国立戒壇論とは

2021年03月19日 10時36分17秒 | 社会・文化・政治・経済

国立戒壇の名称自体明治以後のものであり宗門古来の法義ではない。

概要[編集]
仏教系新宗教の在家団体である立正安国会(後の国柱会)の創立者田中智學が、『宗門之維新』(1897年(明治30年)発表、1901年(明治34年)刊行)において最初に提唱した用語である。
大日本帝国時代の法華宗各派においては、天皇帰依の実現こそ広宣流布実現の近道という当時の一般的な状勢判断と結びついて、広汎な支持を受けた。
日蓮の書簡「三大秘法稟承事」に書かれているように、国の許可を受けて戒壇を建立するのが日蓮の悲願であり、遺言であるとの主張。
歴史的にみても、戒壇の建立は国家的な事業であった。
しかし、第二次世界大戦以降、政教分離を規定した新憲法が施行され、天皇が主権者でなくなると、天皇帰依を前提とした国立戒壇論の意義は変化することとなり、法華宗各派において論じられることがなくなった。
しかし、日蓮正宗(総本山は富士宮市の多宝富士大日蓮華山大石寺)およびその信徒団体は、国立戒壇という用語を使用し続けたことから、1970年(昭和45年)4月15日の衆議院予算委員会において日本共産党の谷口善太郎が「国立戒壇は政教分離を規定する憲法に違反するではないのか」と指摘する。
これを受け、日蓮正宗および創価学会は、御書の御文になく、もともと他宗で作られた用語を布教のために便宜上使っていたとして、国立戒壇という用語の使用を自宗内で禁止した。
これに対し、日蓮正宗の信徒団体だった妙信講は、御遺命の戒壇は正本堂ではなく国立戒壇であると主張し続けたため、日蓮正宗から解散処分を受けた。
妙信講は、1996年に宗教法人「顕正会」、「冨士大石寺顕正会」(冨はワ冠)と改め、引き続き国立戒壇こそ御遺命であると主張している。
(冨士大石寺顕正会という名称を名乗っているが、日蓮正宗大石寺との法律上の関係はない。)
また、日蓮正宗大石寺第66世法主・日達は下記のように国立戒壇および異流義の戒壇論を否定している。
「『義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる』の一言を以て本門戒壇の御本尊の所在を義の戒壇なりと曲言してはならない。
本門戒壇の御本尊は一大秘法、事の一念三千、人法一箇、独一本門の戒壇の大御本尊と称し奉り既に本門戒壇の大戒壇である故であります。
依って本門戒壇の大御本尊即事の戒壇であります。戒壇の御本尊安置の伽藍が、天皇が建立した国立の建物でなければ事の戒壇でないと言うのは、戒壇の御本尊を冒涜するのも甚だしいものであります。(中略)『建立』の言葉は御本尊安置を言うのであります。(中略)ここに謹んで御本尊を拝し奉るに御本尊の其の図式がそのまま戒壇と拝し奉るのであります。(中略)本門戒壇の大御本尊即ち本門事の大戒壇であります。」(日蓮正宗法華講機関紙、大白法昭和51年2月16日号)

 


取手市立「かたらいの郷」で交歓

2021年03月19日 10時00分17秒 | 日記・断片

3月17日、久しぶりに大森さんと佐々田さんの3人で歓談した。
10時に佐々田さんが当方を迎えに来て、ミスターマックスの前の道からふれあい道路に面した新町の大森さんのマンションへ向かう。
既に駐車場で待っていた大森さんの足どりは少し回復している様子だった。
頸頸椎症(変形性関節症)であり、症状として歩行がぎこちなく不安定になっていたが、治療により、いくらか改善したようだ。
そして手も震えが大きかったが、それも小さくなっていた。
青柳のビッグAでコーヒーなどを買い「かたらいの郷」へ行く。
かたらいの郷」は、1階は研修室・クッキングサロン・和室などのコミュニティの場。
2階はつつじの湯・大利根の湯の浴室をはじめとしたリラクゼーションの場がある。
あらゆる世代の交流を目的としたスペースであるが、見かけるのは高齢者ばかりだった。
当方は、紙カップの1合酒を買って持参。
実は取手市立「かたらいの郷」の休憩場は、飲酒禁止だっが・・・。
桜は開花していないと思われたが、早咲きの白い桜が2本咲いていた。
一足早い春を告げる河津咲くが既に散り、次いでその白い桜は、白いより薄緑にも映ずる。
何時もの健康麻雀の部屋では、健康吹き矢が行われていた。
10人ほどのグループでご婦人が一人加わっていた。
吹き矢の効能、腹式呼吸を使用するので大変健康効果が高いとされている。
佐々田さんは、昨年亡くなった菅野さんや先日に亡くなった山田さん(ご婦人)の話をした。
佐々田さんは人をヨイショ( おだてる・持ち上げる )する。
よいしょが上手な人は、相手を見事にご機嫌にさせるようだ。
「本物人生を送ってください」佐々田さんは若き日の師の教えを思い出しながら語る。
彼の生真面目さの源泉を理解できた。
大森さんにも同じような青春の原点「確固たる人生観」があった。
それぞれに苦労した人の話でもあった。
次に会う日程を決める。
昨年のように、岡堰辺りで桜を見に行く予定だ。

「亡き人と縁にしながら、悲しみや苦しみの記憶が、一つの物語となっていく。その物語を共有する中で、生きる意味を見いだし、前に進む力へと変えていける。死者と生者の、どちらも孤立することなく、共に歩んでいく-そうしたストリーを持つことが大切です」
東北大学大学院・佐藤弘夫教授