今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。
備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。
引用はじめ 。
「『 潟 』
という日本語はよほど古いものらしく 、『 万葉
集 』にも紀州の和歌の浦の潟( 滷 )を詠んだ歌
として『 若の浦に潮満ち来れば滷(かた)を無(な)
み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る 』というのがあ
る 。
潟とは 、この歌がその地理的特徴を的確に言いあ
らわしている 。河川の河口などで海が 、河川が流
す土砂のために遠浅になっており 、そこに潮が満
ちてくる 、『 滷を無み 』でもって海に化してし
まうが 、潮が干ると洲になって現れる場所をいう。」
「 かつて潟だった土地が信濃川や阿賀野川の活動で
潟がうずまって自然に野になってしまった土地 ――
たとえば新潟市のように ―― もあるが 、新潟市
の南郊の亀田郷のように 、人間が他から泥を運ん
できて水中に投げ入れ 、永年それを繰りかえして
いるうちに陸とも沼ともいえぬ異様な水田耕作地に
なったというようなところもある 。
要するに新潟県というのは 、大河の河口にちかい
野は 、新潟市をふくめてかつては潟であった 。満
潮のときには 、いまの新潟市などは海底にあったか
と思える 。」
「 ・・・ 新潟市の南郊の亀田郷という地域の土地
改良の歴史と現状を描いた映画をみた 。
映画は二本だてになっていて 、一つは亀田郷の
自主製作のモノクロ・フィルムで 、一つは新潟県
が製作したカラー・フィルムによるものだった 。
とくにそのモノクロ・フィルムのほうに 、衝撃を
うけた 。
亀田郷では 、昭和三十年ごろまで 、淡水の潟に
わずかな土をほうりこんで苗を植え( というより
浮かせ )、田植えの作業には背まで水に浸(つ)か
りながら背泳のような姿勢でやり 、体が冷えると
上へあがって桶の湯に手をつけ 、手があたたまる
と再び水に入るという作業をやっていたことを知っ
た 。
映画を観了えたとき 、しばらくぼう然とした 。
食を得るというただ一つの目的のためにこれほど
はげしく肉体をいじめる作業というのは 、さらに
はそれを生涯くりかえすという生産は 、世界でも
類がないのではないか 。
映画では 、潟の水の中へほうりこむ土も 、陸地
から採ってくるのではない 。田舟を漕ぎ出して 、
爪のような道具に長い棹(さお)をつけ 、潟の水底
から掻きとって舟に揚げ 、舟にわずかに土が溜ま
ると 、田( といっても渺茫たる水面だが )へ持
って行って 、ほうりこむのである 。」
「 亀田郷の全面積一万五〇〇〇ヘクタールのうち 、
農地はその半分以下の六〇〇〇ヘクタールしか無
い 、という現状になっている 。さらにべつな統
計表では 、三分ノ一が市街化してしまった 。都
市化がすすむにつれて都市的な人口がふえ 、郷
内の住民は十六万人にふくれあがり 、農家人と
いうのはそのうち一割ほどしかいないという所に
までなっている 。
大きな理由としては戦後の日本の農政が 、基本
として工業に身売りする方針をとったための如実
なあらわれといっていい 。
亀田郷は 、新潟市の南郊にひろがっている 。そ
の面積の何割かは新潟市域になっており 、都市と
して膨張率( 明治二十二年人口四万余 、現在四
十万余 )がむしろ高いといえる新潟市の都市エネ
ルギーの影響を亀田郷北部は圧倒的にうけざるを
えず 、その露骨なあらわれは 、地価の暴騰であ
ろう 。
『 農業などは 、割にあわない 』
という営農思想の低下は 、地価の高騰の前には 、
当然といっていい 。土地を住宅や商工業の用地と
して売ったり 、あるいは地価操作をして都市地主
になって遊んでいたほうが 、はるかに得であり 、
楽なのである 。
ついでながら 、文明国と称せられる国の中で 、
地面を物のように売ったり買ったり 、あるいは地
価操作をしたり 、ころがして利鞘をかせいだり 、
要するに投機の対象にするような国は 、日本しか
ない 。資本主義はあくまでも物をつくって売ると
いう産業のものである以上 、こういう地価過熱に
経済社会がよりかかったり 、混乱させられたり 、
地価過熱によって諸式が高騰して国民経済が破壊寸
前の滑稽なすがたになっているような社会は 、厳
密には資本主義とさえよべないのではないか 。
フランスや西ドイツの農民たちが都市近郊の高燥
な台上で 、悠々として葡萄をつくっているのを見
ると 、地価操作式の資本主義思考に馴らされてい
る日本人としては 、奇妙な光景にさえ感じられる 。
葡萄をつくるより 、そこを宅地化して地面を売っ
たり貸したりするほうが儲かるのではないか 、と
言いたくなるのだが 、それらの国々は土地制度が
安定しているために 、決してそうはならないらし
い 。やはり葡萄の実を採り 、村の共営工場で葡
萄酒にして売るほうが 、当然ながら 、利益を得
るのである 。」
「 阿賀野川の橋を東にわたり 、ほどなくゆくと 、
『 豊栄(とよさか)市 』
という標識が出ていた 。かつて広大な地図を占
めていた木崎村は 、いまはそういう呼称のなか
に含められている 。
道路わきに 、農業協同組合の看板の出たりっぱ
なビルがあった 。
『 いまは 、農協も大変なものですよ 』
と 、農家出身のタクシーの運転手さんがいった 。
このあたりの土地が新潟市の東郊にあたるため 、
宅地として地価が騰(あが)っている 。だから農協
に不動産部門ができて 、宅地を売ることで大層活
躍しているという 。農業ほど政治で左右される産
業はないといわれるが 、いまの政治が農業にかけ
る力を軽くしてしまったことが 、農協に地面を売
らせるという 、およそ自分の手足を切って売るよ
うな結果をまねいたのであろう 。
しかも売っている土地というのは 、江戸二百余
年のあいだ 、新発田藩とその領民が営々として田
地として造成してきた土地なのである 。このこと
は 、潟が陸地になった以上に滄桑(そうそう)の変
であるといえる 。」
引用おわり 。
角栄さん 、真紀子さんの地元ですもんね 。
どうやら 新潟は 、現代日本の縮図みたいなとこらしい 。
( ついでながらの
筆者註:「『 滄桑の変(そうそうのへん)』は 、世の中が
激しく変化したり 、移り変わりが激しいことを
意味する四字熟語です。 (『 滄海桑田 』は四字熟語だけど 、普通
『 滄桑 』は『 滄海桑田 』の略で 、青い大海 『 滄桑の変 』を四字熟語とは言わない )
原と桑畑を意味します 。青海原が干上がって桑
畑になってしまう様子から 、予想もできないほ
ど世の中が変化していることを表現しています 。
『 滄桑の変 』の由来は 、神仙伝の『 王遠 』
に登場する話です 。仙人になった王遠が麻姑と
いう仙女に会った際に 、麻姑が『 東海の三た
び桑田となるを見る 』と語ったという話です 。
このことから『 滄海桑田 』という表現が生ま
れ 、さらに『 滄桑の変 』として使われるよう
になりました 。」
以上 、生成AIによる「 滄桑の変 」の解説 。)