釈迦は、いろいろな執着は発展の妨げになものした。
だが、執着を離れるのではなく、執着を明らめて使いきる境涯になればいいのである。
みんなに執着があるから、味のある人生が送れるのである。
執着が自分を苦しめないようにし、自分の執着を使いきって幸福にならなければならない。
釈迦の弟子舎利弗たちは「二乗」の境地に安住してしまった。
声聞と縁覚の二乗は現世に対する執着を断った聖者(阿羅漢)ではあるが、現実逃避的・自己中心的であり利他の行を忘れたものとして大乗仏教からは小乗と称された。
声聞とは、仏の教えを聞いてさとる者や、教えを聞く修行僧、すなわち仏弟子を指す。
縁覚とは、性質としては仏の教えによらずに独力で悟り、それを他人に説かない聖者を指す。
さまざまな執着からはなれ、煩悩を断ちきることは、一見、高尚な行為のように映るが、そこには大きな誤りがある。
他人の人々や社会に対し関心を持たず、世の中を良くしようとする人たちに対しても冷淡になってしまう態度につながりかねない。
社会の問題に対する諦念を打ち破ることだ。
怒りは、他人を傷つける方向にも向かうが、 人間の生命と尊厳を脅かす問題や不正義に対する憤りは、時代変革の力を生み出す源泉になる。
執着も社会を良くするための原動力にすることができる。
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