3/6(土) 21:11配信
ELLE ONLINE
少年の名は、ビョルン・アンドレセン。“世界一の美少年”として輝いた彼の人生は、大人たちによって性的に搾取され続けた。そこに導いたのは、子どもへの愛情不在の家族、両親、そして祖母の業。
変わり果てた“世界一の美少年”の姿
『ミッドサマー』より
2019年、世界中でヒットした『ミッドサマー』。本編が終わると各国の観客席で次々に小さなどよめきが起きた。劇中、頭の白髪と髭を長く伸ばし、グロテスクな死を迎える気味の悪い老人。それを演じた役者の名前が、50年前、映画史に残る伝説の美少年タッジオを演じた15歳の男の子と同じだったからだ。
そのどよめきは、1971年5月23日、カンヌ国際映画祭『ベニスに死す』上映時のレッドカーペットに少年が登場した時のため息交じりのどよめきとは、まったく異なるものだった。
両親を失った幼少期
『ベニスに死す』より
1955年1月26日、ビョルンはスウェーデン・ストックホルムに生まれた。幼少期の思い出に両親の姿はほとんどないが、親の“業”はこの後、彼の一生に付いて回る。
デンマークで育った母はボヘミアンで、ヨーロッパを転々としながら過ごし、頻繁にパリの芸術家コミュニティに入り浸っていた。そんななか突然妊娠する。相手の男性は生まれる前に若くして亡くなったとされ、何者なのかもビョルンは知ることがなかった。彼の一生は父を喪う所から始まったのだ。
母は産んで1年もしないうちに彼を両親に預け自分はノルウェー人男性と結婚。しかし4年で破局してしまう。
『ベニスに死す』より。タッジオはポーランド人。そのためビョルンの台詞は吹き替えとなった。
母は、夫に捨てられた哀しみから抜け出せず、抑うつ状態に苦しむ。度々息子の前から姿を消してはまた戻りを繰り返し、そして、10歳のとき再び失踪。6か月後母の顔を見た時、彼女は死体となっていた。自殺だった。
「僕の人生に両親がいたことはないんだ」
父だけでなく、母にも捨てられ、愛情を受けないまま育った。『ベニスに死す』に関する当時の無数の来日インタビューでビョルンは家族に関する質問には、ほぼ祖母のことしか答えていない。他はわずかに祖父も存在することが語られているだけ。
祖母、自分がセレブになるために孫を売りに出す
『ベニスに死す』より。日本での人気が爆発し、竹宮恵子、増山法恵らボーイズラブ黎明期の作家にも影響を与えた。 Photo: Getty Images
しかし、この祖母も決して彼に愛情を与える存在にはならなかった。彼女は孫の美貌に目を付け、子役にして稼ごうと目論んだ。これは美容師としての稼ぎだけでは生活が苦しかったための仕方ない選択だと同情はできない。
祖母は自分がセレブになりたいタイプの人間だった。孫が働く傍らで豪華な装いでくつろぐ彼女は、周囲には保護者として愛情を注ぐよりも先に、ビョルンによってもたらされる金銭と名声に酔っているようにも見えた。自分のため、エージェントに言われるがまま、我が孫を業界に差し出していたのだった。
この時のブロンドとセーラー服の組み合わせは20世紀に入っても、彼へオマージュとしてあらゆる表現に取り入れられている。
ビョルンが小さな作品に出始め、『純愛日記』(’70)で主人公の不良仲間のひとりとしてスクリーンに出たころ、巨匠ルキノ・ヴィスコンティがトーマス・マンの小説『ベニスに死す』の映像化のため、欧州各地で開いた美少年のオーディションがスウェーデンでも行われることを耳にし、祖母に言われるままビョルンは参加する。これがのちの人生で彼の美を餌食にする蜘蛛の巣であることに気付きもせず……。
『ベニスに死す』より。主演のダーク・ボガート(左)もヴィスコンティによって輝きを取り戻した美青年俳優のひとり
『若者のすべて』(‘60)でアラン・ドロン、『夏の嵐』(‘54)でファーリー・グレンジャー、『白夜』(’57)でマルチェロ・マストロヤンニ、『地獄に堕ちた勇者ども』(‘69)でヘルムート・バーガー……美青年俳優を自らのミューズにしてきたヴィスコンティは、トーマス・マンだけでなく、オスカー・ワイルドや三島由紀夫など名だたる作家が描いた、「手に入れようとした途端に死に繋がる絶対的な美」を体現する“タッジオ”役を血眼になって探していた。
金髪碧眼の少年だけを集めたオーディション
『ベニスに死す』より。当時トーマス・マンのファンからは、原作をあまりに性的に映像化したと非難された。
タッジオは金髪碧眼でなければならない。この時の舞台裏が、後にヴィスコンティ自身が監修したTVドキュメンタリー「タッジオを探して」に遺されているが、ブロンドと青い目のローティーン男子のみが多数集合した現場は異様なものだった。
「ここからそこまで歩いて。はい、上半身裸になって。カメラに向かって笑って」
アシスタントによる無機質な命令と、それに戸惑う少年たち、それと対比するように舐めるようなじっとりとしたヴィスコンティの視線は、「タッジオを~」でもしっかりと映し出されている。この犯罪にも近い視線を平気で自ら記録に残したことが示すのは、彼に罪悪感がなかったこと。
男性たちの餌食になった10代
『ベニスに死す』より。タッジオは14才。ヴィスコンティは当初「背が高すぎる」とビョルンの起用を迷っていた。 Photo: Getty Images
オーディションのグロテスクさと裏腹に、ビョルンは見事に美の化身になり、生きる伝説となった。これでようやくセレブの仲間入り。ヴィスコンティは自分が取り立てた美形男優を度々起用することで知られる。あとは、作品選びに勤しむだけ。祖母もこれで愛してくれる。皆からも愛され、明るい未来が待っている……はずだった。
しかし、ヴィスコンティはカンヌ映画祭でカメラマンたちがため息交じりにどよめく傍ら、ビョルンをこき下ろした。撮影時から1才年を取ってどれだけ彼の美貌が失われたかを、16歳になってしまった彼にどれだけ価値がないかを語ったりもした。彼が理解できないことを前提にフランス語でいじり、記者たちも同調してそれを嗤う。何を嗤っているのか当惑する姿を見てまた嘲笑する。まるでいじめだ。
ヴィスコンティは隣にいる俳優ではなく、自分がフィルムに収めた、少年が性的な臭いを放つ直前の一瞬の美しさを自慢するだけ。まるでわずかな期間だけ光を放ちすぐに死んでしまったホタルのように、理想の美少年像に翳りが差したビョルンには、せいぜい作品のマーケティングのために“世界一美しい少年”として座っていることしか望まなかった。
それはまるで、かつて欧米人が植民地の奴隷を見世物にしたのと同じ構図。案の定ビョルンは彼自身の名前ではなく、役名“タッジオ”で呼ばれるようになり、人格がないかのごとく扱われたが、ヴィスコンティはそう仕組んだ責任を取らなかった。もちろん大人の俳優として昇らせる次の階段を用意することはなかった。
富裕層同性愛コミュニティに取り込まれて
いかにモノ扱いだったかは、『ベニスに死す』でビョルンに支払われたギャラからもわかる。その額、僅か5000ドル。主演ダーク・ボガートの100分の1に過ぎなかった。
それに飽き足らず、ヴィスコンティはさらにひどい仕打ちをしている。自分の所属するパリの富裕層ゲイ・コミュニティにビョルンを放り込んだのだ。
最初は役作りと称し、15歳のビョルンをゲイバーに連れて行った。アッシェンバッハに見入られるタッジオと同じ体験をするためだと。だが、これはヴィスコンティの自己承認欲求に過ぎない。珍しい希少な蝶を見せびらかしたのだ。
その時の経験を、のちにビョルンは新聞のインタビューでこう語っている。「(ヴィスコンティと)彼のスタッフにゲイバーに連れていかれたんだ。ウェイターたちに気まずくなるようなことをされて、みんなが舐めるような視線をぶつけてきた。まるで皿の上の汁を滴らせた肉を眺めるようにね」
母国から失踪
ゲイ・コミュニティでは多くの出会いがあったと語り、満たされない愛情の穴埋めになったことも認めつつ、「恥ずかしくて死にそうだった」とその時の衝撃を表現してもいる。
ビョルンは“social suicide”という言葉を使ってこの時説明したのだが、実際彼はこれをきっかけに恐ろしい「社会的死」を経験する。撮影が終わり16歳になった後も、ヴィスコンティと彼のスタッフはゲイバーに連れまわした。そこで行われていたのは、エスコートというと聞こえはいいが、大人の男性たちによる“愛玩具”のトレード。母と同じ轍を同じパリで踏んだのだった。
『ベニスに死す』より。この時の体験と、記者たちから「君はホモセクシャルなのか」と度々確認されたことで同性愛者嫌悪に。ゲイ役を避けていたが、後にそれは正しい選択ではなかった旨、発言している。 Photo: Aflo
そこで具体的に何が行われていたのか、本人は多くを語ってこなかったが、生活費と日々のプレゼントの代わりに(本人は何に対して支払われているのかわかっていなかった)、性的な搾取があったことは、いくつかの証言者により語られている。ヴィスコンティは出がらしになった“世界一の美少年”を、一種のオークションにかけたのだ。
『ベニスに死す』より。退廃的絢爛豪華さは貴族の出自を持つヴィスコンティの特徴的美意識。 Photo: Aflo
この行為に、ヴィスコンティの取り巻きはNOを言わなかった。彼はスタッフを、ビョルン曰く「ほぼ全員」同性愛者で固めており、“公然の秘密”とされたコミュニティの住人たちとしては、貴族の出自で世界的映画監督という権力者に楯突くことは、社会的死を意味する。彼らは16歳の少年の性的搾取に加担した。それが積極的であれ消極的であれ……。
『ベニスに死す』のポスターにもなったベヒシュタインを弾くタッジオ。ビョルンはクラシックピアノの訓練を受けており、そのことがこのシーンに真実味を持たせた。 Photo: Aflo
この時男性たちにされていることが自分の本当に求めている温かな何かとは正反対のものだとビョルンが気付くのは、ずっと後になってから。彼は、愛情が何かを知らなかった。
ビョルンはこう振り返る。
「僕のキャリアはいきなり世界のトップで始まり、そこからはひたすら落ちるばかりだったのさ」
共演者の女優ロミー・シュナイダー(中央左)とルキノ・ヴィスコンティ。 Photo: Getty Images
追い打ちをかけるように祖母と結託したエージェントはビョルンを搾取した。『ベニスに死す』が公開されたあとヴィスコンティから見放されるのと反対に人気が爆発した日本での仕事を祖母は応援した。来日中は本人もある程度楽しんだとはいえ、エージェントと祖母にとってそれはあくまでCMやレコード発売などで儲け目当てにすぎなかった。そのため、ビョルンは連日のハードスケジュールをこなすために、薬物を飲まされていたこともわかっている。
Photo: Getty Images
その後ビョルンは7年もの間映画界から姿を消す。
この間に、「かつての世界一美しい少年、すわ失踪か」「飛行機事故で死んだらしい」など死亡説が囁かれたりもした。いくつかの恋愛もしたが、決してうまくはいかなかった。人は自分が与えられなかったものは、相手に与えることは難しい。彼はひたすら愛を乞うも、他人を愛することがなかなかできなかった。愛されるばかりではいけないとわかっていても、自分の元を去ろうとする女性たちに向かって「俺を棄てるなんて! ひどい女だ」と責めることが止められない。
そうしてビョルンはついには母国を脱出せざるをえなくなるほど病んでいく。母と同じように。