大人たちに性的に食い物にされた“世界一美しい少年”~『ベニスに死す』ビョルン・アンドレセン 【毒家族に生まれて】

2021年03月06日 21時53分23秒 | 事件・事故

3/6(土) 21:11配信

ELLE ONLINE

少年の名は、ビョルン・アンドレセン。“世界一の美少年”として輝いた彼の人生は、大人たちによって性的に搾取され続けた。そこに導いたのは、子どもへの愛情不在の家族、両親、そして祖母の業。

変わり果てた“世界一の美少年”の姿

『ミッドサマー』より

2019年、世界中でヒットした『ミッドサマー』。本編が終わると各国の観客席で次々に小さなどよめきが起きた。劇中、頭の白髪と髭を長く伸ばし、グロテスクな死を迎える気味の悪い老人。それを演じた役者の名前が、50年前、映画史に残る伝説の美少年タッジオを演じた15歳の男の子と同じだったからだ。

そのどよめきは、1971年5月23日、カンヌ国際映画祭『ベニスに死す』上映時のレッドカーペットに少年が登場した時のため息交じりのどよめきとは、まったく異なるものだった。

両親を失った幼少期

『ベニスに死す』より

1955年1月26日、ビョルンはスウェーデン・ストックホルムに生まれた。幼少期の思い出に両親の姿はほとんどないが、親の“業”はこの後、彼の一生に付いて回る。

デンマークで育った母はボヘミアンで、ヨーロッパを転々としながら過ごし、頻繁にパリの芸術家コミュニティに入り浸っていた。そんななか突然妊娠する。相手の男性は生まれる前に若くして亡くなったとされ、何者なのかもビョルンは知ることがなかった。彼の一生は父を喪う所から始まったのだ。

母は産んで1年もしないうちに彼を両親に預け自分はノルウェー人男性と結婚。しかし4年で破局してしまう。

『ベニスに死す』より。タッジオはポーランド人。そのためビョルンの台詞は吹き替えとなった。 

母は、夫に捨てられた哀しみから抜け出せず、抑うつ状態に苦しむ。度々息子の前から姿を消してはまた戻りを繰り返し、そして、10歳のとき再び失踪。6か月後母の顔を見た時、彼女は死体となっていた。自殺だった。
 
「僕の人生に両親がいたことはないんだ」

父だけでなく、母にも捨てられ、愛情を受けないまま育った。『ベニスに死す』に関する当時の無数の来日インタビューでビョルンは家族に関する質問には、ほぼ祖母のことしか答えていない。他はわずかに祖父も存在することが語られているだけ。

祖母、自分がセレブになるために孫を売りに出す

『ベニスに死す』より。日本での人気が爆発し、竹宮恵子、増山法恵らボーイズラブ黎明期の作家にも影響を与えた。 Photo: Getty Images

しかし、この祖母も決して彼に愛情を与える存在にはならなかった。彼女は孫の美貌に目を付け、子役にして稼ごうと目論んだ。これは美容師としての稼ぎだけでは生活が苦しかったための仕方ない選択だと同情はできない。

祖母は自分がセレブになりたいタイプの人間だった。孫が働く傍らで豪華な装いでくつろぐ彼女は、周囲には保護者として愛情を注ぐよりも先に、ビョルンによってもたらされる金銭と名声に酔っているようにも見えた。自分のため、エージェントに言われるがまま、我が孫を業界に差し出していたのだった。

この時のブロンドとセーラー服の組み合わせは20世紀に入っても、彼へオマージュとしてあらゆる表現に取り入れられている。 

ビョルンが小さな作品に出始め、『純愛日記』(’70)で主人公の不良仲間のひとりとしてスクリーンに出たころ、巨匠ルキノ・ヴィスコンティがトーマス・マンの小説『ベニスに死す』の映像化のため、欧州各地で開いた美少年のオーディションがスウェーデンでも行われることを耳にし、祖母に言われるままビョルンは参加する。これがのちの人生で彼の美を餌食にする蜘蛛の巣であることに気付きもせず……。


『ベニスに死す』より。主演のダーク・ボガート(左)もヴィスコンティによって輝きを取り戻した美青年俳優のひとり 

『若者のすべて』(‘60)でアラン・ドロン、『夏の嵐』(‘54)でファーリー・グレンジャー、『白夜』(’57)でマルチェロ・マストロヤンニ、『地獄に堕ちた勇者ども』(‘69)でヘルムート・バーガー……美青年俳優を自らのミューズにしてきたヴィスコンティは、トーマス・マンだけでなく、オスカー・ワイルドや三島由紀夫など名だたる作家が描いた、「手に入れようとした途端に死に繋がる絶対的な美」を体現する“タッジオ”役を血眼になって探していた。

金髪碧眼の少年だけを集めたオーディション

『ベニスに死す』より。当時トーマス・マンのファンからは、原作をあまりに性的に映像化したと非難された。 

タッジオは金髪碧眼でなければならない。この時の舞台裏が、後にヴィスコンティ自身が監修したTVドキュメンタリー「タッジオを探して」に遺されているが、ブロンドと青い目のローティーン男子のみが多数集合した現場は異様なものだった。

「ここからそこまで歩いて。はい、上半身裸になって。カメラに向かって笑って」

アシスタントによる無機質な命令と、それに戸惑う少年たち、それと対比するように舐めるようなじっとりとしたヴィスコンティの視線は、「タッジオを~」でもしっかりと映し出されている。この犯罪にも近い視線を平気で自ら記録に残したことが示すのは、彼に罪悪感がなかったこと。

男性たちの餌食になった10代

『ベニスに死す』より。タッジオは14才。ヴィスコンティは当初「背が高すぎる」とビョルンの起用を迷っていた。  Photo: Getty Images

オーディションのグロテスクさと裏腹に、ビョルンは見事に美の化身になり、生きる伝説となった。これでようやくセレブの仲間入り。ヴィスコンティは自分が取り立てた美形男優を度々起用することで知られる。あとは、作品選びに勤しむだけ。祖母もこれで愛してくれる。皆からも愛され、明るい未来が待っている……はずだった。

しかし、ヴィスコンティはカンヌ映画祭でカメラマンたちがため息交じりにどよめく傍ら、ビョルンをこき下ろした。撮影時から1才年を取ってどれだけ彼の美貌が失われたかを、16歳になってしまった彼にどれだけ価値がないかを語ったりもした。彼が理解できないことを前提にフランス語でいじり、記者たちも同調してそれを嗤う。何を嗤っているのか当惑する姿を見てまた嘲笑する。まるでいじめだ。

ヴィスコンティは隣にいる俳優ではなく、自分がフィルムに収めた、少年が性的な臭いを放つ直前の一瞬の美しさを自慢するだけ。まるでわずかな期間だけ光を放ちすぐに死んでしまったホタルのように、理想の美少年像に翳りが差したビョルンには、せいぜい作品のマーケティングのために“世界一美しい少年”として座っていることしか望まなかった。

それはまるで、かつて欧米人が植民地の奴隷を見世物にしたのと同じ構図。案の定ビョルンは彼自身の名前ではなく、役名“タッジオ”で呼ばれるようになり、人格がないかのごとく扱われたが、ヴィスコンティはそう仕組んだ責任を取らなかった。もちろん大人の俳優として昇らせる次の階段を用意することはなかった。

富裕層同性愛コミュニティに取り込まれて

いかにモノ扱いだったかは、『ベニスに死す』でビョルンに支払われたギャラからもわかる。その額、僅か5000ドル。主演ダーク・ボガートの100分の1に過ぎなかった。
 
それに飽き足らず、ヴィスコンティはさらにひどい仕打ちをしている。自分の所属するパリの富裕層ゲイ・コミュニティにビョルンを放り込んだのだ。

最初は役作りと称し、15歳のビョルンをゲイバーに連れて行った。アッシェンバッハに見入られるタッジオと同じ体験をするためだと。だが、これはヴィスコンティの自己承認欲求に過ぎない。珍しい希少な蝶を見せびらかしたのだ。
 
その時の経験を、のちにビョルンは新聞のインタビューでこう語っている。「(ヴィスコンティと)彼のスタッフにゲイバーに連れていかれたんだ。ウェイターたちに気まずくなるようなことをされて、みんなが舐めるような視線をぶつけてきた。まるで皿の上の汁を滴らせた肉を眺めるようにね」

母国から失踪

ゲイ・コミュニティでは多くの出会いがあったと語り、満たされない愛情の穴埋めになったことも認めつつ、「恥ずかしくて死にそうだった」とその時の衝撃を表現してもいる。
 
ビョルンは“social suicide”という言葉を使ってこの時説明したのだが、実際彼はこれをきっかけに恐ろしい「社会的死」を経験する。撮影が終わり16歳になった後も、ヴィスコンティと彼のスタッフはゲイバーに連れまわした。そこで行われていたのは、エスコートというと聞こえはいいが、大人の男性たちによる“愛玩具”のトレード。母と同じ轍を同じパリで踏んだのだった。


『ベニスに死す』より。この時の体験と、記者たちから「君はホモセクシャルなのか」と度々確認されたことで同性愛者嫌悪に。ゲイ役を避けていたが、後にそれは正しい選択ではなかった旨、発言している。  Photo: Aflo

そこで具体的に何が行われていたのか、本人は多くを語ってこなかったが、生活費と日々のプレゼントの代わりに(本人は何に対して支払われているのかわかっていなかった)、性的な搾取があったことは、いくつかの証言者により語られている。ヴィスコンティは出がらしになった“世界一の美少年”を、一種のオークションにかけたのだ。


『ベニスに死す』より。退廃的絢爛豪華さは貴族の出自を持つヴィスコンティの特徴的美意識。  Photo: Aflo

この行為に、ヴィスコンティの取り巻きはNOを言わなかった。彼はスタッフを、ビョルン曰く「ほぼ全員」同性愛者で固めており、“公然の秘密”とされたコミュニティの住人たちとしては、貴族の出自で世界的映画監督という権力者に楯突くことは、社会的死を意味する。彼らは16歳の少年の性的搾取に加担した。それが積極的であれ消極的であれ……。


『ベニスに死す』のポスターにもなったベヒシュタインを弾くタッジオ。ビョルンはクラシックピアノの訓練を受けており、そのことがこのシーンに真実味を持たせた。 Photo: Aflo

この時男性たちにされていることが自分の本当に求めている温かな何かとは正反対のものだとビョルンが気付くのは、ずっと後になってから。彼は、愛情が何かを知らなかった。

ビョルンはこう振り返る。

「僕のキャリアはいきなり世界のトップで始まり、そこからはひたすら落ちるばかりだったのさ」


共演者の女優ロミー・シュナイダー(中央左)とルキノ・ヴィスコンティ。 Photo: Getty Images

追い打ちをかけるように祖母と結託したエージェントはビョルンを搾取した。『ベニスに死す』が公開されたあとヴィスコンティから見放されるのと反対に人気が爆発した日本での仕事を祖母は応援した。来日中は本人もある程度楽しんだとはいえ、エージェントと祖母にとってそれはあくまでCMやレコード発売などで儲け目当てにすぎなかった。そのため、ビョルンは連日のハードスケジュールをこなすために、薬物を飲まされていたこともわかっている。


Photo: Getty Images

その後ビョルンは7年もの間映画界から姿を消す。

この間に、「かつての世界一美しい少年、すわ失踪か」「飛行機事故で死んだらしい」など死亡説が囁かれたりもした。いくつかの恋愛もしたが、決してうまくはいかなかった。人は自分が与えられなかったものは、相手に与えることは難しい。彼はひたすら愛を乞うも、他人を愛することがなかなかできなかった。愛されるばかりではいけないとわかっていても、自分の元を去ろうとする女性たちに向かって「俺を棄てるなんて! ひどい女だ」と責めることが止められない。

そうしてビョルンはついには母国を脱出せざるをえなくなるほど病んでいく。母と同じように。

 

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買春あっ旋逮捕の早大生は人気ユーチューバー 女性を食い物にした「ドス黒本性」

2021年03月06日 21時53分23秒 | 事件・事故

3/6(土) 20:04配信

東スポWeb

捜査を行う警視庁目白署

 知人の北海道大大学院生の20代男性に児童買春の相手として当時15歳だった女子高校生Aさんを斡旋したとして、警視庁目白署は6日までに、児童買春・ポルノ禁止法違反の疑いで、早稲田大4年の井上秋甫容疑者(22)を逮捕した。

 警察によると、井上容疑者は昨年7月、ツイッターに「英語を教えているので興味があったら連絡して」と投稿。これを見たAさんと知り合った。

 その後、同容疑者はAさんを自宅に招き、肉体関係を持った上で、そのことを知人男性数人が参加するチャットで報告。これに興味を示した知人男性からAさんを紹介するよう頼まれたという。

 井上容疑者はAさんに男性と性行為するよう依頼。男性はAさんに3万円を渡していた。

 井上容疑者はツイッターでフォロワー数2万6000人を誇る「公立進学校bоt」の〝中の人〟で、昨年10月からは現役大学生ユーチューバーとしても活動。全国の高校の豆知識を披露する動画が話題で、逮捕前の今月2日には「【第3位~第1位発表】全国 校舎がボロい公立進学校ランキングTOP10【後半】」と題した動画をアップしていた。

 同容疑者の前出ツイッターには逮捕の一報を聞きつけ「記念カキコ(書き込み)」する者が続出。「女子高校生を食い物にするためにYoutuber始めてこんなアカウントで活動してたのか。クソだな」といった厳しい声も飛んでいる。

 捜査関係者によると、余罪を含めて入念に捜査を進めているという。

 動画ではさわやかに話す井上容疑者だったが、そのウラにはドス黒い本性が隠されていたようだ。

東京スポーツ

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がんステージIVの23才女性「私がたとえ死んでも」壮絶出産の全記録

2021年03月06日 21時47分15秒 | 医科・歯科・介護

3/6(土) 16:05配信

NEWSポストセブン

ステージ4の大腸がん診断を受けた後に結婚式を挙げた遠藤和さん

 19才で出会った彼と、22才で結婚し、翌年出産。屈託のない笑顔で娘のことを語る彼女は、至って普通の若いママだ。ただ、彼女は21才でステージIVのがん宣告を受けた──命がけの出産を決意した彼女は、その胸中を日記に克明に書き記していた。

【写真5枚】生後3か月、タオル地の服にくるまれる和さんの娘。頭が手に収まる小ささ。他、マタニティフォトや闘病・妊娠中のエコー画像なども

【2021年2月17日(水)】
〈使える薬が減るのって本当命削られてる気になるんだよね。コレが命綱だから。この薬たちが効かなくなったら、もう治療法はない。死を待つだけになる。次の薬がどのくらい効き続けてくれるか。今回の薬は4か月しか効かなかったから〉

 青森市在住の遠藤和(のどか)さん(23才)は、ステージIVの大腸がんを患う。夫・遠藤将一さん(29才)のサポートを受け、この2月中旬は県立病院で、抗がん剤治療を受けた。

「朝一で採血をします。約1時間後に結果が出たら診察を受け、問題がなければ治療が始まります。ベッドが30台ほどずらっと並ぶ抗がん剤治療用の部屋で、6時間ぐらい横になって点滴を受けるんです」(和さん・以下同)

 和さんの胸元には、ポートと呼ばれる“薬剤タンク”が埋め込んである。

「通院時に、胸元に針を刺して体内のタンクに薬剤を補充します。帰宅後、48時間かけてゆっくり体の中に抗がん剤が入っていく仕組みです」

 抗がん剤治療は複数の薬剤を組み合わせて行われる。抗がん剤はがん細胞を攻撃するが、同時に正常な細胞にも影響を与え、それが副作用として表れる。治療後は、その副作用と闘う日々が続く。

「ひどい倦怠感で起きていられず、吐いてしまうことも珍しくありません。倦怠感は1週間ほど続きます。トイレ以外は横になっていることしかできません。ご飯も食べたくないし、水分も摂りたくないんです」

 抗がん剤の効果は人それぞれで、しばらくはその薬剤が効いたとしても、治療を続けていくうちに「薬剤耐性」がついて効果が減少することがある。

「主治医の先生から“薬を変えましょう”という提案があり、2月22日からこれまでとは別の抗がん剤を使った治療が始まりました。新しい抗がん剤はのどがしびれてしまうので、冷たいものが飲めない。しんどいです」

「お母さんがいない子になる準備と覚悟ができるなら」
【2021年2月17日(水)】
〈今日の(娘の)健診は行けないと思ってたから、行けて嬉しかった。娘の成長を1番感じられるのはこの健診な気がする。そろそろ離乳食も始めようかっ!! たのしみにしてたの。食育!! なんでも食べられるようになってほしいけど、それよりも食事を楽しんでほしいな〉

 病院へ行ったその足で、娘の健診へ――和さんは、生後半年の女の子の母親だ。

「初めてのBCGワクチン接種で、娘は大号泣でした。頑張ってえらかった! 注射後はしばらくグズグズしてたけど、抱っこで寝てくれました。いまでは抱っこするだけで肩と腰がバキバキになります。この前まであんなに小さかったのに(笑い)。うれしいような、寂しいような……子育てってすごくあっという間なのかな」

 まだ言葉は出ないものの、叫んだり、“あうあう”と口を動かしてみたり、成長期まっただ中だという。

「“そうかそうか”って聞いてあげると笑うんですよ。もうそれがかわいくて。早くおしゃべりしたいです。一緒に本を読めるようにもなりたいな」

 和さんは「本は心を耕す」という恩師の言葉が忘れられないという。娘にも本好きになってほしくて、書店に行っては絵本を集めている。

 がん闘病中の育児。苦労がないわけがない。思い通りにいかないことばかりだ。

「本当は母乳で育ててあげたかったんですけど、母乳が出てこなかったんです。搾乳器を使ってもダメでした。おっぱいが張って、吸わせたい感覚はあったんですけど……。出産後、私は死にかけていたので母乳を作る余裕がなかったんだと思います。娘には『ごめんね』という気持ちでいっぱいです」

 和さんは2020年7月9日に娘を出産。将一さんは当初、「子供がほしい」という和さんに大反対した。

「ぼくは、妻自身の体を優先してほしくて。生きるか死ぬかの問題ですよ? 延命の方法を探っている中で『子供がほしい』と言われても……。『そんなこと言ってる場合じゃない、まずは抗がん剤治療をしっかりしてほしい。妊娠と出産で、これ以上体に負担をかけてほしくない』というのがぼくの気持ちでした。回数を覚えていないくらい何度も大げんかをしました」(将一さん)

 医師からは「お母さんがいない子になる準備と覚悟ができるなら、出産はできないことはない」とまで言われたという。それでも和さんは意志を曲げなかった。

「『お母さんになる』が私の将来の夢でした。『出産できる状況があるのに子供を諦めるなんて、死んでも死にきれない』と夫を説得しました」(和さん)

 和さんの熱意に将一さんは根負け。だが出産までには想像を絶する困難があった。

なんで私だけこうなんだろ?
 和さんは1997年3月20日、青森市生まれ。高校卒業後、2016年に飲食店で働き始めた。将一さんは6才年上で、札幌市生まれ。大学卒業後、建築系の大手企業に就職し、2013年に青森に配属されて和さんと巡り会った。ふたりの出会いは2016年10月、青森市内のダーツバーでのことだった。

「遠藤さん(夫)は、なんだかいいにおいがするし、顔が歌手の森山直太朗似ですごくタイプだったんです。会ったその日に絶対につきあいたいと、一目惚れでした(笑い)」(和さん・以下同)

 その日から、和さんの猛アタックが始まる。デートに誘うのは自分から。好き嫌いが多い将一さんの口に合う料理を研究し、部屋まで押しかけて振る舞った。恋は実った。出会ってわずか10日後に交際が始まった。2017年10月には、和さんの両親への挨拶をすませて同居を開始。ふたりの交際は順調に進展したが、病魔の影は和さんに忍び寄っていた。2018年8月25日のことだった。

「激しい腹痛で、朝から救急外来に行きました。エコーや採血などの検査を受けたものの、『便秘』との診断でした。ところが翌日夜、実家に戻っていたら、また激痛がきた。救急病院に運ばれ内視鏡検査を受けたところ、大腸に腫瘍があることがわかったんです」

 和さんは8月30日に腫瘍切除の手術を受けた。6日後に病理検査の結果が出た。

【2018年9月5日(水)】
〈16時頃におと(父)とまま(母)だけ呼ばれて、先生と話をした。なんかあったんだろうな。とは予想してたけど、ガンだったとは。まま号泣。おとも困ってるかんじ。まだ21才なんだけどなあ。なんで私だけこうなんだろ? 今日は何してても涙出るわ。うけとめきれない〉

 和さんはすぐに将一さんに報告し、別れを切り出した。

「『いつまで生きられるかわからない私ではなく、健康な彼女を見つけてください』と言いました。本心でした。抗がん剤治療が始まったら、もっと大変なことになるだろうし、遠藤さんの時間を犠牲にしてしまう。だから別れるならいましかない、と思ったんです」

 だが、将一さんは即答。

「あなたがつらいことを忘れられるように、楽しい気持ちと幸せな気持ちで上書きする」──その日から、二人三脚の闘病がスタートした。和さんは東京の病院で検査入院後、医師からすすめられ、思い悩んだ末に手術を決意した。しかし、手術はできなかった。がんが進行していたのだ。

「開腹後、がん細胞が広がっている『腹膜播種』という状態だったら手術は中止します、と事前に言われていました。麻酔からさめたら母と妹が号泣していて『ああダメだったんだな』と悟りました」

 診断結果は「ステージIVの大腸がん」。これには将一さんも動揺したという。

「先月の時点ではステージIIだったのに……。ステージIVって進行の終わりの方なんですよ。その日は一緒に泣きました」(将一さん)

このサイズの服を着ている頃、生きてるのかな
 行動は早かった。和さんはがん告知を受けた際、抗がん剤により生殖機能が悪影響を受ける可能性について説明された。これを受け、2018年10月17日には卵子の凍結保存をしていた。2013年に日本生殖医学会がガイドラインを正式決定したことで、現在、未婚女性が将来の妊娠に備えて卵子凍結を行うことが認められている。

「本当は妊娠率が高いとされる受精卵を保存したかったのですが、当時は結婚していなかったのでかなわず、せめて卵子だけでも保存しておこうと思ったんです。子供を持つ夢をどうしても諦めたくなかった」(和さん・以下同)

 ふたりは2019年12月21日に結婚式を挙げ、同日婚姻届を提出して正式な夫婦となった。

「とにかく早く出産したくて、結婚の2か月前から抗がん剤を中止していました。薬の影響で止まっていた生理は、結婚式の翌日に再開。夫と体外受精の説明会に行き、人工授精を始めようとしていたときに、自然妊娠が発覚しました。これ以上ないタイミングで来てくれて、生まれる前からできすぎな子ですよね」

 しかし、喜びもつかの間、病魔は待ってくれなかった。

【2020年4月21日(火)】
〈再発の疑い。ショックすぎ。やっぱり癌なんだ。覚悟はしてたつもりだけど、せめて産んでからがよかった。これからどうしよう〉

 一般的に、妊娠中は抗がん剤治療を中止するのが原則だ。その影響でがんの増悪が懸念される。

【2020年5月7日(木)】
〈両卵巣転移だった。片方(の腫瘍)は10cmごえの大物。腹水も少し増えてた。不安ね。明日から入院して抗がん剤再開するって。一応、もう18W(週)だから子供に影響する事はなさそう。でも、このままだとやっぱり28Wくらい。うまくいっても30Wくらいには産む事になりそう。辛い。ベビのためになる事をしたい。あと、子供だけじゃなくて、のん(私)も無事でいたい〉

 がんの転移が発覚し、和さんは県立病院に転院。この頃、和さんは出産への不安から毎日泣いていたという。

「“がんの私が子供を望んだらいけなかったのかも”と何度も思い悩みました。唯一の安らぎは、赤ちゃんグッズを選ぶときでした。そのときでさえ、ふとした瞬間に“もしかしたら買い物にも行けなくなるかも”“このサイズの服を着ている頃、生きてるのかな”ということが頭をよぎってしまって……」

 和さんは、転移判明の翌日から妊娠中でも使える抗がん剤を再開した。自分の体以上に赤ちゃんが心配だった。

「本来なら40週までお腹で育てたかったのですが、主治医から『治療再開をそこまで待てない』と。私の命がもつのは28週までだと言われました。でも、赤ちゃんにとっては早産がリスクになる。場合によっては、自力で呼吸できない子供が生まれる可能性も説明されました。正直、私は死んでもいいから、赤ちゃんを助けてあげたい、守りたいと思っていました」

 結局、出産予定は29週となったが、想定外の事態が起きた。念のため27週で入院すると、突如当日の夜から高熱と陣痛が和さんを襲ったのだ。

「“私は死んでもいいからあと1週はお腹で育てたい”と言い張ったんですが“このままだとあなたが死ぬので帝王切開します”と言われて、そのまま出産になりました。手術室に入る前に夫の顔を見て“これで最後になるかもしれない”と思ったら、ちょっと泣きました」

 幸い、母子ともに無事だった。娘は超低体重児で生まれたため肺が未熟で呼吸が安定せず、すぐに人工呼吸器をつけられNICU(新生児集中治療室)に運ばれた。

「産声は聞けないといわれていたけれど、弱々しいながらも泣き声をあげてくれたんです。うれしかった。あの声は一生忘れないです」

 出産は無事済んだものの、腫瘍は日に日に大きくなった。

「スペースが空いたからか、産後1~2日のうちに腫瘍が急激に大きくなって、胸水がたまり息苦しくなりました。歩くことができず、車いすを使っていました」

 2020年9月29日、和さんは卵巣摘出の手術を受けた。摘出した腫瘍を見た将一さんは言葉を失ったという。

「1つはドッジボールほどの大きさで、重さは2.5kg。娘が980gで生まれてきたので、約3人分です。妻はこんな恐ろしい塊をお腹に抱えながら子供を産んだなんて……」(将一さん)

 経過は安定し、10月10日、母子揃って退院。現在は家族3人で一緒に暮らす幸せを噛みしめている。

「妊娠がわかったとき『娘のためなら引き換えに自分は死んでもいい』と思いました。でも、いざ生まれるとなると『直接会いたい』と思うようになった。どうしても目を見て『大好きだよ』と言いたくて。それがかなったいまは、『無事に生まれてきてくれてありがとう』という気持ちでいっぱいです」(和さん)

 昨年末の大晦日、スーツ姿の将一さんと着物姿の和さんは、市内の写真スタジオにいた。娘と3人で家族写真を撮るためだ。

【2020年12月31日(木)】
〈私たちの他にいた1組の方は七五三の撮影だったみたい。7才の女の子。ドレスが本当に似合ってて、超かわいかった。その子のママが、娘の事みて、「この子(7才の娘さん)の産まれた時に似てる!!」って言ってくれて、あぁ、大きくなったら、こんな感じの女の子になるのかなって大きくなった娘に会えた気持ちになれた。

 7才になるまで、元気でいられるかわからないし、なんかすごく嬉しかった。見たいなあ。ドレス着て笑う娘。それまで生きていたいなあって思ったら、スタジオの中でちょっとだけ泣いちゃった。頑張って生きるからね〉

※女性セブン2021年3月18日号

 

 

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「終わらないんじゃ…」 緊急事態延長“2週間”に冷めた声 「変異」拡大懸念も

2021年03月06日 21時43分01秒 | 事件・事故

3/6(土) 12:10配信

日本テレビ系(NNN)

1都3県の緊急事態宣言を延長

菅首相は5日、1都3県に出されている緊急事態宣言を延長すると表明しました。期間は2週間ですが、懐疑的な声や、さらなる長期化を求める意見も上がっています。国の対策や広がる影響、各地で拡大が懸念される「変異株」の感染状況などをまとめました。

■記念コース 7日解除のはずが…
都内の鉄板焼き肉店を訪ねました。佐賀牛のサーロインステーキや、オマール海老の鉄板焼きなど開店10周年を記念した特別コースは、1都3県の緊急事態宣言が終わった翌日の、8日から実施予定でした。

店長
「お客さまが少しは戻ってくるだろうと予想していました。補償金でギリギリな感じです。(宣言が)続くと厳しくなってくると思います。2週間といわれていますが、どうなんでしょうかね。終わらないんじゃないかな…」

■首相 延長表明の会見で陳謝

菅首相が会見

5日午後9時、注目の菅首相の会見が始まりました。

「(1都3県の)緊急事態宣言を2週間延長し、3月21日までにすることを決定いたしました。病床の使用率が高い地域があるなど、依然厳しさが見られます。人出が増加している地域もあり、いわゆるリバウンドの懸念も高まっています。当初お約束した3月7日までに宣言解除することができなかったことは、大変申し訳ない思いであり、心よりお詫び申し上げます」

この2週間に、新たに始める対策も発表しました。
「今月から変異株が短時間で検出できる新たな方法の検査を、すべての都道府県で実施し、国内の監視体制を強化します。同時に、水際の新たな措置として、すべての帰国者・再入国者に対し、14日間の待機期間中は、携帯電話の位置情報に加え、毎日ビデオ電話で状況を確認する体制を整えます」

また、生活が苦しい世帯にお金を無利子で貸し付ける「緊急小口資金」の限度額の引き上げや、雇用調整助成金の継続、非正規社員・ひとり親世帯への支援などを行うと表明しました。

■減少傾向の東京 一転再び増加へ

都民へ3つのお願い

5日午後9時半ごろ、小池都知事も臨時会見を行いました。
「残念ながら現状は、(感染者数の)下げ止まりが継続しています。緊急事態宣言中である、今も続いているんだということを、都民の皆さんは、認識されているのか。あらためて認識していただきたい。目的はひとえに、都民の命を守るためです」

東京の新規感染者は301人で、先週金曜日の207人よりも増加しました。
7日間平均の感染者は273.6人で、前の週との比較では1月16日以降、減少傾向が続いていましたが、再び増加に転じています。

都内の入院患者は5日時点で1449人。小池知事は会見で「これからの2週間で例えば、入院患者数をあと199人減らしていく。これによって医療現場の負荷を軽減する。そして『ステージ2』に抑えていく」と述べました。

小池知事
「都民の皆さまへ3つのお願い。1つ目、外出自粛。『トコトンステイホーム』を。週3日、社員6割以上のテレワーク。時差出勤もあります。いま一度、『トコトンテレワーク』で強化をお願い申し上げます」

また、花見や歓送迎会などを含め、会食の自粛を呼びかけました。さらに宣言解除後の措置として、飲食店や劇場、映画館などへの時短要請を段階的に緩和、22日以降は夜9時までにすると発表しました。

■「2週間以上にすべき」の声も

日本医師会 釜萢敏常任理事

宣言延長が決まった1都3県。神奈川県と千葉県も5日、新規感染者数が先週金曜日より増加。神奈川は116人から131人に、千葉は112人から137人となっています。

90人の感染者が出た埼玉県は会見で、県内で初めてブラジルの変異ウイルスを検出したと発表しました。感染者は10歳未満の女児で、渡航歴はないといいます。埼玉県は「同居家族からうつった可能性が高いとみています。家族については、いま検査していますが、まだブラジル株かどうかは分かっていません」と説明しました。

埼玉県ではさらに、イギリスの変異ウイルス感染も確認されました。渡航歴がある50代の男性ということです。

5日夕方、1都3県の知事はテレビ会議を行いました。首都圏一体となって、引き続き、不要不急の外出自粛や、飲食店などへの夜8時までの時短営業要請を継続することで一致しました。

5日午前、専門家らが集まる諮問委員会が開かれました。終了後、メンバーの1人である日本医師会の釜萢敏(かまやち・さとし)常任理事は「2週間という期間がどうなのかと。『もう少し長い時間の延期をした方が良い』という意見も出ました」と明かしました。

5日午後11時ごろ、政府の分科会の尾身会長は、国や自治体が取るべき行動として、7つの対策を提言しました。中でも繰り返し言及したのが、「サーキットブレーカー」です。電流が過度に流れた際に、ブレーカーが自動で落ちる仕組みに例え、感染の再拡大を事前に遮断する仕組みが必要だと訴えました。

■お花見クルーズ 問い合わせ減

お花見は…

一方、宣言の影響で早くも影響が出ているところがあります。毎年、桜が咲く時期に目黒川を遊覧する「お花見クルーズ」です。運行開始は3月20日で、延長で宣言期間と重なってしまい、予約の問い合わせが減ったといいます。

目黒川花見クルーズ運営
「ギリギリになって(さらに)延長、延長と繰り返されていくことを、業界のメンバーはみんな心配しています」

宣言延長に伴い、ジャニーズ事務所は解除になるまで、主催コンサートを中止すると発表しました。

■変異株 全国で新たに17人感染

変異ウイルス感染者の数は…

全国で確認された新規感染者は、5日午後11時の時点で1149人でした。

厚生労働省によると、変異ウイルスの感染者が石川県で初めて確認されたほか、京都府で5人、岐阜県で3人、新潟県で2人など、全国で新たに17人の感染が確認されています。
これまでに国内で検出された変異ウイルスは、全国20の都府県で合計251人(検疫含む)となっています。

また、青森県も独自に、初めて変異ウイルスの感染者1人を確認したと発表しています。

(3月5日『news zero』より)

【関連記事】


避けてきた震災学習「生きたかった」犠牲児童7人と両親に「記憶つなぐ」校長誓う涙 #あれから私は

2021年03月06日 21時40分49秒 | 事件・事故

3/6(土) 18:00配信

テレビ岩手ニュース

東日本大震災で大津波の直撃を受けた、岩手県陸前高田市。関連死を含む死者・行方不明者は県内最多で、1800人を超えた。
校舎1階が津波で浸水した、市内の高田小学校。児童は高台に避難したが、親が迎えに来て帰宅した7人が犠牲になった。家族を亡くした児童も多い。過度なストレスから、学校や家庭で突然泣き出す子もいたという。
高田小では、これまで児童の「心の安定」を最優先に、震災の津波の被害と教訓を伝える授業を、あえて実施してこなかった。しかし、震災の記憶の風化が急速に進んでいる。
「あの出来事を知らずに、命を守れるだろうか」。自らも震災で両親を亡くした高田小校長の金野(こんの)美惠子さん(59)は、自問自答の末、ついに「震災学習」を行うと決断した。

なくした命を忘れない 校長室に児童7人の写真

津波で犠牲になった高田小の児童7人

高田小は、震災から8年以上が過ぎた2019年8月、児童約170人とともに高台に移転した。穏やかな海を遠くに望む真新しい校舎には、児童の明るい声が響く。10日後に、震災後初めてとなる「震災学習」を控えた、昨年11月9日。校長室を記者がノックすると「どうぞ」と快活な声が聞こえる。キビキビとお茶を用意しながらも、柔和な笑顔が印象的な金野校長が迎えてくれた。

壁には、朗らかにほほ笑む7人の写真が掲示されている。津波で犠牲になった高田小の児童たちだ。震災後、校長は3回変わったが、写真の掲示は受け継がれてきた。

金野校長が昨年4月に赴任して、初めて写真を見た時は「もっと生きたかったのに」という児童の声が聞こえてくるようで辛かった。けれど、犠牲になった命があることを忘れないために、毎日写真に目を留めているという。「この子たちが生きたかった分、今の子どもたちがたくましく生きていけるように育てたい」。そう言って、目を潤ませた。

「色がない街」の遺体安置所、長靴はいた無言の両親

震災当時を振り返り目を潤ませる金野さん

陸前高田市出身の金野さんは発災時、故郷から車で1時間以上離れた岩手県内陸部にある小学校の副校長だった。そこで、児童の安全確保や校舎の被害をとりまとめる作業に追われた。仕事が終わると、故郷で暮らす両親の安否を確認するため、家に電話をかけた。しかし、何度かけても繋がることはなかった。

発災2日後、学校に許可を得て、車を走らせ市内に入った。そこには、昔から見慣れた景色はほとんどなかった。「色がない街、写真で見た終戦直後の焼け野原のようだった」。両親の家は、海から700mほど。高く積みあがったがれきの山を見て「家は流されただろうと直感した」。

父の恒一さん(当時77)は、生まれつき足に障がいがあり、車いす生活だった。母の房子さん(当時74)と一緒に、なんとか逃げ切っていてくれれば…祈るような思いで市内の避難所を歩き回ったが、見つからなかった。結局、再会できたのは、3月末に訪れた遺体安置所だった。「2人とも長靴を履いていたから、逃げようとしたんだと思う」。絞り出すような声で話した。

教育者であり震災遺族 1人アパートで涙あふれる

携帯のカバーに入れた亡き両親の写真

金野さんは、1人の教育者として、学校では児童に暗い顔を見せまいと気丈にふるまった。何人もの児童が「副校長先生大丈夫?」と声をかけてくれた。その優しい気持ちに、何度も励まされたという。

それでも、赴任先のアパートに帰れば「娘」に戻る。震災3週間前に撮った両親の写真を眺めては、とめどなく涙があふれた。

父は靴職人で、経営が厳しくなると県外の会社に勤め、母も理容業や内職をして、自分と3つ下の弟を育てた。金野さんは、高校3年生の時、大学に進学して教員になりたかったが、父から「諦めろ」と言われて家出をしたことがある。経済的な理由であることはわかっていたが、こういったすれ違いなどが原因で、あまり会話をしなくなった。高校卒業後に陸前高田市役所に務める傍ら、通信教育で教員免許取得の夢を叶えた時には、父が誰よりも喜んで泣いていたことを、母から伝え聞いた。いまでも時折、繋がることのない番号に電話をかけてみる。「父にごめんねとありがとうが言えなかった」後悔は消えないという。

ふらりと入った津波伝承館、震災学習を決意

津波の威力で潰れた消防車両を眺める金野校長

19年9月。金野さんは前任地・陸前高田市の気仙小で校長をしていた。市内には、震災の被害と教訓を伝える施設「東日本大震災津波伝承館」がオープンした。津波の映像や、車体が押しつぶされた消防車などが展示されている。

「児童に施設を見学させてはどうか」と、職員室でも話題になった。気仙小は、津波で校舎が全壊したが、児童が全員無事だったこともあり、高田小よりも震災学習の面では先進的だった。

金野さんは伝承館の近くを訪れた際に「どんな施設なのだろう」と、ふらりと立ち寄った。しかし、足を踏み入れた瞬間、辛い記憶が思い出され「動けなくなった」。津波の映像も見ることができなかった。「児童が見学するには、まだ早いと思った」。

一方で、展示が伝えるのは、被害の凄惨さだけではない。体育館を間借りして勉強に励んだ子どもの写真や「津波が来たら各自で逃げる」という三陸地方の教え「津波てんでんこ」を伝えるパネルもある。金野さんは、2回、3回と足を運ぶうちに、被災地の子どもにも「事実」を学んでもらい、次の世代へ語り継ぐ担い手になってほしいと思うようになった。

その後、担任とともに、気仙小の6年生を伝承館に連れて行った。ハッとした。児童が「恐怖」よりも「学びたい」との意欲をみせたのだ。「震災学習が時期尚早かどうかを決めるのは自分ではない」と強く感じた。

「命守るため震災知る必要ある」実施の是非問う

全教職員を集め「震災学習」への思いを語る金野校長(去年10月)

 それから半年後の昨年4月、自身の母校でもある高田小学校に赴任した。長く勤めている職員から、高田小は、震災の津波で7人が犠牲になったことや、親を亡くした子が通っていることなどを考慮して「心の安定」を最優先に、震災の被害や教訓を伝えることは、あえて避けてきたことを聞いた。

しかし、金野校長は、震災の記憶の風化が急速に進んでいることも危惧していた。いまの児童の半数以上は震災後に生まれ、当時を知らない。金野校長は、高田小で初めてとなる、震災学習の実施の是非を問うため、教職員全員を集めて話し合いの場を設けた。

開口一番に伝えた。「被災地に生まれた子どもは、命を守るために震災を知る必要がある」。教職員の中にも家族を亡くした人がいるため、反対意見が出ることも覚悟したが、1人、また1人と頷く教職員の姿があった。「もうすぐ震災から10年。新たな一歩を踏み出すには、いいころ合いかも」という意識が、教職員たちにも芽生えていた。

ただ、保護者の中にも、震災について我が子に語ることを避けてきた人がいる。家族を亡くしたり、家や店を失うなどした苦しさを口に出すことは、自分自身にとっても辛い日々を思い出すことでもある。金野さんは、保護者の理解も得ようと、授業を参観日とし、見学してもらうことにした。

児童ら、震災を「未来の糧に」わいた拍手

「震災学習」で学んだことを発表する熊谷有咲さん(9)

昨年11月の「震災学習」当日。震災当時を知らない9~10歳の4年生の教室では、津波で長男を失った市内の淺沼ミキ子さん(57)が出版した絵本「ハナミズキのみち」を題材に授業を行った。「避難路にハナミズキを植えて」と夢で聞こえた亡き長男の声をもとに綴ったもので、全国的に読まれ、「高台避難と命の大切さを学べる」と金野校長が選んだ。事前に絵本を熟読し、淺沼さんから体験を聞いた児童。感じたことを保護者やクラスメイトの前で、1人ずつ発表し、教室の隅で金野校長も静かに見守った。

震災1か月前に生まれた熊谷有咲さん(9)は「行ってきますと仕事に出かけた息子さんが避難先で帰らぬ人になった。その深い悲しみが伝わってきました」と、言葉を詰まらせながら話した。そしてこれからの生き方については「自分の命は自分で守る、を意識していきたいです」と、力強く語った。震災を「負の遺産」ではなく「未来の糧」とする児童の姿に、後ろで聞いていた保護者からは拍手が沸き起こった。

小松奏太さん(10)の母・智枝美さん(37)は、震災で大切な友人を失った。息子には辛い思いをさせまいと、「震災についてオブラートに包んできた」。しかし、校長や教職員が自らの悲しみを抑えて「震災学習」に踏み切っている姿を目にし「これからは伝えていかなければ」と考え直したという。

保護者にも芽生えた、悲しみ受け止める決意

児童と保護者に語り掛ける金野校長

児童の発表に何度も頷いていた金野校長は、「最後に伝えたいことがある」と歩み出た。「幸」とプリントした紙を掲げ、穏やかな眼差しで、ゆっくりと語りかけた。「震災が起きた後、生まれたばかりのみんながいることが地域の希望だったんだって。みんなはこの10年間、人を幸せにする人たちだったんだよ」。

校長の言葉に涙したのは保護者たちだった。その1人、小野寺宏美さん(44)は、震災2か月前に三女・紀乃さん(9)を出産したが、震災でおじや多くの友人を亡くした悲しさから、母乳が出ないこともあった。9つ上の長女・海衣(みい)さんは、当時高田小3年生で、津波で亡くなった児童の1人とよく遊ぶ仲だった。震災後はショックで体調不良となり、1か月以上学校へ行けなかった。一家を励ましたのは、生まれたばかりの紀乃さんの笑顔だった。

小野寺さんは当時を知らない紀乃さんにも「教訓を伝えるべき」と頭ではわかっていたが、辛くて踏み切れなかったという。授業を通して自身も悲しみを受け止め、「帰ったらゆっくり話したい」と心を決めた。

校長に手応え「両親の思い継ぐ」

両親を奪った海に誓う金野校長

金野校長は、確かな手ごたえを感じていた。「生きることの素晴らしさについての思いが教室中に広がった。震災の教訓と生き方を次に伝えられるのは、間違いなくこの子たちだ」。自身が定年を迎える来年度も、震災の体験者を招くほか、伝承館の見学も考えている。
 
忘れてはならないのは、丁寧な心のケアだと胸に刻む。この授業でも、津波で自宅を流された男子児童1人が、途中で退室した。「また津波が来るのでは」という恐怖で、体調を崩してしまったという。恐怖や悲しみは、何年経っても消えることはない。震災で亡くなった父の母校でもある高田小。両親も「ちゃんと教育しなさい」と見守っているはずだ。

この記事はテレビ岩手とYahoo!ニュースとの共同連携企画です。


問われる一人の「生き方」

2021年03月06日 10時02分39秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

人間と人間以外の存在が共存する。

人の力を超越した現象に対して、近代以前の人々は、時に畏敬の念を持ち、一貫してカミとして扱ってきた。

カミの中には、疫病や災害、自然現象だけでなく、神仏なども含まれる。 カミの存在によって、地域の祭礼や伝統芸能といった公共空間が生まれ、豊かな人間関係の維持につながった。

しかし近代は、合理化や世俗化の中で人間以外の存在を追い出してしまった。

人間だけが社会をつくっている-そんな近代の錯覚による弊害が、至る所に表われている。

近代以降の人間は、超越的なものとしてのカミと同時に「死」も遠ざけてきた。

人間は、<死んで消滅する>のか?

それよりも、生や死を貫いてつながるという感覚を持ち続けられるかどうかが大事だ。

仏教では、<目に見えない超人的な威力や働きをもつもの>として「鬼神」を位置付ける。

そして、乱れた鬼神を元に戻すことで、平穏な世が訪れるとする。

コロナ禍を収束させことがまず大事であり、それを何よりも先決べきだが、一人一人がどのような生き方をしていくかが問われる。

つまり、一人一人の変革が問われている。 思索を深め、身近なとことから行動の変革をうながす。 そもに、危機を乗り越える力があるのだと思う。

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死者とつながる

公開日:2020.03.13    

お彼岸に考える死者との対話|死んだ夫ともう一度話したい…

 死んだ夫ともう一度話をしたい…。夫が急死し悲しみに暮れる妻のAさん、6年前に死んだ父親から語りかけられたと話すBさん。

実際の体験談から、死んだ人との対話について専門家に聞いた。死者を供養するお彼岸を前に、大切な人を亡くした後の過ごし方を考察。

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荘内日報ニュース 2008年(令和-10年) 8月24日(日)付け紙面より

三森山で「モリ供養」 鶴岡市清水地区 供物携え山道登る 全国的に貴重な民間信仰

 鶴岡市清水地区に伝わる祖霊信仰「モリ供養」が22、23の両日、同地区の三森山(みつもりやま、標高121メートル)の山頂で行われた。大勢の参詣者が供物を施餓鬼(せがき)棚に供え、祖先の霊を供養した。

 モリ供養は、庄内地方に伝わる送り盆の独特の習俗。

庄内では、「モリ」「モリノヤマ」と呼ばれる里山に死者の霊がとどまり、その後、月山や鳥海山など、さらに高い山に行くと考えられている。盆で送られた霊が集まるモリで供養を行うという民間信仰は、全国的にも貴重な習俗とされている。

 このうち、三森山のモリ供養の起源については、「奈良時代の高僧・行基が来山して、亡霊のために施餓鬼供養を行った」「平安時代の高僧・慈覚大師が亡き母の霊と施餓鬼供養をした」「戦国時代に庄内を治めていた武藤家の戦死者を供養した」「津波などによる死者を供養した」など諸説がある。

清水地区には、供養が終わった後に「モリのあか流し」と呼ぶ雨が降るとの言い伝えもあるという。

 22日は、地元を中心とした参詣者が花や団子などを手に持ち、里から山道を登って供養が行われる山頂の「お堂」を目指した。30分ほどかけて山頂に着くと、お堂で僧侶に故人の命日や戒名を仏札(ほとけふだ)に書いてもらい、団子などを供え、お堂の前に設けられた施餓鬼棚で供養が始まるのを待った。

 僧侶たちが読経する中、2人の墓若者(はかわかぜ)が「花水上げます」「お茶水上げます」などと唱えながらひしゃくで施餓鬼棚に置かれた「三界萬霊等(さんかいばんれいとう)」に水をかけ、参詣者たちは手を合わせ祖先の冥福を祈った。

 供養後、帰りの山道では袋を持って立ち並ぶ地元の子供たちが「お願いします」と声をかけ、参詣者たちは施餓鬼供養の習わしで小銭を一人一人にあげていた。

 庄内のモリ供養の習俗は、「里山に近い山などで行われる死者供養の典型であり、わが国の民間信仰や人生儀礼を理解するうえで貴重」「信仰圏の縮小や寺院行事化の傾向もみられ、変ぼうの恐れも多い」として、2000年12月に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択された。

 これを受け県教委は06年度から5カ年事業で、庄内地方一円を対象にモリ供養習俗の調査記録作成事業を進めている。各地の現地調査を経て、来年度からは映像記録の作成を行う。

 また、県が世界遺産の暫定リスト登載に向け国に提案している「最上川の文化的景観」の関連構成要素にも「庄内のモリ供養習俗」が盛り込まれている。

鶴岡市清水地区の三森山山頂の施餓鬼棚の前で行われた「モリ供養」=22日
鶴岡市清水地区の三森山山頂の施餓鬼棚の前で行われた「モリ供養」=22日


競輪人間学 諦めを生む

2021年03月06日 09時27分08秒 | 未来予測研究会の掲示板

分かっているけど、本命を買わない多くの競輪ファンたち。
中には、12レースを最初に買うという競輪ファンもいるのだ。
お金がなくなり、途中で帰るみじめさ、誰にでもあることだ。
競輪場に着いて、4レース終了後にバス亭で出会う競輪仲間の一人は「おけらだ」とうなだれていた。
「帰るの早すぎるのじゃない?」と声をかけ、「少しお金回そうか?」と聞いてみたが、無言で手を振る。
「また、明日」の挨拶だった。
白山の野田さんが、「1-7買ってもしょうがない」と1枠から5枠を外して枠単流し。
1-2 12・6倍 1-3 15・7 1-4 17・5 1-6 11・0倍に期待する。
「金持ちは、本命を買えばいい」
そう僻む(ひがむ)のも分かる。
お金に余裕があれば、1番人気の3連単の4・9を1万円以上も買うだろう。
懐が寂しい人たちにとっては、諦めを生む番組の編成と言えないこともない。

懐が寂しいとは:手持ちの金銭が少ししかないさま、所持金が乏しいさまを意味する表現

レース評

初日特選でライン上位独占に導いた松浦の動きは上々。仕掛け所を熟知しているホームバンクで鮮やかなスパートを決める。意気込み十分の柏野がしっかり続いて別線を一蹴。川口が好機に巻き返すと、惰性を貰う金子の強襲も一考。同門連係の福岡コンビに注意。

並び 1-7-8 5-2-6 3-9-4

1番人気 
2車単 1-7 1・5倍
3連単 1-7-2 4・9倍

結果

2車単 1-7 150円(1番人気)

3連単 1-7-2 490円(1番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 松浦 悠士   11.1 B H発進捲る
2 7 柏野 智典 3/4車身 11.0   松浦を巧追
3 2 小川 勇介 3/4車身 11.0     切替柏野追
4 3 川口 聖二 3車身 11.1     叩ず追上げ
× 5 9 金子 貴志 2車身 11.2     川口を拾い
  6 8 野本 翔太 1車輪 11.3     捲りに離れ
  7 4 宮越 孝治 1車身 11.2     金子追一息
  8 6 大竹 慎吾 2車身 11.3     離れ割込れ
9 5 岩谷 拓磨 6車身 12.6     松浦に捲れ

 

レース後記

レース後記写真

 打鐘前2コーナーから前に出た岩谷拓磨を川口聖二が叩きに行くが岩谷も合わせて踏んで出させない。そこを逃さず最終ホームから松浦悠士が仕掛けると、ラスト1周を22秒2の好ラップで駆け抜けた。
 「めちゃくちゃキツい。しっかり踏み切れたけど、その分しっかり力が伝わるのでけっこうダメージが来ました。1センターのかかりがすごくて、いい感じでスピードに乗った。昨日(初日)は最後タレたけど、今日(2日目)は踏み切れたんでいいと思います。体にダメージは来てるので、しっかりケアしないとと思う」
 柏野智典がピタリと続いて中国ワンツーが決まった。
 「(仕掛けのタイミングは)あの1個前か、あれしかないなと思った。全日本選抜の落車(した影響)で、うまいこといってないなと思ったけど、それが昨日(初日)より楽になったなと。松浦が強かった。いい練習になりました」

 


最後が良ければ、まあ <良いか>

2021年03月06日 08時57分04秒 | 未来予測研究会の掲示板

GⅢ 瀬戸の王子杯争奪戦in広島

3度目の1番人気の1-5を何とかゲット!
意地になって追いかけるが、最後が良ければ、まあ <良いか>。

5レース
並び 1-5-3 8-2-6 7-4
本命1-5 1・8倍

結果

1-4 1800円(6番人気)

1-4-5 7680円(19番人気)


7レース

並び 9-2 1-5-6 8-3 4-7
本命 1-5 5・8倍

結果
9-1 2070円(8番人気)
9-1-7 2万0340円(51番人気)

3月5日 2日目

11レース

レース評

王者の和田が中心で、積極的な黒沢を巧みにリードして差し切る。鈴木へズブズブ一考。動き良かった竹内や久米に警戒。

 




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 和田 健太郎   11.5   黒沢乗り伸
2 5 黒沢 征治 1車輪 11.7   牽制堪え捲
3 3 小岩 大介 1車身 11.5     BS切替え
  4 8 阿部 兼士 1/8車輪 11.4     小岩に迫り
5 9 久米 良 1車輪 11.8     牽制及ばず
6 7 鈴木 誠 1/2車輪 11.2     阿部捌かれ
× 7 2 竹内 翼 1/8車輪 12.0   B 先制捲られ
  8 4 松岡 孝高 2車身 11.8     被って不発
  9 6 山田 裕哉 1/2車身 11.9     先手追うも

レース後記

レース後記写真

 竹内翼が打鐘から主導権。中団で小岩大介のけん制を受けながらもホームから仕掛けた黒沢征治が力ずくで前団を飲み込むと、続いた和田健太郎がゴール前で逆転した。
 「(黒沢との連係は)初めてだったけど、頑張るのであとは何とかしてくださいって言われたら、自分も頑張らないといけないなと思った。(小岩の)ブロックでバランス崩して、それでも前に前に踏んでくれたからね。僕は本調子とは言えない。道中、色んなとこでミスが見られた。上位は甘くないんで、まだまだ修正する余地はある」
 黒沢征治は別線の執ようなけん制を受けながらも最後は気持ちでまくり切った。
 「キツかったですね。(打鐘は)気づいたら挟まれてた。主導権を取りたかったです。東が少ないんで、(鈴木誠と)3人で勝ち上がれれば(準決勝でも)ラインが長くなるので有利になると思ったけど、鈴木さんに申し訳ない。和田さんが強かっただけですけど、ワンツー決まったので。初日より今日(2日目)のほうが状態は良かったので、明日(準決勝)も頑張りたい」

投票


遠い過去の記憶が突然、浮かんでくる

2021年03月06日 08時21分20秒 | 沼田利根の言いたい放題

3月に入り、温かい日差しが心地よい。
風が強いが利根川堤防を歩く。
風は、日によって追い風だったい、向かい風だったりだ。
頭が小さいのでぴったりの帽子はほとんどないので、風が気になる。
偶然、ぴったりの帽子をみつけたが、その帽子は何年もかぶってきたので、ひさしがほころびてきた。


帽子と言えば、ベレー帽をかぶったのは学生時代だった。
高校時代は規則で丸刈りだった。
その反動で、大学では長髪にしていた。
大学の学生自治会連中(右翼)には焼きを入れられかけたが、こちらの腕力の方が勝っていたので以降、睨まれるだけで威力行為には及ばれなかった。
同期生の何人かは気の毒に、「軟弱な奴だ!鍛え直してやる」と自治会連中に拉致され、長時間正座されたうえで鉄拳制裁を加えられていた。
「けしから!」と義憤にかられ抗議に行ったら、暴力団の子分と思われ「お前は、新宿の何組か?」と問われた。
彼らの先輩は、右翼団体や暴力団とつながっているような話だった。
帽子のことから記憶とはおかしなもので、遠い過去のことが突然、浮かんでくるものなのだ。

 

 


全国初「エスカレーター歩かない」条例案提出 事故防止へ 埼玉

2021年03月06日 06時45分23秒 | 事件・事故

3/4(木) 19:04配信

毎日新聞

自民党埼玉県議団は4日、エスカレーターで走ったり歩いたりせず、止まって乗ることを努力義務とする条例案を県議会に提出した。転倒による事故を防ぐのが目的で、県議団によると可決・成立すれば同種条例は全国初という。10月1日の施行を目指す。

条例案はエスカレーターを利用する県民に対して「立ち止まった状態で利用しなければならない」という努力義務を明記する。違反に対する罰則はない。管理者には立ち止まった状態での利用の周知を求め、県などにも安全な利用を促す施策や取り組みを求める。

 日本エレベーター協会の調査では、2018~19年にエスカレーターを走って転んでしまうなどの「乗り方不良」の事故は全国で805件あり、つまずいて転倒する▽逆走して駆け上がり転倒する――といった事例があった。埼玉に限った話ではないものの、県議団は安全な利用を促すために条例化を目指している。

 4日にあった本会議の議案説明で、中屋敷慎一県議は「歩いて利用する人のために片側を空けておくことが慣例となっているが、すり抜けざまに衝突して他の利用者を転倒させる恐れもある。人々の行動を変える必要がある」と理解を求めた。【鷲頭彰子】

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一般社団法人日本エレベーター協会

図13 年齢別人口推移(総務省統計局データ参照)
(5)挟まれ、転倒の年齢別分析
 図5の転倒、挟まれに関して、年齢別の2年間災害発生件数を図14に示す。また同様に、図5の転倒、挟まれの件数に対
してのそれぞれの年齢別の2年間災害発生率を図15に示す。
 大人(60歳以上)の被災が図12で全体の62%を占め、顕著に多い傾向があることから、挟まれ、転倒の年齢別に分析し
た。ただし、年齢不明は除いた。なお、本項では、図5の「乗り口部」、「降り口部」での転倒を「乗降口」での転倒と
してまとめた。
 図14では大人(60歳以上)が踏段上で転倒した件数は551件で、2年間災害発生件数の総数1475件(2.調査結果の第
(1)項参照)の37%を占めている。次に乗降口での転倒が229件と多い。
 踏段上及び乗降口での転倒、挟まれの年齢別の2年間災害発生率をみると、挟まれは年齢により発生件数に大きな差は
ないが、踏段上での転倒、乗降口の転倒ともに大人(60歳以上)の比率が顕著に多い。
図14 挟まれ、転倒の年齢別2年間災害発生件数     図15 挟まれ、転倒の年齢別2年間災害発生率
                                  (第8回)
4.調査結果のまとめ
 今回の調査では、第7回調査に比べ、利用者災害の2年間災害発生件数の総数は1.2倍増加している。この増加した原因
及び傾向は、次のとおりである。
 1)2年間災害発生件数が増加した主な建物用途は交通機関であり[図3]、また2年間災害発生率は4.5%から6.9%と1.5倍
に増加している。[図4]
 2)2年間災害発生件数が増加した主な原因は、転倒の増加によるものである。[図5]

 3)2年間災害発生件数のうち、踏段上又は乗降口での転倒は2年間災害発生件数全体の69%を占める。特に踏段上での転
倒は、同様の50%を占める。[図5]
 4)原因別では乗り方不良が増加しており、全体の60%を占めた。他に酔っ払いによる2年間災害発生件数は全体の13%で
あった。[図7]
 5)被災者の年齢別では16歳以上の大人が全体の84%で、そのうち大人(60歳以上)の被災は全体の62%に達した。[図
12]
 6)大人(60歳以上)の災害は、他の年齢に比べ、特に踏段上と乗降口とでの転倒が顕著に多い傾向であった。[図
14、図15]
 以上のことから、転倒等の利用者災害の発生を減らす方策として、エスカレーターの手すりをつかんで乗ること、立
ち止まって乗ることは有効と考えられます。
 また、特に大人(60歳以上)の被災が増加していることから、特に転倒しやすい踏段の上、乗降口付近では、大人
(60歳以上)、さらには健常な方、障がいがある方、子ども、全ての方への心遣いをお願いいたします。
 当協会は、今後も全国の鉄道事業者、商業施設、空港施設等と共同で、日本全国を対象とした「みんなで手すりにつ
かまろう」キャンペーンへの協賛、さらに当協会が主催している「エレベーターの日」の各地での安全利用キャンペー
ン等をはじめとした、年間を通したエスカレーターの安全利用の周知活動によって、全ての方々が安全で安心してエス
カレーターを使って頂けるように、引き続き取り組んでまいります。


DV被害最多更新 増加率は鈍化、コロナ禍での潜在化に注意

2021年03月06日 06時38分29秒 | 事件・事故

毎日新聞 2021/3/4 10:21(最終更新 3/4 15:36)

 警察庁は4日、全国の警察が2020年に把握したドメスティックバイオレンス(DV)は8万2643件で、過去最多を更新したと発表した。04年から17年連続の増加だが、前年からの増加率は0・5%で同年以降で最も小さかった。新型コロナウイルスの感染拡大によって家族との在宅時間が増えた人がおり、同庁は「DVが潜在化することを念頭において、積極的に端緒を把握したい」としている。

 被害者は女性76・4%、男性23・6%だった。男性が増加傾向にあり、3年連続で全体の2割を超えた。


 DVの被害者を支援する団体は、統計に表れない被害の潜在化を危惧している。NPO法人「女性ネットSaya-Saya」(東京)には「在宅勤務になった夫に声が聞こえるから相談の電話ができない」といった女性の声が寄せられており、感染拡大が深刻化した3、4月は相談件数が大幅に減った。このため、無料通信アプリ「LINE」での対応を始めると、結果的に年間の相談件数は前年の2倍に上った。

 ただ、被害を我慢し続ける人がいるとみられ、松本和子代表理事は「相談に来ても、コロナの影響で雇用が不安定になり、経済的事情で加害者から離れて暮らす行動を取れない人がいる」と話す。警察への相談に至らない場合には、精神的に相手の支配下に置かれた被害もあるとし、「深刻化する前に対処することが大事」と相談体制を充実させる必要性を指摘する。


 NPO法人「全国女性シェルターネット」(東京)の北仲千里共同代表は、「被害者は自分が悪いと思いがちで、家庭という閉じた空間では異常さに気づかないことが多い。コロナ禍で家に閉じこもりがちになっても一人で抱え込まないでほしい」と呼びかける。

 NPO法人「ハーティ仙台」の八幡悦子代表は「コロナによる生活の困窮が心配。そのストレスは女性ら弱者に向けられ、DVが増える」と心配を募らせる。「『相談するほどのことだろうか』とためらわないで、相談してほしい」と話している。【町田徳丈】

コロナ禍のDV被害者の声の例

 ※NPO法人「ハーティ仙台」に2020年春にあった相談から

 ・飲食関係の仕事をしている夫の収入が激減して、DVがひどくなった

 ・ホテルの清掃の仕事がクビになった。夫からの自立を目指していたのに悔しい

 ・別居をする予定だったが、支援者が高齢なので、感染させないか心配で動けなくなった

 ・コロナで以前よりも孤立し、不安でゆううつだ

DVに対する国の主な相談窓口

 ○DV相談ナビ<内閣府>

 #8008 最寄りの相談機関に自動転送(受付時間は相談機関によって異なる)

 ○DV相談+(プラス)<内閣府>

 0120・279・889(24時間)メール(24時間)、チャット(正午~午後10時)でも受け付け

 


「並外れた悪質性」野田市女児虐待死 父親に再び懲役16年判決

2021年03月06日 06時23分40秒 | 事件・事故



野田虐待死事件2審も懲役16年
03月04日 14時03分 NHK

 

千葉県野田市で小学4年生の長女に冷たいシャワーを浴びせて死亡させたとして傷害致死などの罪に問われた父親に対し、2審の東京高等裁判所は「虐待事件の中でも悪質性は並外れている」として、1審に続いて異例の重さとなる懲役16年を言い渡しました。

千葉県野田市の栗原勇一郎被告(43)は、おととし1月、小学4年生の長女の心愛さん(当時10)の顔に冷たいシャワーを浴びせるなどして死亡させたとして、傷害致死などの罪に問われました。
1審の千葉地方裁判所が「異常なほど悪質な犯行だ」として、子どもに対する虐待事件では異例の重さとなる懲役16年を言い渡したのに対し、2審で被告の弁護士は「刑の重さの傾向を大きく逸脱し重すぎる」と主張しました。
2審の判決で東京高等裁判所の近藤宏子裁判長は「理不尽極まりない虐待行為を続けた末に、シャワーで冷水を浴びせ続けるなどして死なせたのは、異常なまでにむごたらしく、虐待事件の中でも悪質性は並外れている」と指摘しました。
そのうえで、「1審が従来の刑の重さの傾向を大きく超えるべきだとした判断には、説得力のある根拠が示されている」として被告の控訴を退け、1審に続いて懲役16年を言い渡しました。
過去の傾向を大きく超えた1審の裁判員裁判の判断について、裁判官だけで審理する2審も認めました。

野田市女児虐待死事件 父親・勇一郎被告に2審も懲役16年判決 
2021年03月04日 チバテレニュース

「並外れた悪質性」野田市女児虐待死 父親に再び懲役16年判決
4日 15時31分 TBS

千葉県野田市で小学4年の栗原心愛さんを虐待して死亡させた罪に問われ、1審で懲役16年の判決を受けた父親の栗原勇一郎被告(43)の控訴審で、東京高裁は弁護側の控訴を棄却しました。

 弁護側は「量刑が重すぎる」として控訴していましたが、東京高裁は「2日間食事を与えず、真冬の浴室に立たせ、顔に冷水を浴びせ続けるなどの虐待行為は異常なまでに陰惨でむごたらしい」「ほかの児童虐待と比べても、悪質性は並外れている」として弁護側の控訴を棄却し、一審と同じ懲役16年の判決を言い渡しました。


千葉県野田市の小4虐待死、父に二審も懲役16年、高裁
社会・くらし
2021年3月4日 15:39 (2021年3月4日 19:09更新)


千葉県野田市の自宅で2019年1月、小学4年の栗原心愛(みあ)さん(当時10)を虐待して死亡させたとして、傷害致死罪などに問われた父、勇一郎被告(43)の控訴審判決で、東京高裁は4日、懲役16年とした一審千葉地裁の裁判員裁判判決を支持し、被告の控訴を棄却した。

近藤宏子裁判長は、心愛さんが必死の思いで助けを求めたのに、被告が児童相談所や親族による救いの手を徹底的に排除し、孤立無援の状態に追い込んで虐待死させたとして「異常なまでに陰惨でむごたらしい。悪質性は並外れて際立っている」と述べた。

控訴審で弁護側は「一審判決の量刑は同種事案の量刑傾向を大きく逸脱しており、重すぎて不当だ」と刑を軽くするよう求めていた。

判決は、被告自らが撮影した動画や画像からも、心愛さんの人権と尊厳を全否定する虐待のすさまじさは明らかだと指摘。量刑傾向を大きく超える極めて悪質な事案として「一審判決が不合理とは言えない」と退けた。

被告はこの日、スーツ姿で出廷。判決言い渡しの間は終始下を向き、表情は変わらなかった。

判決によると、19年1月22~24日、心愛さんに食事や十分な睡眠を取らせず、浴室で冷水シャワーを掛け続けるなどして死亡させた。

事件では、被告の暴行を止めなかったとして心愛さんの母(34)も傷害ほう助罪に問われ、懲役2年6月、保護観察付き執行猶予5年の判決が確定している。〔共同〕

胸の骨を折る暴行も加えたり、1年2か月にわたり虐待を続けた。