浜通りを訪れた本来の理由は、3.11の記憶をたどるためです。
震災から13年が経過し、被災した各自治体は引き続き復興への努力が続く一方、あの日の記憶を風化させないようにと、各地で伝承館を建てたり、公共施設の一角に展示室を設けたりしています。
いわき市にも情報館、記念碑は多数ありますが、短時間ですべてを回るのは無理です。いわき市ではアクアマリンに隣接する商業施設、いわき・ら・ら・ミュウ2階に展示された「いわきの東日本大震災展」を見るにとどめました。
地震に伴う津波の被害はきわめて広範囲であったわけですが、いわきも相当の被害を各地で受けていたようです。
小名浜も相当な被害を受けたようです。泉から出ている福島臨海鉄道は1年近く運休、後に小名浜の駅を移転し、跡地にはとてもきれいなイオンモールが建てられています。街は賑わいを取り戻してきているように思えます。
翌日はいわき駅付近から北上し、6号線沿いの四ツ倉を目指しました。
この道の駅も津波で被災しています。
ここには砂浜があり、夏は海水浴場としてにぎわうようです。
土曜日の朝なので、サーファーと散歩の人ぐらいしかいません。
そろそろ春ですが、この日も寒く、昼頃から雨が降りはじめました。
やはり、なんとなく「真冬のサーファーはまるで カラスの群れのよう・」と歌いたくなってきます。
昨日だって、小名浜の第二埠頭を歩いていたら、だんだん日が暮れてきたので;
「あ・お・い とばりが 道の果てにつづいてる~・」とか、心の中に自然とうかんでくるわけです。。
やっぱり、スイッチが入っちゃいますよね。
閑話休題。
しかしながら、穏やかな中にも秘めたエネルギーを漂わせているこの波を見ていると、自然の持つ暴力性と、そこで暮らす人々の思いに心を巡らせたりするわけです。
例えば三浦半島の西側とか、湘南の辺りの風景と、この辺りの沿岸のたたずまいは何か違う気がします。
前者は(幸いなことに)ここ100年、巨大地震や津波などの被害からは免れています。葉山、鎌倉、江の島は人々が行き交い、賑わっています。
翻って、この辺りの街も人々のたたずまいは、どこかこの自然に心を許していないような感じがあります。
四ツ倉を後にして、双葉町に向かいます。
往路、常磐道にも国道6号にも表示がありましたが、一部に帰還困難区域が残り、立ち入りも一部制限があるようです。
東日本大震災・原子力災害伝承館
4年ほど前に建てられたようです。周辺は非常に広い平地が広がっていますが、13年前にはここを波が押し寄せたそうです。ただし、今は盛り土が施され、多少かさ上げされているようです。
このピアノも波に洗われたそうです。
双葉町は福島第一原子力発電所のある大熊町の北側に位置しています。
震災の翌日、ほぼ全町に避難指示が出され、一昨年まで帰還困難区域に指定されていました。現在は避難指示も解除になり、復興に向けた努力が行われています。
M9の地震、そのあとすぐに襲ってきた津波、さらに翌朝から始まった全町避難と、町は翻弄され続けます。
11日の昼過ぎまでは、いつもどおりの早春の金曜日だったのですが。
震災の翌早朝、半径10キロ圏の避難指示発令。
同日午後、1号機建屋が水素爆発。
続いて14日には3号機、さらに定期検査中だった4号機も。
廃炉に向けて準備が進められていますが、思惑通りに進まなかったり、処理水を巡っても地元漁業関係者との調整に腐心したりと、次々と難題が待ち受けているようです。
原発の是非は時折政治的な論点として取り上げられます。たしかに大変な悲劇なのですが、他方ここで感じたことは、たくさんの人たちが果てしなく思える努力を重ねて、とにかく今日の姿にまでもってきているということです。
嘆き悲しむのでもなく当たり散らすのでもなく、何とかしなきゃと重ねてきた努力を思うと、日本人と言うか、人間て大したものだとおもったりもします。
ビデオ映像を見たあと各展示を見て、さらに少し待てばトークセッションも参加できたのですが、ちょっと心があれになったので失礼して館を出ました。
腹はへったので、隣の施設で昼飯。前日福島産の魚介類を買えなかった(翌日も移動するので。まあ何か乾き物でも買えばよかったかも)ので、ここで赤魚のランチを食べました。大変美味でした、。土曜のお昼ですが、お客さんがとてもすくないようです。がんばってください。
旅は続きます。