人間に優劣をつける心なき差別とは、何に起因するだろうか?
これまでの二元論には、限界があるのだ。
対立や衝突の原因の一つである二元論。
ものごとを二つに分ける思想は、ヨーロッパで広く共有され、世界に普及した。
生と死、秩序と無秩序、善と悪、上と下、正常と異常、優性と劣勢、強者と弱者、男性と女性、大人と子ども。
さらに、文化と野蛮、白色人種と有色人種、理性と感情、科学と宗教などの二元論的思想が広く共有されている。
そこには、一方が優れていて他方が劣っているというような誤った区分が長年、普遍的な事実であるかのように共有されてきた。
その概念は前者が肯定的なものであり、後者が否定的なものといった意味を付与しるとともに、前者が後者を教え導くことを前提とした支配的立場があり、後者が支配される立場となっている。
二元論には、「人間が自然と切り離された存在」であり、「人間が自然より優れた存在」であるとの視点によって成立する、主体と客体の区分に基づいているのだ。
表日本、裏日本、北アメリカ、南アメリカ、北半球、南半球などの区分。
その背景には、文化と自然、文明国と非文明国というような、優劣に基づくイメージが付与されている。
20世紀初頭のアメリカには、ヨーロッパからの移民が集まるとともに、多様な先住民が存在していた。
「自分が善で相手が悪」「自分が優れた側で相手が劣った側」という二元論の価値観にとらわることで、亀裂がさらに深まった。
だが、二元論のようには、心と体の働きは引き離せない。
つまり、心と体は不二の存在で、切り離すことはできないのである。
また、人間と自然は、本来一体なのである。
主体と客体は不可分の関係にあるのだ。
ここに、二元論を止揚する生命哲学の理念があるのだ。
現代では、生は善、死は悪とする傾向にもあるが、死を忌み嫌っても排除することはできない。
死は単なる生の欠如ではなく、生と並んで、一つの全体を構成する不可分の要素なのだ。
その全体とは「生命」であり、生き方としての「文化」である。
死を凝視し、正しく位置づけていく生命観、生死観、文化観の確立こそ、21世紀の最大の課題となっていくだろう。
生命尊厳に根差した利他主義に基づき、自己と他者という二元論を超克することだ。
その態度、姿勢こそが人間と人間の絆を広げていくことになるだろう。
あらゆる差異を超えて、一人の人間として、互いに生命の尊厳を認め、友情と信頼を結び合うことで、世界平和も創出されるだろう。