「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

千枚田 Long Good-bye 2024・10・28

2024-10-28 06:00:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。

  備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 農業というのは 、日本のある地方にとっては死
  物狂いの仕事であったように思える 。

   土佐に 、檮原(ゆすはら)という山間のむらがある
    幕末の志士で那須信吾( 天誅組の乱で討死 )や
  那須俊平( 蛤御門ノ変で討死 )などという郷士が
  この檮原から出た 。
  『 檮原のひとはえらい 』
   と 、高知市内のひとはよく言う 。土佐のチベット
  といわれた信じがたいほどに農業生産の困難な土地
  に住みつき 、代々石を割って土をつくり 、わずか
  な山田を建造物のように造営し 、水はときに渓流
  から汲みあげて注ぎ 、平安末期にこの村ができて
  以来 、それほどまでして生きねばならないかと思
  えるほどの労働を重ねて 、昭和三十年前後までい
  たっている 。あるいはこんにちなお 、そうかもし
  れない 。
  『 檮原の千枚田
   といわれる 。
   山の斜面を掻きとり 、土中の石をとりのぞき 、
  棚をつくるようにして田を造り 、土が流れぬよう
  に土止めとして石垣を築き 、その棚と石垣が 、千
  枚もあるかと思えるほどに層をなして 、古代の石
  造構造物を見るようである 。
   土佐の檮原は 、高知県の西北角の愛媛県境にちか
  い山中にある 。山口県の秋吉台に似たカルスト地
  形の土地で 、溶食された石灰岩が無数に土中にか
  くれていたり露出していたりして 、ここを拓くと
  いうのは 、まず石を抱きあげてとりのぞくという
  ことからはじめねばならなかった 。」

 「 律令体制というのは 、都の貴族や寺院のために
  のみあったといっていい 。全国の農民は『 公民 』
  という名のもとに公田に縛りつけられ 、転職や移
  住 、まして逃散の自由はなく 、働く機械のように
  あつかわれ 、収穫の多くを都へ送らせられた 。
  律令制は広義の奴隷制だったともいえるであろう
   ひとびとは租税を納められなくなって逃散した 。
  かれらの多くは中央政権の拘束力のややゆるい関東
  や奥州に流れたりしたが 、中央政権の目のとどき
  にくいところといえば 、かならずしも関東や奥州
  だけではない 。
   大山塊のなかの秘境のような所も 、逃亡先として
  わるくなかった 。この土佐檮原も律令の逃亡者が
  吹きだまりのように溜まって拓いた隠れ里であると
  いう解釈を『 檮原町史 』はとっている 。卓見と
  いっていい
   上代の檮原のひとびとの多くは伊予( 愛媛県 )
  の先進的な水田地帯から逃げてきた 。石を割って
  でも稲を植えようという過酷な労働を自分に強い
  たのは 、人里という律令社会にもどれば刑罰か漂
  泊のはての餓死が待っているだけだというかれら
  の確信と恐怖であったにちがいない 。
   私はかつて幕末の那須信吾をしらべているときに 、
  檮原に関心をもった 。ところが檮原を知る努力を
  しているうちに 、奈良朝・平安朝という律令の世
  の農民に関心を持った 。

   ただほとんど資料がない 。農民の感情もわから
  ねば 、利害感覚もわからず 、要するに律令の農
  民像というのは深い霧のむこうにあるのみで 、な
  にひとつわからない 。ただ律令の『 浮浪者 』た
  ちが逃げ落ちてきた檮原の苛烈な労働のあとをみる
  とき 、かれらが捨ててきた下界の水田地帯( 律令
  体制下の農村 )を逆に想像できる 。捨てたくなる
  ような体制としての苛酷さが下界の水田地帯を覆っ
  ていたのではないかという想像である 。いかに石
  をくだいて土を作ろうとも 、体制外の檮原のほう
  が楽天地だったのではないかと想像できるのだが 、
  それ以上はわからない 。」

 「 耕シテ天ニ至ル 。貧ナルカナ 。

   という有名なことばは 、古語ではなく 、また中国
  の古典にある言葉でもない 。
   明治中期に日本にきた清国の政治家が 、瀬戸内海
  を汽船で神戸へむかいつつ 、内海の島々の耕作の状
  態をみて驚歎してつぶやいたことばである 。当時日
  清の関係が嶮悪になりつつあり 、この清国の政治家
  としては 、日本の経済力を見きわめたいという思い
  があったのであろう 。岩だらけの小島が 、梨の皮
  を剥くように島肌を剥き 、段丘を作り 、それが層
  々と島の天辺にまで達している 。まことに貧なるか
  なであり 、清国の政治家としては 、帝国主義の相
  貌を見せはじめているこの小さな島国の楽屋裏を見
  たような感じがして 、あるいは安堵の思いをそうい
  う表現に託したのかもしれない 。

   そこへゆくと 、清国の農村は大らかで 、耕作しが
  たいような土地に鍬を打ちこむようなことは 、ほぼ
  なかったといっていい 。」

 「 大陸とはちがい 、小さな島国では 、小さな収獲を
  得るために信じがたいほどの過大な労力をはらって
  耕地を造らざるを得ず 、檮原のような営みは古来日
  本の各地でつづけられてきたし 、このことは日本人
  の性格を形成する要素の一つになっているような気
  がする 。」

 「 ・・・ 大和政権というのは 要するに 水稲農業を奨
  励し普及し 、それによって権力と富を得 、秩序の
  安定を得ようとする政権ということがいえるであろ
  う 。ユダヤ教やキリスト教 、回教のような巨大な
  形而上的体系でもって民を治めようとしたのではな
  く 、要するに 稲作農業という形而下的なものを普
  及することによって権力を充実させ拡大させた政権
  で 、上代における征服事業というのも 、稲作普及
  軍の一面をもち 、山野を駆けまわる非稲作人に打
  撃をあたえて『 化外 』のかれらが水田に定着すれ
  ばそれでよしとした 。極端にいえば 、徳に化して
  いることは定着して稲作をしていることであり 、徳
  に化していない( 化外 )ということは 、稲作をせ
  ずに けもの を追ったり 、魚介を獲ったりしている
  ということであったにちがいない

 

  引用おわり 。

  「 千枚田 」が美しく撮られた写真を数多く見るにつけ 、

 営々とそこを造り 、耕してきた農民の執念や怨念みたい

 なものを感じる 。ただの観光資源の被写体としてうっと

 り眺めていていいわけないような ・・・ 。

 

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