もう発売から2か月ぐらい経ってしまい、話題性もないが雑誌『文芸春秋』2019年6月号に掲載された、村上春樹氏のエッセイである。村上氏が初めて自分の父親のことを語った文章として、話題になった。
村上氏が父親のことを語らないというのは、かつてはかなり良く知られた話だった。作品に関する文学的解釈については、僕の出る幕ではないけど、「1Q84」あたりから天吾の父親に関する描写が出てきたことが話題になった。最新の長編「騎士団長殺し」も、主人公ではなく友人の父親(雨田具彦)が重要な役柄として登場する。
ことに「騎士団長殺し」では、雨田具彦の弟継彦が、「徴兵免除の学生であったのに『書類上の手違い』で徴兵になり、南京に送られて現地の中国人の処刑に係わった』と描写されている。これは、今回村上氏が父親の(実世界の)足跡として語られたものと同じであり、小説ではそれを基に描かれたことがうかがえる。
実際の村上氏の御尊父自身、長じて俳句に打ち込むなど、芸術や文学に親しむ方だったようで、ジャンルは違うが小説の雨田兄弟(兄は絵画、弟はピアノ)と近いものがある。
戦争や暴力に関する描写は、村上氏の文学に繰り返し出てくるが、そのルーツとなるものが、父から受け継がれた経験から来ている(らしい)ということがうかがえる。子供の頃、お父さんから中国兵の処刑に立ち会ったことをきかされ、強烈な印象として村上氏の心に刻まれる。
このことを「猫を棄てる」の中で、村上氏はこう語っている。
「父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものをー現代の用語を借りればトラウマをー息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繋がりというのはそういうものだし、また歴史というものもそういうものなのだ。(中略)その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなければならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるのだろう。」
村上氏には文学というツールがあり、父から受け継いだものを何らかの形で残すことができているが、翻ってみると、そのことが村上氏にある種の束縛を与えているといえなくもない。束縛というか、自然に流れていく方向性というものが、あらかじめ緩く設定されている、というべきか。例えば父親に反発してその価値観とは違う道を歩もうとしても、それはそれである種の流れの中に組み込まれている、ということになる。
さらにそこから思うのは、それを無視して全く違う道を歩むことも、できなくはないが、おそらくそれは、どこか精彩を欠くか、あるいは特徴を欠いたごく平凡な生き方として、人知れず、あるいは広がりのない人生として終わることになるのだろう。
まあ、あまりぱっとした感想でもないけれど、ただの書き散らしとして。。