今日の「 お気に入り 」は 、村上春樹さん ( 1949 - )
の随筆「 村上朝日堂 はいほー! 」( 新潮文庫 )
の中から抜き書き 。備忘のため 。
引用はじめ 。
「 〈 そういうものだ 〉と〈 それがどうした 〉と
いう言葉は人生における( とくに中年以後の人
生における )二大キー・ワードである 。 経験
的に言って 、このふたつの言葉さえ頭にしっか
り刻みこんでおけば 、たいていの人生の局面は
大過なくやりすごせてしまう 。
たとえば せっかく駅のフォームの階段を駆け ( platform だから フォームなのかな 。)
のぼったのに 、間一髪で電車のドアが閉まって( 慣用的には プラットホームとか駅のホームとか 。 )
しまったりすると 、ものすごく腹が立つもので
あるが 、このようなときは〈 そういうものだ 〉
と思えばいい 。つまり電車のドアというのはた
いてい目の前で閉まっちゃうものだと認識し 、
納得すればいいのである 。そう思えばべつに腹
も立たない 。世界がその原則に従って然るべき
方向に流れているだけの話である 。
しかしその電車に乗り遅れたおかげで待ち合わ
せの時間に遅れることだってある 。そういう場
合には〈 それがどうした 〉と自分に向かって
言いきかせる 。時間なんてたかが便宜的な区分
じゃないか 、待ち合わせに二十分やそこら遅れ
たって 、そんなのは米ソの核軍拡競争や神の死
に比べたらなんていうことないじゃないか 、
と思う 。これが〈 それがどうした 〉の精神で
ある 。
ただしこういう考え方に基づいて生きていると 、
気楽に生きていくことはできるけれど 、人間的
にはまず向上しない 。社会的責任感やリーダー
シップなんかとはまず縁がなくなってしまう 。
そのうちに核戦争が起こっても 、神が死んでも 、
〈 そういうものだ 〉〈 それがどうした 〉と
考えてしまうようになって ―― 僕にもいささ
かそういう傾向があるけれど ―― それはそれ
で困ったことになってしまう 。物事にはほど
ほどというのが必要である 。」
引用おわり 。
小文のタイトルは「 恋に落ちなくて 」。
このタイトルが付いているのは 、はじめの方に 、
以下の文章があるからです 。
「 女性に関する好みというのは 、やはり僕にも
ある 。」
「 ここで僕の言う好みというのは 、外見とか雰
囲気とか 、そういうもののことである 。つま
りその女性と何かの拍子に出会って『 あ 、こ
の人は素敵だな 、感じが良いな 、僕の好みだ
な 』と思ったりすることである 。そういうの
はそれほどしょっちゅうあることではないけれ
ど 、やはり年に一度くらいはあるみたいだ 。
しかしそれで僕がその相手と灼熱の恋にのめり
こむかというと 、そんなことはなくて 、とく
になんということもなくそのまま別れてしまう 。」
「 僕の好みの外見の女性はまず百パーセント近く
内面的には ―― というかつまり人間的には ――
僕の好みではないのである 。だから最初は電光
に打たれるが如く胸をかきたてられても 、しば
らく相手と話しているうちに 『 ま 、いいや 』
という感じでその電光がしゅるしゅると終息し
てしまい 、結局僕は恋に落ちることなく終わっ
てしまう 。こういう人生は不幸といえば不幸だ
し 、平和といえば平和である 。」
( ´_ゝ`)
作家の考察は 、さらに続きます 。
「 自分の好みの外見の女性に自分の好みの人格が
備わっていないというのは 、見ていてもなかな
か切ないものである 。見ているだけで切ないん
だから 、深く関わればもっと切ないんだろうと
思う 。そういう女性を見ているときの心境は
―― かなり卑近なたとえだけれど ―― 洋服屋
でものすごく気に入った服をみつけたのにサイズ
がまったく合わないというときの心境によく似て
いる 。あきらめるしかないということはわかっ
ているのだけれど 、心情的になんとなくあきら
めきれないのである 。」
「 僕が僕の目で捉えている世界と 、客観的に『 世
界 』として実在する世界とでは 、その成りたち
方がまったく違うのである 。つまり僕がいくら彼
女の外見と彼女の人格が相反していると感じても 、
その相反状態が一個の人間として存在し機能して
いる以上 、僕にはそれに対して異議を唱える権利
なんてまったくないのである 。それに彼女の目か
ら見た世界にあっては僕だって相当歪んだ姿をと
っているかもしれないのだ 。
そういうものなのだ 。」
以上 。言葉少なな筆者には 、とても務まらない職業だな 、
作家というのは ・・・ 。イグ・ノーベル文学賞あげたい 。
夏の終わりの 、雨降りの朝 。
雷鳴しきり 。