今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に
連載されたもの 。 備忘のため 、「 播州室津 」に
ついて書かれた数節を追加抜粋して書き写す 。
引用はじめ 。
「 室津の町並の特徴は 、ほとんどの古い民家が
二階建てであることと 、重厚な本瓦ぶきである
ことである 。」
「『 千軒 』というのは 、その地方地方の代表的
な商業地であることを指す 。城下町の場合は 、
戸数がたとえ千軒あったとしても 、千軒とはよ
ばない 。」
「 ・・・ 千軒というのは 、千軒と呼称するにふ
さわしい共通点が 、町並にあったにちがいない 。
ただし 、室津千軒のさびれはいかにもいちじ
るしく 、この崖の中腹の宿から遠目で入江と町
並を見おろしているだけでも 、そのことが青っ
ぽい空気とともににおい立ってくるように思わ
れる 。
もののあはれというものの定義には私はうとい
が 、たとえば景観の場合 、過去の歴史にゆゆし
い華やぎがあって 、しかもその痕跡が 、見る側
の心象の次第ではわずかながらでも感じられると
いうことでの何かを指すのかもしれない 。室津
はそのことにいかにもふさわしい 。」
。。。(⌒∇⌒) 。。。
「 室津が登場する古い文章がないかとさがしてみ
たところ 、平家の末期の治承四( 1180 )年の紀
行文が 、『 群書類従 』(巻第三百二十九)にお
さめられている 。
『 高倉院厳島御幸記(たかくらいんいつくしま
ごこうき) 』
というもので 、筆者は当時蔵人頭くらいだっ
た源通親(みなもとのみちちか)というが 、通
親とはどういう人物か 、私にはなじみがない 。
文章は 、わるくない 。
高倉天皇( 1161 - 81 )というのは平清盛の
女婿で 、清盛のいわばあやつり人形として八
歳で即位し 、わずか二十歳で清盛の外孫であ
る安徳天皇に位をゆずり 、その翌年には死ん
でしまったという薄命の人である 。『 平家物
語 』では 、教養人としてえがかれている 。
譲位して上皇になったとしである治承四年 、
どういうわけか海路厳島へ参拝するということ
が触れ出されて 、公卿や女官どもをおどろか
せた 。安芸の厳島神社はいうまでもなく平家
の氏神である 。清盛が平家の政治的示威のた
めにそれをすすめたのか 、あるいは若い高倉
上皇が自発的に平家への機嫌とりとして考えた
のか 、おそらく前者であろう 。
ついでながら天皇には旅行の自由はないが 、
上皇になるとそれがある 。旅行といっても京
の北郊の賀茂神社へゆくか 、京の南郊の石清
水八幡宮へゆくのがふつうだが 、厳島へ船で
ゆくなどは異例中の異例といっていい 。この
『 高倉院厳島御幸記 』も 、そのことをなげ
いて 、
位おりさせ給ひては 、加茂 、八はたなどへ
こそいつしか御幸あるに 、おもひもかけぬ
うみのはてへ 、浪をしのぎていかなるべき
御幸ぞとなげきおもへども 。
と 、ある 。
この治承四年というのは平家の運命の最晩期
といっていい 。このとしの二月に高倉天皇が
譲位したが 、五月には源三位頼政(げんさんみ
よりまさ)が非力ながらも以仁王(もちひとおう)
をかついで挙兵し 、八月になると伊豆の流人
だった頼朝が挙兵して 、石橋山でいったんは
敗北し 、九月には 、源氏の別派である木曾
義仲が挙兵し 、成功している 。
平清盛は 、経世家としては 、頼朝以上だっ
たであろう 。かれは海運をさかんにし 、対
宋貿易をもって立国しようとしたという点で 、
日本最初の重商主義の政治家だったといって
いい 。頼朝は農地問題の累積した不合理性を
ただすという旗幟(きし)をかかげ 、清盛は公
家(くげ)による農地支配体制を温存したまま
商業と貨幣経済を興すことに賭けた 。
清盛はこのため 、外洋航路の基地としての
一大港市を設けようとし 、大輪田(おおわだ)
の湊(いまの神戸港)を建設した 。この港は遣
唐使船時代以来の良港とはいえ 、一条件だけ
欠けていた 。つまり西に和田岬が突き出て風
浪をふせいでいるが 、東にはなにもなく 、風
むきによっては碇泊中の船までひっくりかえっ
てしまう 。清盛はこの東側に人工島( 経ケ島 )
を築くという当時としては大がかりな工事をや
って 、外洋船が安んじて泊れるようにした 。
当時 、このあたりは福原といった 。清盛は晩
年 、瀬戸内海水路の奥ともいうべき福原に帝
都を遷(うつ)そうとしたほどにこの貿易政策に
熱中したが 、しかしながら当時 、国民経済と
しての商品経済が 、ほとんど無いにひとしく 、
いわば農民とそれを収奪する貴族だけの社会だ
ったために 、ひとびとは清盛の感覚について
ゆくどころか 、理解さえできなかった 。
ともかくも清盛は大宰府に腹心の家人を置い
ていまの博多港( 当時は 、大津浦 )を管理
し 、また下関港を整え 、さらには途中の寄
港地としての安芸海岸の厳島に氏神を奉じて
社殿を壮麗にし 、かつ福原をもって貿易基地
にしようとした 。この構想力は 、まだ農業
だけが産業というこの時代に適わなかったと
はいえ 、ただの人間ではなかったことを思わ
せる 。」
「 もっとも『 御幸記 』の筆者はふつうの公卿
さんにすぎない 。清盛に接していながらそこ
に経世家を見出す能力などはなく 、ただ船旅
のおそろしさや心細さのみをこの紀行で書きつ
づっている 。 」
「 御幸のための船団は 、いまの大阪の住吉の浦
にあった御津( 三津 )を出帆した 。次いで
寺江(いまはこの地はつまびらかでない)に着
き 、西宮の沖ではるか浜に見える戎神社に対し
て海路の安全を祈り 、福原に着いた 。そのの
ち 、夜間の航海をしたらしい 。
廿一日 。夜をこめて出(いで)させ給ふ 。宮
(みや)こ(都)をいでさせたまふより 、かむ
だちべ 、殿上人(てんじゃうびと) 、みなじ
やうえ(浄衣)をぞ き(着)たる おと(音)に聞(き
こえ)し わだ(和田)のみさき 、すま(須磨)の
うらなどといふ所々 。うら(浦)づたひ 、は
るばるあら(荒)きいそべをこぎゆくふねは 、
帆うちひきて 、なみのうへにはしりありたり 。
この文章のあと 、清盛入道は唐船(からのみふ
ね)に乗ってやってきた 、とある 。
そのあと 、高砂に寄港したらしい 。
出港のときの合図として 、清盛が座乗する唐
船より鼓 三たび うつ 、とある 。操船者として
宋人が傭われて乗っていたといわれるから 、こ
の出航合図は中国の習慣だったのかもしれない 。
室津に着いたときは『 午(むま)の刻(とき)かた
ぶきし程 』という 。入港にはちょうどいい昼さ
がりである 。天気はわるくなかったらしいから 、
まわりの山はよく見えたであろう 。
本文では 、室津といわず『 むろのとまり 』と
書いている 。船上からみた景観は 、
山まはりてそのなかに 、いけ(池)などのやう
にぞみゆる 。
という 。湾は山をめぐらせて 、そのなかの水
面が池のようである 、と述べているあたり 、
私が崖の中腹の宿のアルミ窓枠のガラスごしに
見ている感想と 、八百年の歳月をへだてながら 、
すこしも変らない 。
文章は 、その池のように 、せまい水面に 、
『 ふねどもおほく 』と 、碇泊の情景を語る 。
『 むろのとまりに御所つくりたり 』
とあるのは 、今から御所を作るというのでは
なくあらかじめ作ってあった 、ということで
あろう 。日本語での主語の不明快さと時制(テ
ンス)のあいまいさが 、明治以前における文章
日本語の発達を遅らせたと思うのだが 、この
文章も前後がよくわからない 。
高倉上皇の座乗船は 、以下の文章によって 、
伝馬船の中継(なかつぎ)なしにいきなり接岸し
たように思える 。
御舟よせておりさせ玉ふ 。
そのあと『 御ゆなどめして 』というから 、
上皇はすぐ湯浴みをしたのであろう 。
ところが 、そのつぎの文章では 、遊女ども
がわれもわれもと御所ちかくに走り寄ってきた 、
というのである 。遊女は 、そのころから室津
にいたらしく 、鎌倉のころの『 友君(ともぎ
み) 』が元祖ではなかったらしい 。
上皇の行幸は 、天皇の行幸とちがってもとも
と供奉(ぐぶ)の人数がすくなく 、まして船旅
のことでもあり 、遊女どもを追いちらすよう
なそば仕えの人数があまりいなかったらしく 、
源通親みずから 、
もてなす人もなければ 、まかり出(いで)ぬ 。
と書いている 。まかり出たあと 、追いちら
したのか 、それとも上へあげたのか 、その
あたりについては筆は省かれている 。ただ通
親は遊女らについて腹立たしく 、
ふるきつかのきつね(古い塚の狐)のゆふぐ
れにばけたらんやうに 。
と書いているのは 、ユーモラスでいい 。」
引用おわり 。
この小文のタイトルは「 古き塚の狐 」。
室津漁港の海沿いの4メートル幅の細い道路にも
グーグル・マップのストリート・ビューの撮影車
は入り込んでいるので 、「 むろのとまり 」の
こんにちの景観は見ることができる 。昼間の風景
なので 、「 もののあはれ 」も 、趣きも 、くそも
へったくれもないけれど 。
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