今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科
事典「 ウィキペディア 」掲載の記事 「 倚松庵 」。
引用はじめ 。
「 倚松庵( いしょうあん )は 、兵庫県神戸市東灘区
に建つ歴史的建造物 。文豪谷崎潤一郎の旧居 。ここで
執筆された代表作にちなんで「『 細雪 』の家 」とも
呼ばれる 。庵号は夫人の名前『 松子 』に因む 。
1929年(昭和4年)に当時の武庫郡住吉村反高林
1876-203 に建てられた 和風木造建築 で 、谷崎潤一郎
は 1936年11月から1943年11月まで 居住した 。なお 、
谷崎が居住した時期の家主は 極東選手権競技大会サッ
カー日本代表の後藤靱雄であった 。
1986年 に、倚松庵が所在する住吉川畔に神戸新交通
六甲アイランド線の橋脚建設計画が持ち上がると 、専
門家から計画敷地の脆弱性の指摘があったほか 、美し
い景観が破壊されるとして住民訴訟が行われたが 、19
90年(平成2年)に神戸市は建設を強行し 、倚松庵は
同じ東灘区内の現在地に移築された 。これにより倚松
庵周辺の景観は本来とは違うものになったものの 、5年
後に兵庫県南部地震が起きた際には 専門家の指摘どお
りアイランド線の橋脚は損壊したが 、移築していた倚
松庵は損壊を免れた 。
『 倚松庵 』と呼ばれる家は6軒 あったが 、一般的
に『 倚松庵 』といえば 、谷崎の居住期間の長さから
この旧居を指す 。
館 内
1階 ― 応接間(洋間)、西の部屋(洋間〈食堂〉)、和室( 4.5 畳 ) 、
和室( 3畳 〈玄関・台所脇にある女中部屋〉) 、風呂 、台所
2階 ― 『 幸子の部屋 』(『細雪』に登場する二女
“幸子”=松子夫人=の部屋 ) 、『 悦子の部屋 』、
『 こいさんの部屋(四女”妙子”の部屋)』( 全て和室 )
建築概要
竣工 ― 1929年8月 (1990年7月に現在地に移築)
構造 ― 木造瓦葺二階建
延床面積 ― 148.92m2(1階95.45m2、2階53.47m2)
敷地面積 ― 440.79m2
所在地 ― 〒658-0052 兵庫県神戸市東灘区住吉東町
1-6-50
建築当時は今の六甲ライナー魚崎駅付近に存在した 。
当線建設に伴い現地に移築された 。」
引用おわり 。
(⌒∇⌒) 。
通りから撮影された上掲の写真は 、昭和の初めから昭和の
10年代に掛けて 、阪神間で建てられた典型的な和風木造
二階建て住宅のようである 。
写真にある 、表通りから 、門や塀越しに 見た外観は 、筆
者の記憶に残る 、五 、六歳までの幼時を過ごした 生家の佇
まいそのものである 。驚くほど似ている 。
間取り図や敷地の図面を見ると 、倚松庵は 、筆者の生家
より一回りも二回りも大きく 、部屋数も多く 、前庭も広い
お屋敷である 。
筆者の生家は 、阪神間の芦屋市山手町の山の斜面に造成さ
れた比較的狭い敷地に建てられていた 。眺めはいいかもし
れないが 、山の上にある随分と不便な場所で 、当時は山の
上の小学校が 、歩いて四 、五分の距離にあり 、小学生の
通学には至って便利だが 、それ以外の中高生や大人が外出
するには 、なかなか大変な土地だった ( に違いない ) 。早
い話 、自動車の便がなければ 、外出すら難しい 、別荘地
のような場所だったような気がする 。
風当たりの強い山の上の二階家であったから 、秋口になる
と台風の襲来に備えて 、事前に 、二階の雨戸を外側から板で
補強していたようなかすかな記憶すらある 。
筆者が生まれ 、そして六歳まで生活した芦屋は 、小説「 細
雪 」の中で描かれている時代の 、およそ10年あと 、昭和
二十年代の 、朝鮮動乱前後の 、戦後の 芦屋 である 。「 細
雪 」に描かれた 戦前の「 阪神間の世界 」は 、とっくに崩壊
していた ( 筈である ) 。
当時 、山手町の山の上の方に進駐軍に接収された住宅でも
あったのか 、朝夕 、進駐軍のMPの黒人兵士が制服をきちっ
と着て 、拳銃を腰のホルスターに収め 、宿舎の住宅と最寄り
駅「 芦屋川 」の間を往復する姿を道端で眺めていた記憶があ
る 。
七十年も前の 、昭和20年代の話しである 。・・・ 今は昔 。
(⌒∇⌒) 。
倚松庵と違って 、筆者の生家は 、現存しない 。でも生家が
建っていた山の斜面に造成された土地や敷地前の舗装された
細い坂道は 、山崩れもなく 、令和の今も無事で 、どなたか
の今風の家が建っている 。
グーグルマップのストリートビューによって 、関東の地に
いながら 、関西の阪神間の故地の近況を目の当たりにできる 。
便利な世の中になったものである 。
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