すこしずつ訪れる春の息吹を眺めていると、じぶんがこうして平和な世界にいきていることが、つくづく尊いものに思えてきます。
これは決して当たり前のことではないのです。
イズムイコこと、あるいは丸の内OLとか人とか色々言うらしいですが、小泉悠氏はたぶん、テレビのニュースを日々見ていたら必ずどこかで彼のコメントを見聞きしているかと思います。その方の最新著作です。
ちくま新書 2021
脱稿されたのがちょうど1年ほど前なので、今回の開戦状況は当然盛り込まれていませんが、ソ連崩壊から今日に至るまで、ロシア軍がどのような状況にあり、なにを目指しているかがまとめられています。
このような時世でなければたぶん手にしなかったでしょうし、小泉氏の事も知らなかったでしょう。そのような非軍事人間にむけて、本書でははじめに「戦争とは何か」を問うています。
小泉氏はアメリカの安全保障問題担当補佐官を務めたマクマスター中将の「戦争は人間同士の意思のせめぎ合い」という言葉を引用しています。
古典的な意味での戦争は、武器を駆使して相手を屈服させ、自らの意思を-国家間においては自国の国益を達成させることですが、こうした戦争は、核兵器の登場により既に不可能となっています(ルパート・スミスNAT欧州連合軍副最高司令官)。
しかし、軍事力に意味がなくなったわけではない。今日の戦争は、時空を超越して様々な形で行われるようになった(ハイブリッド戦争)のだと。
これを我々にはっきり認識させたのが、2014年のクリミア半島併合だといいます。
ロシアの軍事力は、古典的な基準で測った場合必ずしも大きなものではない。動員数(公称101万、実質90万程度)や国防費(650億ドル程度)で見ても、アメリカや中国、あるいはNATOの兵力に比べると小さい。テクノロジー的にも、例えば人工衛星技術力などは、総合的には日本よりも劣るぐらいだという。
ロシア軍にはそうした自覚はあり、それを補うような体制を整える議論が盛んにおこなわれている。その表れの一つがクリミア併合で使われた手法だと。しかし一方、東部2州独立の際は意図通りには行かず、不手際が目立つ結果となった。
21世紀の初めごろ、冷戦終結後の世界は、国家対非国家の戦い(テロ)に焦点が向けられるようになった。これはアメリカもNATOもそうだがロシアにおいてもそうで、一時期は軍の体制の再編が行われた。
しかし2010年代に入り、ロシアは再び従来の大規模戦争を想定した軍組織体制に戻りつつある。手段として非軍事的な手法も取り入れるようになったロシア軍だが、本質的な認識としてはそれらは補助手段として捉えられており、根幹の思想はむかしから変わっていない。
ロシアには西側が軍事的手段だけではなく、経済や情報など様々な手段に訴えて、自国の自律性を抑え込もうとしている、という観念がある。これに対抗しようという動きが、東西の緊張関係を生んでいる。
これには終わりがない。戦闘行為に終わりはあるが、普段の生活を通じて『非線形』の戦いを挑まれているのだから、その間ずっと(自国民や周辺諸国の抑え込みという形で)戦争を続けなければならない。
要約としてはへたくそですが(自分が印象に残ったところをまとめただけで、本書の内容はもっとてんこ盛りです)、こんな感じかしら。たぶん非常に頭の切れる方ですね。文章の切れ味が半端ないです。
本書を離れて、さらに膠着している現状もちょっと離れて、世界が再びテンポラリーな均衡状態にもどったとして、この先世界は、この異質な隣人とどう付き合っていったらよいのか、もう一度考えてみたいと思います。
今の西側諸国には「自分たちの市民社会のほうが上」という意識があることは確かですし、ロシア(の指導層)は被害者意識が強い。中国はまたちがう。
彼ら(中露)がいう「世界の多様化」の意義は、ある線に沿って考えれば、わからなくもないのです(もちろん彼ら自身自己矛盾しているのですが)。
とはいえ、長期で見ていけば(ともかく均衡が保てたとして)、ロシアの影響力はますます失われていくことに間違いはない気がします。
モールにて。
こういうのを「二郎系」というのかしら。蕎麦みたいな太めの麺です。
作法がわからくて、前の人がおわんにお酢をどばっといれていたのを見て、真似しました。それで、麺をとってはつけ麺みたいにお椀にひたして、また戻して食べてみたけど、酸味がわるくない感じだった。が、その前の人がそうしていたかどうかは不明。