利根競太郎の競輪人間学 2車単車券で十分!

2024年08月21日 22時33分11秒 | 未来予測研究会の掲示板

利根競太郎は、3連単車券を避けて、あえて2車単車券を志向する。

F1  取手競輪 レジェンドカップ・サンスポ賞

初日(8月21日)

8レース

並び予想 2-5 7-3-1 6-4

レース評

差の少ない一戦だが、志村の援護を受けられる太田に期待する。堅実ラインが形成される後藤を使う中田からも。

1番人気 3-7(5・4倍)

1番人気は買わない方針なので、3-1 3-2 2-3を各500円。

押さえは2-5 5-2 各300円。

天候 晴/風速 1.0m




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
× 1 3 中田 雄喜   11.5   4角外回し
2 2 太田 龍希 1/8車輪 11.7 B 捲り上げて
3 5 志村 太賀 3/4車身 11.7     太田マーク
4 4 近藤 夏樹 1車輪 11.7     強引切替え
5 1 庄子 信弘 1/2車身 11.6     前捨て切替
6 7 後藤 悠 3車身 12.0     内を抜いて
  7 6 齋藤 雄行 2車身 12.3     太田捲られ
 
2

未発売
2

2=3
700円(3)
3

2=3=5
460円(1)


2=3
320円(4)
2=5
320円(5)
3=5
280円(3)
未発売
3-2
1,530円(6)
3-2-5
3,730円(8)

この後は、カラオケの取手・白山のカラオケ「ハーモニー」へ向かう。

そして、ビールを飲みながら「スポットライト」、さらに、「アメリカ橋」を歌う。

競輪仲間の大先輩の高さんが、ビール代をご馳走してくれたのだ。

そのため、この日の支払いは1200円に。

そして、取手競輪場へ戻り、最終レース。

12レース

並び予想 6-1 2(7と3が競り)5-4

レース評

北勢は結束を見せたが、目標のない芦澤が初手から分断策で混戦模様。太田の仕掛けが決まり大坪の差しと読む。

1番 1-6(7・4倍) 

当然、1番人気は買わない。

6-1 2000円

6-2 6-3 6-7を各500円

2-7 2-3 2-6を各300円

天候 晴/風速 2.0m




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 6 太田 竜馬   11.3   捲り上げて
2 1 大坪 功一 1車身1/2 11.3   太田マーク
3 5 大森 慶一 3/4車身 11.6   S 前競負切替
  4 4 五日市 誠 3/4車身 11.6     外に回すも
× 5 2 酒井 雄多 1/2車身 11.9   B 逃げ捲られ
6 3 芦澤 大輔 1車輪 11.9     競勝一杯で
7 7 伏見 俊昭 1車身 11.9     内で競負け
 
2

未発売
2

1=6
390円(1)
3

1=5=6
1,040円(4)


1=5
270円(4)
1=6
190円(1)
5=6
390円(7)
未発売
6-1
910円(3)
6-1-5
2,960円(6)

 

 

 

 


まず<やってみる>ことだ

2024年08月21日 21時03分00秒 | その気になる言葉

▼聡明な人間は、生涯、学び続ける人だ。

▼自分で決めたことを、一つやってみる。

それが自信になる。

自分で決めたことをやりきる―それは決して簡単ではないかもしれない。

時間もかかるし、行動するには勇気も必要だ。

だからこそ大切なのは、まず<やってみる>ことだ。

▼たいていの人は、自分の職業や生活に関係のない社会現象には冷淡である。

知ろうともしない。

世間一般の考えは、果たして正しいのか。

批判や誇張が包装紙のように、真実を覆い隠していないか。

評論家の草柳大蔵氏の根底には「通念への挑戦」があった。

歴史上の出来事や社会での現象を、本当の姿が見えるまで、丹念に掘り起こしていく。

彼の筆は、特攻隊や戦後の占領行政の内幕など、埋もかけていた歴史の実像を浮かび上がらせた。

 

草柳 大蔵(くさやなぎ だいぞう、1924年大正13年)7月18日 - 2002年平成14年)7月22日)は、日本評論家ノンフィクション作家ジャーナリスト

妻はきもの研究家の石川あき(1927年 - )。長女はテレビキャスター草柳文惠

神奈川県横浜市鶴見区出身。横浜二中旧制府立高校を経て、1945年昭和20年)に東京帝国大学へ入学。間もなく学徒出陣となり、特攻隊員(特別操縦見習士官)を志願する。敗戦後は復学し、1948年(昭和23年)に東京大学法学部政治学科を卒業(在学中に改称)[1]

八雲書店に入社し、編集者として『中野重治国会演説集』などを手がけるが、1949年(昭和24年)に人員整理で退職し、自由国民社編集者、産経新聞記者(経済担当)等を経験。そのあいだ、1952年(昭和27年)から大宅壮一の助手として2年間師事[1]1956年(昭和31年)『週刊新潮』創刊に加わり、当初はリライターとしての起用だったが、次第に特集記事をまかされるようになり、記者の取材結果を草柳がアンカーとして記事にするという分業体制も生まれた。

1957年、大宅壮一が創設した「ノンフィクションクラブ」に参加。

1958年(昭和33年)『女性自身』の創刊に参画。

同年からフリーランサーとなり、週刊誌の草創期に自らアンカーとなった取材・執筆の「草柳グループ」を率いた1967年には「大宅壮一東京マスコミ塾」にて講師をつとめる

野村克也が、人生で大きく影響を受けた人物である。

南海ホークス選手兼任監督時代、妻・沙知代が草柳と知人だった関係から、夫人から紹介された

野村は草柳を師と仰いだ

1977年の南海監督解任時、沙知代夫人との交際が明らかになって監督解任が決まると、野村は草柳に相談した

草柳は禅語の「生涯一書生」という言葉を送って野村を激励し、野村は「それなら私は生涯一捕手で行きます」と応じ、後の野村の代名詞が生まれた


創作 競輪の女神? 2

2024年08月21日 04時01分28秒 | 創作欄

的場晃は、取手競輪場で初めて指定席へ向かった。

競輪仲間に、友人の寺川譲二の妹で未婚の母のさやかと同伴する姿を見せるわけにはいかないと思ったのだ。

メインスタンド3階の特別観覧席(500円)を避けて、第1特別観覧席(1000円)へ向かった。

1階に弁当を売るコーナーがあり、さやかは、おにぎりを買う。

そして、駅ビルの1階で買ったウナギを手提げのバッグから出して食べるのである。

晃は昼食は食べない。

腹が多少出てきたので、昼は抜きの習慣となる。

これまで80を保っていたウエストが85となっていたのだ。

思えば、57歳で亡くなった母親は、中年にしては腹がほとんど出ていなかった。

それなに、妹の晃子は30歳なのに、中年の女のような体形であり、父親の伸一に似た体形を恨んでいた。

妹は甘いものが大好きで、兄の晃が呆れるほど間食が多いのだ。

おにぎりとウナギを食べるさやかも妹と同じ体形だった。

「いいながめね」2階の特別観覧席は3コーナーに位置していて、向かい側のメインスタンド観覧席はほぼ正面の方向に見えていた。

5レースは車券を買わずに見ていた。

そして6レース。

「さやかは、3-4-5がいいな」と彼女がつぶやくのだ。

晃は、1着は7番、2着は並びの2番か別線の6番の番手の5番と思い、その車券を買う。

さやかに、せがまれたので、3-4-5のボックス車券(600円)も買ったのだ。

さやは、レースを観ながら手を合わせて祈っていた。

7-2-3の1番人気ラインが突っ張り先行してしまう。

その時点で、晃は「ダメだな逃げてたは、7-2はないな」と諦める。

そして、何と結果は、4ー5-3となる。

実に、さやかも、驚く17万円を超える大穴車券となったのだ。

晃は、車券が的中して小躍りで大騒ぎするさやかに10万円を渡す。

「凄いね!祈ったことが通じたのね」さやかは10枚の1万円札を扇形に広げるのだ。