる「育児不安尺度」(育児ノイローゼは専門的には育児不安と呼ばれる)が開発され、育児不安はどのような要因によって引き起こされるのかという調査が積み重ねられた。
その結果、育児不安研究の先駆者である牧野カツコさんによれば、育児不安に影響する2つの重要な要因がみつかった。
第一は「父親の協力の欠如」。必ずしも父親がおむつを替えたりしなくても、子育ての悩みの聞き役になるだけでも、母親の孤立感は軽減される。
第二は、「母親自身の社会的ネットワークの狭さ」。育児に直接にかかわる育児ネットワークに限らず、趣味のサークルでもなんでも効果があるというのが面白い。父親にしても、友人にしても、母親自身が他の大人と交流する機会があり、孤立していないことが育児不安を軽減する。
牧野さんはまた、育児不安傾向のある母親もない母親も「子育て以外にも何かやらねばならないと思う」ことが「よくある」「時々ある」のは同じだという。
ところが実際に「子どもから離れてやりたいことができていると感じる」かどうかには差がある。そう感じることが多い人は、育児不安になりにくい。子どものためということで仕事をやめたり、自分のしたいことを我慢したりする母親は多いだろう。
しかしそれがイライラを高め、子どもに楽しく向き合えない結果につながるとは、なんと皮肉なことだろう。
きょうだい数がせいぜい2人になった世代が子育てを始めた1980年代、「育児ノイローゼ」が初めて社会問題となった。その前の世代が当たり前のように頼っていた親族ネットワークが縮小したことがひとつの要因だった。
育児不安に陥ったのは、社会的ネットワークを失い、孤立した母親たちだった。昔も今も、家族だけで立派に子どもを育てられた時代など、無かったのだ。ましてや母親だけの「ワンオペ育児」なんて、できるわけがない。
遡れば1980年代、わたし自身が子育てで一生懸命だった頃、「育児ノイローゼ」が社会問題になった。
その時、沸き起こったのが、若い母親世代へのバッシングだった。都会育ちで苦労を知らないからそんなことになる。偏差値世代は育児書に頼りすぎるからだ。
そして決まり文句の「昔の母親は偉かった」。昔は家族だけで立派に子育てしていたのだから、今もできないはずはない、と言われた。
自分が批判される立場の若い母親であり、社会学者の卵でもあったわたしは、なにかおかしいと思った。そこで兵庫県の委託調査をさせていただいた機会に、自分と同じ2歳児を抱える家族の調査を実施した。
そしてその結果を、1960年代に社会学者の森岡清美先生たちが東京郊外で実施した調査結果と比べた。立派だったと言って引き合いに出されるのは、だいたい1960年代の母親や家族だったからだ。
そして二つのことを発見した。
第一に、1960年代の幼児を抱えた母親たちは、近隣の人たちとあまり付き合わず「家族だけで」子育てしていたように見えるが、実は別世帯に住む自分の姉妹たちと頻繁に協力し合っていた。
これはわたし自身の子ども時代の経験とも合致する。田舎から出てきて東京各地に住み着いた母の姉妹たち4人は、毎週のように互いを訪問し合っていた。そのたび、わたしもいとこたちと顔を合わせ、きょうだいのように遊んだ。
「家族だけで」と言っても、その「家族」の範囲が今よりずっと大きかったのだ。正確に言えば、「家族」というより、「親族ネットワーク」だった。
親族による育児サポートとして、きょうだいの支援をあげる人はほとんどおらず、親族で頼れるのは子どもにとっての祖父母だけになっていた。
祖父母はいくらがんばってくれても、体力に限界がある。こんなに条件が違うのに1960年代の母親は偉かったと言われてもね、と反論できる根拠が見つかった。
しかし、1980年代の母親たちも、黙って耐えていたわけではない。
縮小した親族の絆の代わりに、近くに住む母親どうしで協力し合う育児ネットワークを作りあげていた。これがわたしの調査の第二の発見だった。
家族だけでは育てられない
さて、ここでクイズです。
「近所の人たちがつくる育児ネットワークは、都市部と郡部のどちらで盛んだったでしょうか?」
日常のあいさつをする、などの通常の近所づきあいは、大方の想像どおり、郡部の方が盛んだった。
しかし、子育てをめぐる近所づきあいに限っては、予想を裏切り、都会の
方が盛んだった。
この結果にはびっくりしたが、その後、当時、横浜市立大学教授だった矢澤澄子さんの横浜市の女性を対象とした調査などでも同じ結果が出た。
この不思議を説明するヒントになるのは、親族との距離だ。
郡部では夫の親、あるいは妻の親と同居している世帯がかなりある。これに対し、都市部では核家族が多く、祖父母を含めた親族が近くにいないケースが多い。
親族から孤立した核家族は、親と同居の世帯に比べて、子育てをめぐる近所づきあいに熱心だということもわかった。つまり都会に住む、親族に頼れない人ほど、やむにやまれず近所の人たちと育児ネットワークを作っていたというわけだ。
わたしはこれを「育児ネットワーク一定の法則」と名づけた。親族でもいい、近所の人たちでもいい。一方が無いときにはもう一方。母親たちは育児ネットワークを作って助け合って育児をしてきた。
母親だけ、家族だけで子育てができるなんて、いつの時代でも幻想だった。1960年代と1980年代の子育てを比較することからわかったのは、「家族だけでは育てられない」ということだった。
育児不安をもたらすものは何か
1980年代には「育児ノイローゼ」そのものにアプローチする研究も始まった。
「子どもがわずらわしくてイライラしてしまう」「自分一人で子どもを育てているのだという圧迫感を感じてしまう」「毎日毎日、同じことの繰り返ししかしていないと思う」といったチェックリストからなる「育児不安尺度」(育児ノイローゼは専門的には育児不安と呼ばれる)が開発され、育児不安はどのような要因によって引き起こされるのかという調査が積み重ねられた。
その結果、育児不安研究の先駆者である牧野カツコさんによれば、育児不安に影響する2つの重要な要因がみつかった。
第一は「父親の協力の欠如」。必ずしも父親がおむつを替えたりしなくても、子育ての悩みの聞き役になるだけでも、母親の孤立感は軽減される。
第二は、「母親自身の社会的ネットワークの狭さ」。育児に直接にかかわる育児ネットワークに限らず、趣味のサークルでもなんでも効果があるというのが面白い。父親にしても、友人にしても、母親自身が他の大人と交流する機会があり、孤立していないことが育児不安を軽減する。
牧野さんはまた、育児不安傾向のある母親もない母親も「子育て以外にも何かやらねばならないと思う」ことが「よくある」「時々ある」のは同じだという。
ところが実際に「子どもから離れてやりたいことができていると感じる」かどうかには差がある。そう感じることが多い人は、育児不安になりにくい。子どものためということで仕事をやめたり、自分のしたいことを我慢したりする母親は多いだろう。
しかしそれがイライラを高め、子どもに楽しく向き合えない結果につながるとは、なんと皮肉なことだろう。
きょうだい数がせいぜい2人になった世代が子育てを始めた1980年代、「育児ノイローゼ」が初めて社会問題となった。その前の世代が当たり前のように頼っていた親族ネットワークが縮小したことがひとつの要因だった。
育児不安に陥ったのは、社会的ネットワークを失い、孤立した母親たちだった。昔も今も、家族だけで立派に子どもを育てられた時代など、無かったのだ。ましてや母親だけの「ワンオペ育児」なんて、できるわけがない。
家族・親族にしがみつくしかない現実
1990年代に入ると、さらに雲行きが怪しくなってきた。
1980年代の育児ネットワーク研究は、親族に頼れなくなったら近所のひとたちと助け合い、子育てのための新しいネットワークを作り出す母親たちという、明るい方向性も示していた。
しかし、近所の人たちとのおつきあいは誰にでも簡単なことではない。「公園デビュー」という言葉が生まれ、育児をめぐる近所づきあいのストレスが指摘されるようになった。
1999年には、母親どうしのトラブルにより、育児仲間の子どもを殺す悲惨な事件まで発生した。音羽事件と呼ばれる事件である。「育児ネットワーク一定の法則」を実現できず、子育てに支障をきたすケースがじりじり増えてきた。
1980年代に比べて、2000年代には乳幼児の親の孤立と育児不安がさらに進んだという研究がある。
1980年に実施した調査の結果である「大阪レポート」と、それと比較可能な質問紙を用いて2003年から2004年に実施した調査にもとづく「兵庫レポート」を発表した大阪人間科学大学教授の原田正文さんは、20年以上の時を経た2つの時点の結果を比較している。
それによると、「近所でふだん世間話をしたり、赤ちゃんの話をしたりする人」が1人もいない母親の割合は4ヵ月検診の段階では16%から32%に倍増、「育児のことで今まで心配なこと」が「しょっちゅうあった」母親の割合は4ヵ月検診の段階では11%から14%に、3歳半では7%から14%に増加している。
とはいえ、「育児の手伝いをしてくれる方」がいると答えた割合は、年齢にかかわらず約60%から約90%に大幅に増加している。具体的には父親(つまり夫)と母方祖父母が倍以上手伝ってくれるようになっている。
すなわち、親族ネットワークから近隣ネットワークへの転換は芳しくなく、少なくなった家族・親族にしがみつくしかない様子が浮かびあがってくる。
この半世紀で変わったこと
このように半世紀ほどの歴史的変化を追ってみると、はっきりしているのはきょうだい数の減少という人口学的な条件と、その影響を受けた育児ネットワークの変化だった。
きょうだい数の減少は、多産多死から少産少死への変化という(専門的には人口転換と呼ばれる)社会の近代化に伴って起きる人口学的変化の結果なので避けることはできない。
それに伴ってなされるべき育児ネットワークの再編成がうまくいかず、十分な育児サポートを得られない孤立育児が増えてしまったというのが、日本の子育てが大変になった原因であることが見えてくる。
ここで、ちょっと待てよ、と思う人がいるだろう。
人口学的変化は近代化に伴う不可避の変化だと言った。それなら日本以外の社会でも同じ変化が起きているだろう。
なぜ日本だけが「世界の特異点」と見えるほど、子育てを負担に感じる社会になってしまったのだろうか。
この問いに答えるには、海外調査を含めた子育ての国際比較に乗り出さざるをえない。
1958年、東京生まれ。1980年、東京大学文学部卒業。1987年、東京大学大学院社会学研究科博士課程満期退学。兵庫県家庭問題研究所主任研究員、同志社女子大学専任講師を経て、1993~1994年、ケンブリッジ大学客員研究員。
1994~2003年、国際日本文化研究センター研究部助教授。2003~2004年、京都大学大学院文学研究科助教授。2004年から同教授。2015~2016年、ブレーズパスカル国際研究員。著作に『21世紀家族へ-家族の戦後体制の見かた・超えかた』(有斐閣、1994年)、『近代家族とフェミニズム』(勁草書房、1989年)、『近代家族の曲がり角』(角川書店、2000年)、『アジアの家族とジェンダー』(共編著、勁草書房、2006年)、Asia's New Mothers(共編著、Global Oriental, 2008)、『親密圏と公共圏の再編成―アジア近代からの問い』(編著、京都大学学術出版会、2013年)、『変革の鍵としてのジェンダー――歴史・政策・運動』(共編著、ミネルヴァ書房、2015年)、『徳川日本の家族と地域性――歴史人口学との対話』(編著、ミネルヴァ書房、2015年)など。
菅 孝行 (著)
内容紹介
三島の死には、戦時期から戦後に至る昭和天皇の言動への諌死の意味が込められていた。その死を通して戦後体制の欺瞞の構造を抉る。
内容(「BOOK」データベースより)
戦後民主主義とそこから生ずる偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろうと、考えていた私はずいぶん甘かった―。自刃の四ヵ月前にこう記した三島由紀夫が、戦後のはじまりに見てしまった決定的な欺瞞とはいったい何だったのか。天皇制と民主主義、対米従属と国粋主義。戦後日本の矛盾を見抜いた三島の先駆性とは。
著者について
1939年東京生まれ。評論家。東京大学文学部卒業後、東映に入社。京都撮影所で演出助手を務める。67年に退社。PR映画・CMの演出や、予備校講師などをしつつ、評論活動を行う。著書に『竹内好論』『関係としての身体』『戦後演劇』『感性からの自由を求めて』『佐野碩 人と仕事』『「天皇制論集」第一巻 天皇制問題と日本精神史』などがある。
人間教育の哲学を通して、どのように自分を変革し、教師は授業や生徒との関わり方にどのような具体的な変化を起こしているのか。
自らの言葉でしか、体験でしか、その人でなくてな伝えられないことがある。
他人の原稿を読んだだけでも伝わらない。
その意味で、「記録する」だけではなく「発表の場をつくる」ことに力を注ぐ。
「人間を中心とした教育」の発表の場は、子どもたちが聞いたとしても感動する内容である。
「教師によるエンパワーメント(内発力の開花)につて考えを巡らせる機会となる。
教師たちは、生徒の状況や思いを理解しようと努力し、知識の伝達だけでなく、子どもたちのさまざまな力を引き出し、伸ばし、生かし、発達させようとする。
さらに子どもたちが自由で多彩な夢を持てるよう、夢を実現できるよう、尽力する。
そのプロセスを通じて、教師自身(大人)もエンパワーメントされる。
教育とは、生徒とともに教育者が成長するものだ。
「人間教育」「人生教育」、それを実践することは難しい。
まずは、教育者自身が確信を持って行動を起こしていくことが求められている。
子どもたちへのエンパワーメント
1)信じぬく
2)ありのまま受け入れる
3)励まし続ける
4)どこまでも支える
5)心をつなぐ
教師のみならず、人材を育成する上で、心すべき<関わり>と<結びつき>の指針ともなる。
子どもたちに<こうあるべき>というあり方を押し付けるのではなく、まずありのままの姿を受け容れる。
問題行動と思われる行為を繰り返す子どもの背景には、必ず何か意味がある。
としかく、ありのままを受け容れる姿勢。
たとえ裏切られても<信じぬく>。
その信頼を基盤として、その子を励まし続け、具体的に支えていく。
それによって、初めて心がつながる。
心がつながった時に、子どもは必ず変わる。
可能性を信じぬいて、ありのままを受け容れ、励まし続け、どこまでも支えることによって、心がつながる。
「一人の可能性を信じぬく」ことだ。
理論や観念ではなく、自分の生き方の中で教育思想を体現する。
教育哲学を知るためには、実践する以外にない。
頭だけの知識ではなく、経験に基づく知識こそが大事である。
一人一人の生命の尊厳を説き、可能性を引き出す「人間教育」と「人生教育」の果たす役割は大きいものがある。
10/24(木) 神戸新聞NEXT
神戸市立東須磨小学校(同市須磨区)の教員間暴行・暴言問題で、神戸市が有給休暇の扱いとなっている加害教員4人の給与の支払いを差し止めるため、条例の整備を検討していることが23日、関係者への取材で分かった。条例案がまとまれば、開会中の市会定例会に提案したい考え。
【写真】暴行・暴言の被害に遭った男性教員から、児童に宛てたメッセージ
同市教育委員会は4人の暴行や暴言の事実を確認した上で、今月1日以降、有給休暇の扱いで休ませている。有給休暇は年20日与えられ、翌年まで繰り越しできる。今回の対応について、市教委は「『教壇に立たせるのは適当でない』と判断したが、自宅謹慎の制度がないため、代わりに有給休暇を取らせている」と説明する。
現行の制度では、処分が決まらない限り、4人には給与や手当が支払われる。市教委は弁護士による外部調査委員会の調査を踏まえて処分を検討する方針だが、同市や市教委には、現在も4人に月額給与が支払われていることについて、市民らから苦情が相次いでいるという。
こうした状況も踏まえ、同市は職員が今回のような重大事案を起こした場合、正式な処分が決定する前に、給与の支払いを停止する措置が取れるよう条例を整備する方針。
東須磨小の問題を巡っては、自主退職した場合は退職金も支払われるため、市教委は既に、加害教員の自主退職を認めないことを決めている。(石沢菜々子、長谷部崇)
【東須磨小教員間暴行・暴言問題】神戸市立東須磨小の30~40代の教員4人が、20代の若手教員4人に暴行や暴言、セクハラを繰り返していたことが神戸新聞の報道で発覚。被害教員の一人は激辛カレーを食べさせられる▽熱湯の入ったやかんを顔につけられる-など約50項目の被害を訴え、須磨署に被害届を出した。前任を含め校長の対応も不十分で、加害教員は指導を受けた後もハラスメント行為を継続していた。加害側4人は有給休暇扱いで業務から外れており、代わりの教員が既に配置されている。
祈りの心理学
【祈りの効果】心理学的にも『神頼み』には効果がある
信仰心のある人は、孤独感におちいることが少なく、心も安定するそうです。
また、信仰心は、幸福感のみならず、体の健康にも良い効果を及ぼすことがわかっています。
また、別の研究では…
自然にガンが消えてしまう現象(自然寛解)を経験した人に、その理由についてアンケートを行いました。
手を合わせることによって、心身ともに健康になれるということが、世界中で証明されています。
祈りの研究「精神神経免疫学」
なぜ、祈ることが、心身の健康に良いのでしょうか?
ハーバード大学やコロンビア大学は「祈り」の研究を始めています(精神神経免疫学)。
そして実際に…
「祈られている人」は、そうでない人より病状が良くなる
という研究報告もあります。
「科学的に説明のつかないことは受け入れられない」という人も多いのですが、
説明はできなくても「結果」は次々と出てきているのです。
メカニズムがわからなくても、効果はある
神様がいようが、いなかろうが…
手を合わせることで、心も身体も健康になれるのだから、やって損はないはずです。
祈りの効果まとめ
手を合わせるだけで…
心が安定する
体の健康に良い
神様を信じようが、無宗教だろうが、どちらでもいい。
願い事が叶っても、叶わなくても、どちらでもいい。
手を合わせること自体に意味がある。
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前進のためには、目標という「化城」を設定しなければんらない。
実は過程そのものが目的である。
つまり、仏道修行の果てに成仏があるのではなく、
仏法を行じ、弘める振る舞いそのものが、すでに仏の姿である。
何か特別の終着点があるわけではない。
広宣流布は流れそのものなのだ。
広宣流布(こうせんるふ)とは、法華経の教えを広く宣(の)べて流布すること。
略して広布(こうふ)ともいう。
日蓮系各派では、この語を「日蓮(自派)の教えを広める」という意味で用いている。
化城(けじょう)
苦しい悪路を行く隊商の指導者が、途中で幻の城を現して部下たちに希望を抱かせさらに目的地への旅を続けさせるというたとえ。
旅行者が最終の目的地があまりに遠いので途中で旅を放棄しないように、中間に神通力による城を造り、そこでいったん休んだうえで旅を続けさせるという話。
小乗仏教の悟りが、大乗の真の悟りに至るための方便にすぎないことをたとえる。
10/23(水) 神奈川新聞社
県警少年捜査課と宮前署は23日、県青少年保護育成条例違反の疑いで、川崎市立小学校教諭の男(23)=横浜市鶴見区上末吉5丁目=を逮捕した。
逮捕容疑は、6月29日、同区内に住む高校1年の女子生徒(15)宅で、女子生徒にみだなら行為をした、としている。「18歳に満たないことを知っていた。欲望を満たすためにやった」と供述、容疑を認めているという。
署によると、同容疑者は大学生だった昨年秋ごろ、出会い系のアプリで女子生徒と知り合った。川崎市教育委員会によると、同容疑者は4月に臨時的任用職員として採用された。市教委の石渡一城職員部長は「事実確認を行った上で厳正な対処をしていく」とコメントした。