迫水久常 河出文庫2015
迫水久常氏は鹿児島の名家の出身で、戦争前には大蔵官僚として活躍していた。戦争の終結を担うことになった鈴木貫太郎内閣では、今日でいう官房長官に相当する内閣書記官長を務めた。本書は迫水氏が書記官長として鈴木首相を支えた4か月間を回想した貴重な記録である。
鈴木内閣と戦争終結時の政府内部の苦闘については、「日本のいちばん長い日」はじめ色々な本で触れられているのを読んだり見たりしたが、現場にいた方の回想録を読むのは初めてだ。ひじょうにわくわくする。
迫水氏というと、もう20年以上前にNHKで放映していた「ヒロシマ」というドキュメンタリードラマで、若手の俳優(名前がわからない。このドラマ、カナダとの共同制作だが、日本側の俳優名がクレジットされていないのでさっぱりわからない)が髪をきっちり分けて国民服を着た姿で演技していたのが目に浮かぶ。鈴木首相は79歳、閣僚もみなかなりの年配者ばかりのなか、迫水氏は当時42歳だったそうだ。戦前の日本政府としては、かなりの抜擢人事だったのだろうし、それだけ事態が緊迫していた表れと言えるのかもしれない。
事実迫水氏は、鈴木内閣の組閣から首相談話の原稿作り、さらに8月15日の終戦詔書の原稿にも携わっている。泥沼に沈んだ日本を、とにもかくにも岸に引き上げたのは迫水氏の力に負うところが大きかったのだと、認識を新たにした。。
鈴木内閣の終戦工作のひとつに、ソ連を仲介役として和平への道筋を開く、という方針があった。東郷外相自らソ連に働きかけ、近衛元首相を派遣してスターリンと会談を行うという計画もあったが、実現はしなかった。のみならず、8月9日にはソ連から宣戦布告まで受けてしまう。
この件について、迫水氏は東郷外相自身、ソ連に関し、実際にはそれほど期待していなかったと、繰り返し述べている。日ソ中立条約は内閣発足前後の段階で、更新しないとの通知も受けていたようだし、モスクワの佐藤大使もソ連が仲介することは非現実的、という報告をしている。国際情勢からみて、日米の仲介をするメリットはなく、逆に戦端を開く可能性も高いだろうという見解は、政府内部ではある程度浸透していたようだ。
ひとつ意外に感じたのは、独伊が降伏した時の記述はある半面、ルーズベルト大統領の死去に際し、敵国であるアメリカ国民に哀悼の意を表したというエピソードには触れられていない点だ。迫水氏は直接かかわっていなかったのかもしれないが、政府内部や軍上層部はどう評価していたのだろう。ドロドロと、往生際の悪い戦時の日本政府だが、この話だけはさわやかないい話だと思うんだけど。トーマス・マンも感激したという話も聞いたが、内外の反応についてはもっと知りたい気がする。