写真家荒木経惟氏を追ったNHKのドキュメンタリー番組を、録りためていた録画から取り出して見たその数日後、ネット上で話題となっていた、氏を告発するモデルさんのブログ記事を読んだ。
ドキュメンタリー番組は、七七歳になった荒木氏が、体調不良や片目失明の問題を抱えながら、今も積極的に活動を続けているという内容だった。一方、告発文は、モデルの女性が荒木氏と契約を交わすこともなく、ほとんど無償でヌードなどの写真を撮られ、断りもなく出版や展覧会への掲示をされるなどし、女性の抗議にも誠意ある対応をしてもらえなかったというもの。
モデルの女性は荒木氏を直接非難すると言うよりは、なすがままに流されていた自分を省みるような書き方になっている。基本的には、荒木氏とこの女性との個人的な問題ととらえることもできるが、彼女自身が昨今のMe Too の運動に触発されて声を上げたとしているところから、ある種の社会的な問題提起ともとらえることもできる。
もとより荒木氏の写真について、特別な関心を持っていた訳ではないし、写真家個人にもそれほど興味があるわけでもない(そうか、もう七七歳になったのか、とはおもったけど)。番組を見てからすぐ告発文をみたということもあるが、真相云々ということはさておいて、このNHK ドキュメンタリーそのものが、なんかしらけるというか、作り手の主張と受け手の共感性が乖離してしまったという感はぬぐえない。
率直な感想として、こうした人は、いろいろあるのだろう。
写真家、芸術家として、それなりの実力があってこそ、長く名声を保ち続けているわけだし、それは彼個人に人間としての何らかの力が備わっているからできたことなのだろう。そうした力は、時に周りの人に影響を与え、時に支配し、あるいは相手を損なうような形をとることもあろう。
モデルの方にそうした力が無いわけではない。現に、こうした告発文というのはある種の影響力という力を持っている。ひとりの個人には無くても、時代の流れが持つ力というのもある。今はそれがとても強くなって、社会全体を変えつつある。それとて、ある形の力であることに変わりはないのだから、それによって影響を与えられたり、時に支配されたり、あるいは損なわれてしまう人も出てくる。
周りに何も影響を与えなければ、クリーンで望ましい人生なのか、もろ刃の刃を強い意志で矯めることこそ求められることなのか、なかなか、難しい問題ではある。。