「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

むろのとまり Long Good-bye 2024・11・18

2024-11-18 06:09:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。 備忘のため 、「 播州室津 」に

 ついて書かれた数節を追加抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 室津の町並の特徴は 、ほとんどの古い民家が
  二階建てであることと 、重厚な本瓦ぶきである
  ことである 。」

 「『 千軒 』というのは 、その地方地方の代表的
  な商業地であることを指す 。城下町の場合は 、
  戸数がたとえ千軒あったとしても 、千軒とはよ
  ばない 。」

 「 ・・・ 千軒というのは 、千軒と呼称するにふ
  さわしい共通点が 、町並にあったにちがいない 。
   ただし 、室津千軒のさびれはいかにもいちじ
  るしく 、この崖の中腹の宿から遠目で入江と町
  並を見おろしているだけでも 、そのことが青っ
  ぽい空気とともににおい立ってくるように思わ
  れる 。
   もののあはれというものの定義には私はうとい
  が 、たとえば景観の場合 、過去の歴史にゆゆし
  い華やぎがあって 、しかもその痕跡が 、見る側
  の心象の次第ではわずかながらでも感じられると
  いうことでの何かを指すのかもしれない 。室津
  はそのことにいかにもふさわしい 。」

  。。。(⌒∇⌒) 。。。

 「 室津が登場する古い文章がないかとさがしてみ
  たところ 、平家の末期の治承四( 1180 )年の紀
  行文が 、『 群書類従 』(巻第三百二十九)にお
  さめられている 。
  『 高倉院厳島御幸記(たかくらいんいつくしま
   ごこうき)
   というもので 、筆者は当時蔵人頭くらいだっ
  た源通親(みなもとのみちちか)というが 、通
  親とはどういう人物か 、私にはなじみがない 。
  文章は 、わるくない
   高倉天皇( 1161 - 81 )というのは平清盛の
  女婿で 、清盛のいわばあやつり人形として八
  歳で即位し 、わずか二十歳で清盛の外孫であ
  る安徳天皇に位をゆずり 、その翌年には死ん
  でしまったという薄命の人である 。『 平家物
  語 』では 、教養人としてえがかれている
   譲位して上皇になったとしである治承四年 、
  どういうわけか海路厳島へ参拝するということ
  が触れ出されて 、公卿や女官どもをおどろか
  せた 。安芸の厳島神社はいうまでもなく平家
  の氏神である 。清盛が平家の政治的示威のた
  めにそれをすすめたのか 、あるいは若い高倉
  上皇が自発的に平家への機嫌とりとして考えた
  のか 、おそらく前者であろう 。
   ついでながら天皇には旅行の自由はないが 、
  上皇になるとそれがある 。旅行といっても京
  の北郊の賀茂神社へゆくか 、京の南郊の石清
  水八幡宮へゆくのがふつうだが 、厳島へ船で
  ゆくなどは異例中の異例といっていい 。この
  『 高倉院厳島御幸記 』も 、そのことをなげ
  いて 、

   位おりさせ給ひては 、加茂 、八はたなどへ
   こそいつしか御幸あるに 、おもひもかけぬ
   うみのはてへ 、浪をしのぎていかなるべき
   御幸ぞとなげきおもへども

   と 、ある 。
   この治承四年というのは平家の運命の最晩期
  といっていい 。このとしの二月に高倉天皇が
  譲位したが 、五月には源三位頼政(げんさんみ
  よりまさ)が非力ながらも以仁王(もちひとおう)
  をかついで挙兵し 、八月になると伊豆の流人
  だった頼朝が挙兵して 、石橋山でいったんは
  敗北し 、九月には 、源氏の別派である木曾
  義仲が挙兵し 、成功している 。
   平清盛は 、経世家としては 、頼朝以上だっ
  たであろう 。かれは海運をさかんにし 、対
  宋貿易をもって立国しようとしたという点で 、
  日本最初の重商主義の政治家だったといって
  いい 。頼朝は農地問題の累積した不合理性を 
  ただすという旗幟(きし)をかかげ 、清盛は公
  家(くげ)による農地支配体制を温存したまま
  商業と貨幣経済を興すことに賭けた 。
   清盛はこのため 、外洋航路の基地としての
  一大港市を設けようとし 、大輪田(おおわだ)
  の湊(いまの神戸港)を建設した 。この港は遣
  唐使船時代以来の良港とはいえ 、一条件だけ
  欠けていた 。つまり西に和田岬が突き出て風
  浪をふせいでいるが 、東にはなにもなく 、風
  むきによっては碇泊中の船までひっくりかえっ
  てしまう 。清盛はこの東側に人工島( 経ケ島 )
  を築くという当時としては大がかりな工事をや
  って 、外洋船が安んじて泊れるようにした 。
  当時 、このあたりは福原といった 。清盛は晩
  年 、瀬戸内海水路の奥ともいうべき福原に帝
  都を遷(うつ)そうとしたほどにこの貿易政策に
  熱中したが 、しかしながら当時 、国民経済と
  しての商品経済が 、ほとんど無いにひとしく
  いわば農民とそれを収奪する貴族だけの社会
  ったために 、ひとびとは清盛の感覚について
  ゆくどころか 、理解さえできなかった
   ともかくも清盛は大宰府に腹心の家人を置い
  ていまの博多港( 当時は 、大津浦 )を管理
  し 、また下関港を整え 、さらには途中の寄
  港地としての安芸海岸の厳島に氏神を奉じて
  社殿を壮麗にし 、かつ福原をもって貿易基地
  にしようとした 。この構想力は 、まだ農業
  だけが産業というこの時代に適わなかったと
  はいえ 、ただの人間ではなかったことを思わ
  せる 。」

 「 もっとも『 御幸記 』の筆者はふつうの公卿
  さんにすぎない 。清盛に接していながらそこ
  に経世家を見出す能力などはなく 、ただ船旅
  のおそろしさや心細さのみをこの紀行で書きつ
  づっている 。 」

 「 御幸のための船団は 、いまの大阪の住吉の浦
  にあった御津( 三津 )を出帆した 。次いで
  寺江(いまはこの地はつまびらかでない)に着
  き 、西宮の沖ではるか浜に見える戎神社に対し
  て海路の安全を祈り 、福原に着いた 。そのの
  ち 、夜間の航海をしたらしい 。

   廿一日 。夜をこめて出(いで)させ給ふ 。宮
   (みや)こ(都)をいでさせたまふより 、かむ
   だちべ 、殿上人(てんじゃうびと) 、みなじ
   やうえ(浄衣)をぞ き(着)たる おと(音)に聞(き
   こえ)し わだ(和田)のみさき 、すま(須磨)の
   うらなどといふ所々 。うら(浦)づたひ 、は
   るばるあら(荒)きいそべをこぎゆくふねは 、
   帆うちひきて 、なみのうへにはしりありたり

   この文章のあと 、清盛入道は唐船(からのみふ
  ね)に乗ってやってきた 、とある 。
   そのあと 、高砂に寄港したらしい 。
   出港のときの合図として 、清盛が座乗する唐
  船より鼓 三たび うつ 、とある 。操船者として
  宋人が傭われて乗っていたといわれるから 、こ
  の出航合図は中国の習慣だったのかもしれない 。
   室津に着いたときは『 午(むま)の刻(とき)かた
  ぶきし程 』という 。入港にはちょうどいい昼さ
  がりである 。天気はわるくなかったらしいから 、
  まわりの山はよく見えたであろう 。
   本文では 、室津といわず『 むろのとまり 』と
  書いている 。船上からみた景観は 、

   山まはりてそのなかに 、いけ(池)などのやう
   にぞみゆる

   という 。湾は山をめぐらせて 、そのなかの水
  面が池のようである 、と述べているあたり 、
  私が崖の中腹の宿のアルミ窓枠のガラスごしに
  見ている感想と 、八百年の歳月をへだてながら 、
  すこしも変らない 。
   文章は 、その池のように 、せまい水面に 、
  『 ふねどもおほく 』と 、碇泊の情景を語る 。

  むろのとまりに御所つくりたり

   とあるのは 、今から御所を作るというのでは
  なくあらかじめ作ってあった 、ということで
  あろう 。日本語での主語の不明快さと時制(テ
  ンス)のあいまいさが 、明治以前における文章
  日本語の発達を遅らせたと思うのだが 、この
  文章も前後がよくわからない 。
   高倉上皇の座乗船は 、以下の文章によって 、
  伝馬船の中継(なかつぎ)なしにいきなり接岸し
  たように思える 。

   御舟よせておりさせ玉ふ

   そのあと『 御ゆなどめして 』というから 、
  上皇はすぐ湯浴みをしたのであろう 。
   ところが 、そのつぎの文章では 、遊女ども
  がわれもわれもと御所ちかくに走り寄ってきた 、
  というのである 。遊女は 、そのころから室津
  にいたらしく 、鎌倉のころの『 友君(ともぎ
  み) 』が元祖ではなかったらしい
   上皇の行幸は 、天皇の行幸とちがってもとも
  と供奉(ぐぶ)の人数がすくなく 、まして船旅
  のことでもあり 、遊女どもを追いちらすよう
  なそば仕えの人数があまりいなかったらしく 、
  源通親みずから 、

   もてなす人もなければ 、まかり出(いで)ぬ

   と書いている 。まかり出たあと 、追いちら
  したのか 、それとも上へあげたのか 、その
  あたりについては筆は省かれている 。ただ通
  親は遊女らについて腹立たしく 、

   ふるきつかのきつね(古い塚の狐)のゆふぐ
   れにばけたらんやうに

   と書いているのは 、ユーモラスでいい 。」

  引用おわり 。

  この小文のタイトルは「 古き塚の狐 」。

  室津漁港の海沿いの4メートル幅の細い道路にも

 グーグル・マップのストリート・ビューの撮影車

 は入り込んでいるので 、「 むろのとまり 」

 こんにちの景観は見ることができる 。昼間の風景

 なので 、「 もののあはれ 」も 、趣きも 、くそも

 へったくれもないけれど 。

 

 

 

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