ポリーニのベートーヴェンは先日初めて手を出したのだが、そのときこの後期ソナタを買うかどうか、ちょっと迷った。
ご存じ(の方はご存知)のとおり、この録音はファンの間でセンセーションを巻き起こした(らしい。当時のことは知らない)もので、評論家の間でも賛否両論が飛び交っていたようだ。
そういう話は伝わっていたので、僕もなんとなくこれまで買うのをためらっていたのだ。そういえば、先年亡くなられた有名な評論家の方も、舌鋒鋭く批判しておられたな。。そういう影響を、まったく受けなかったと言えば嘘になる。 まあ、ポリーニに興味が向いた、せっかくの機会なので、聞いて損は無かろうという気持ちで買ってみた。
うちにはこの曲(作品101、106ハンマークラヴィーア、作品109から111)のCDは何枚かある。バックハウスのステレオ録音(これは全集で持っている)と、ブレンデルの90年代の録音のほうだ。
この種の感想を文字であらわす才能は持ち合わせていないが、あえていうならバックハウスは骨太で味があり、ブレンデルはやわらかい中にも芯がある、という感じかしら。
ポリーニは、同じような表現の仕方が思い浮かばない。なんとなく、それまで満足していたデジカメを買いかえたら、画素数が増えてローパスもないからシャープネスも半端ない、目から鱗、という感じかしらね。。
これに慣れてしまうと、ほかの人の演奏がちょっと鈍く感じてしまうのは否定できない。 特にブレンデルは、改めて聞くとあれ、と思ったりもした。
しかし流石に、バックハウスは強いですね。。ウェブではテンポが揺れるとか、年齢による衰えとか、録音がどうの、という批判も散見されるが、それはそうだとしてもやはり聞くとホッとするものを感じる。もともと耳がこの曲はこういうものとして、」慣れている、というせいもあるが。。
ワルトシュタインは、ポリーニ2度目の録音(’97年)です。旧録音は知らないのですが、ウェブでの評によると、キレに加えてコクも増してきた、のだそうです。
バックハウスはステレオのスタジオ録音と、最後の演奏会(’69年6月)を持っていますが、個人的かつ今のところ、バックハウスに軍配を上げます。
作品101は、「愉悦的な中にも、内に秘めた苦しみに耐えて前進しようとするベートーヴェンの姿云々」、という解説を読んだことがある。生涯結婚しなかった彼が、友情で結ばれ続けた弟子(ドロテア夫人)にささげた曲だとか。
次の「ハンマークラヴィーア」には、そういう内面的な深みを示唆するような表現はあまり聞かないが、こういう曲などはたしかにテクニックよりも、なにか人生の深みを伝える様なサムシングが必要なのかもしれないですね。。ただ、それをあからさまに求めるのはどうかと思いますが。
作品109-111は、よりそれが顕著になってきます。なにやら辞世の句を詠んでいるような感じが、聞いていてしてくるんですね。「夢は枯れ野を駆け巡る」みたいな。
生涯を振り返り、あるときは光のさんざめくような愉しい心象、また苦しかったこと、腹立たしかったこと、そして、ここまで来たことへの無念さ、あるいは逆に感謝の念、みたいのが、走馬灯のように次々とめくってくる。人から見たら偏屈者で、度々衝突を繰り返したり、いろいろな目に遭ったりもしたけど(そういうところを自分と重ね合わせたりもするわけです)、これらの曲は、そうしたことを包み込むというか、その一段と上に立って、静かに振り返っているような気がします。もちろん、ただ自分で勝手にそう思っているだけなのですが。
考えてみると、ベートーヴェンがこれを作曲した年齢を、自分はもう通り過ぎてしまったのですね。彼が生涯を終えるのは、作品111を出版してからなお5年あとのことですが、ベートーヴェンは既に自らの人生に対し、ある種達観していたのかなあ、と思ったりもします。
ポリーニはこの曲を、全集の中のもっとも初期、30代そこそこで録音しています。だから余計反発を感じさせたりもしたのでしょうね。とはいえ、若いからこれらの曲の真髄がわからない、という批判はどうかな、とも思います。僕自身30の歳の今頃、夜中にこの曲を聴きながら、心にしみるものを感じてましたからね。
泣いたかどうかは覚えていないけど、子供が驚くほどの感受性を持っているのとおなじように、大人の事情が大人にならないとわからない、ということはたぶん、ないのだと思います。むしろ、あまり年を取ると、感受性が幼児よりも退化してしまうのかもしれない。まあ、たしかに年齢を重ねて、ようやく素直にものが見られるようになったことがあるとか、その辺はいろいろですが。