社会における枠組みが健康に与える影響とは?-「社会疫学」からの提言
社会疫学とは―社会がヒトの健康に与える影響をひも解く学問
人々の健康状態は、職業や学歴、社会的な規範や他者との信頼関係など、社会との結びつきから生じる様々な要因の影響を受けています。
また、国や地域の政策や文化、景気動向や所得格差などの社会環境からも影響を受けていると言えるでしょう。
これら「社会的決定要因」がもたらす健康リスクについて、疫学の手法を用いて考察を加え、問題の本質を探索する学問が社会疫学です。
野田先生は、社会疫学について次のように説明します。
「特定の疾病に関する発症リスクと社会的要因との関連についてエビデンスを構築し、人々の健康リスクを高めている社会的要因を是正することで、社会における健康格差を抑制することを目指しています。」
社会格差の広がり、その是正への動きが社会疫学を生む
社会疫学の始まりは、40~50年前にさかのぼります。
社会環境が健康に影響を及ぼすことについて、その事象を科学的に分析・立証しようとする認識が興るようになります。
1970年にアメリカの疫学者、リサ・F. バークマンが、家族・友人・親戚などの数および接触頻度によって測定されるソーシャルネットワーク(社会的関係)と健康の関連を検証。
1990年代には、社会疫学の最初の書籍「Social Epidemiology」が米ハーバード公衆衛生大学院のイチロー・カワチ氏らによって刊行されました。欧米においては社会格差拡大が政策的に問題視されるようになってきたことが後押しとなって、社会疫学という学問領域が確立されてきたのです。
一方で、日本での社会疫学の発展は、欧米に比べると遅れました。
その理由について、野田先生は「戦後、誰でも医療サービスを受けられる『国民皆保険』が整備され、欧米に比べて医療格差が小さかったことや、終身雇用を前提とした雇用制度のもと、国民全体の所得格差が小さく、社会全体の不平等への認識が低かったことが理由として考えられます」と述べました。
しかし、日本国内においても景気後退とともに非正規雇用が増加し、社会格差への関心が高まるにつれ、それらが健康や福祉に与える影響にも関心が及ぶようになっていきます。
それと同時に、社会における人々の結びつきの希薄化も問題視されるようになり、2011年の東日本大震災を契機に、「きずな」という言葉が注目されるなど、社会的ネットワークの重要性に目が向けられるようになりました。
「これがまさに、社会疫学の視点です。社会格差の認識の高まりとともに、我々をはじめ社会疫学の研究者たちがエビデンスを構築してきたことが、政策に反映された一つの事例だといえます」(野田先生)
育児や介護などの家庭内ストレスが健康に与える影響
社会疫学のなかでも、野田先生の研究では、心筋梗塞などの循環器疾患をターゲットに、その発症リスクに関連する社会的要因を探っています。
とくに、家庭・学校・地域・職場など、人の持つソーシャルネットワークやソーシャルサポートが循環器疾患にどう関わっているのかを研究テーマにしています。
例えば着目しているのが、婚姻と循環器疾患発症リスクの関係です。
日本の男性の場合は、欧米と同じく、婚姻している人の方が婚姻していない人よりも長生きするという結果が出ています。
つまり、ソーシャルサポートがあるほうが、疾患発症リスクや予後の死亡リスクが低下します。
しかし、日本の女性では、その現象が見られません。婚姻しているかどうかは女性にとって健康上のベネフィットとは無関係なのです。
この点について、野田先生は、女性が有するソーシャルサポートが、ストレスの指標である唾液中αアミラーゼ活性にどのように影響を与え、動脈硬化に関与しているのかについて調査しました。
すると女性の場合は、「介護が必要な人と住んでいる」「育児をしている」など、家族構成によって αアミラーゼ値が異なり、また、唾液中αアミラーゼ活性が高い人ほど、動脈硬化指標が高いことが明らかになりました。
このことからわかったのは、女性の場合は単に婚姻関係というソーシャルサポートがあるかないかではなく、「誰と」住んでいるかが重要になるということです。
![](https://goodhealth.juntendo.ac.jp/uploads/AdobeStock_323921188.jpg)
「男性と女性では、同じく婚姻関係というソーシャルサポートがあったとしても、循環器疾患の発症リスクが異なっています。
これには、日本社会において多く見られる夫婦間の性別役割分業が関係していると考えられます。
男性にとっては疾患の発症リスクを低下させ、ベネフィットとなるソーシャルサポートが、女性にとってはそこに育児や介護負担が加わることで、かえって疾病発症リスクを高める要因になっているのです。」(野田先生)
唾液中のαアミラーゼについては、同様に、低学歴、非正規雇用などの要因により高値になるとの関連性も認められました。経済的な不安からくるストレスも循環器疾患に影響する可能性がある ということです。
日本独自のエビデンスを構築する
社会疫学の調査対象は、特定の国・地域に住む集団であり、対象集団の国や地域が変われば結果が異なってきます。
米国では婚姻というソーシャルサポートが男女ともに健康リスクを下げていた一方、日本では男性にしかその現象が見られなかったように、同じソーシャルサポートを有していたとしても、国や地域が異なれば、それによって生じるベネフィットは異なるのです。
日本社会において人々の抱える健康の問題を解決していきたいと考えるとき、他国で出されたエビデンスに頼るのではなく、日本独自のエビデンスを構築することが必要だと言えるでしょう。
「欧米とは異なる地域から、その地域特有のエビデンスが出てくることで、社会的な要因が人々の健康へどのような影響を及ぼすのか、より正しく理解できるようになります。また、日本から独自のエビデンスを他国へ示しながら国際共同研究を展開していくことで、グローバルな単位でも一つのテーマに対する理解をより深め、発展させていくことができると考えています」(野田先生)
![](https://goodhealth.juntendo.ac.jp/uploads/AdobeStock_214863337.jpg)
多彩な分野の人材とともに政策提言につなげる
健康格差が是正され、皆が平等に健康的な生活を営むことができる社会を実現させるうえで、これから社会疫学が担っていく役割は大きいと言えます。
一方で、社会疫学という学問が抱える課題について、野田先生は次のように語ります。
「日本における社会疫学は現状、医学の学問分野の一つとして位置付けられているため、社会疫学者の多くは医学を専門としています。
そのため、どうしても学問としての視野は狭まりがちになりますし、社会疫学を学べる人も限られてしまいます。私たち社会疫学者は、社会格差から生まれる健康上の影響について、エビデンスを構築し、政策提言につなげていくことを目指しています。そのためには、現在のように社会疫学が医学という学問領域にとどまっていては限界があるのです。」
この限界を突破し、社会疫学がさらなる発展を遂げていくためには、文理が融合し多様な人材が社会疫学に携わることが有効だと野田先生は力を込めます。
「医学という学問の枠を超えて、統計学や公共政策学、政治学、心理学、経済学など、あらゆる分野の人たちと連携し、社会疫学の知見を各々の専門領域で生かしていくことができる学問へと変化していくことが必要だと感じています。そうであってこそ社会により良い影響を与えられるようになっていくはずです」
その意味で、順天堂大学の国際教養学部で社会疫学が学べることは、非常に意義深いと野田先生は話します。国際教養学部では、医学部の教員から基本的な医学の知識を学べるほか、「健康」という切り口で様々な授業が展開されています。
![](https://goodhealth.juntendo.ac.jp/uploads/IMG_7697.jpg)
「『国際教養』というと、医学や理系分野とは無関係というイメージがあるかもしれませんが、学生たちには初めから『できない』と決めつけずにトライしてほしいと思っています。私のゼミでは、学生たちに統計手法や社会調査の手法を用いてデータ収集と分析をしてもらっています。国際教養学部では、学問分野にとらわれない学際的な学びの場が提供されているのです」
今後は他学部ともネットワークを構築し、文理融合の学びをさらに深めていきたいと話す野田先生。教育、研究面での取り組みがつながり、社会疫学がさらなる広がりを見せていくことが期待されます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます