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学生の頃あだ名がイン哲という先生がおられた。英語を習っていたのだが、英語の訳を一通りの日本語に直すのではなくて意訳に意訳をかさね、本当の日本語に直すのである。そのころはまだるっこしくてうんざりしたが、今講義を受ければ感動するだろうが、もう遅い。
そのイン哲先生だが、あだ名のいわれを、同級生がその兄貴などから聞かされて受け売りだろうが教えてくれた。イン哲先生は東大文学部インド哲学科を卒業されて、坊さんと教師の二足のわらじをはいていたのだった。その頃インド哲学といっても全然関係のない領域のことであり、坊さんがやる哲学、仏教がインドで生まれたから、くらいに思っていた。あまり的は外れてはいないが、学生との知性の格差は桁違いというよりも異次元だったのだろう。最近「哲学としての仏教」という本が講談社新書で出版されているが、昔は仏教=インド哲学という認識があった。昔より今はその関係が希薄になってきているのだろう。
学生の頃あだ名がイン哲という先生がおられた。英語を習っていたのだが、英語の訳を一通りの日本語に直すのではなくて意訳に意訳をかさね、本当の日本語に直すのである。そのころはまだるっこしくてうんざりしたが、今講義を受ければ感動するだろうが、もう遅い。
そのイン哲先生だが、あだ名のいわれを、同級生がその兄貴などから聞かされて受け売りだろうが教えてくれた。イン哲先生は東大文学部インド哲学科を卒業されて、坊さんと教師の二足のわらじをはいていたのだった。その頃インド哲学といっても全然関係のない領域のことであり、坊さんがやる哲学、仏教がインドで生まれたから、くらいに思っていた。あまり的は外れてはいないが、学生との知性の格差は桁違いというよりも異次元だったのだろう。最近「哲学としての仏教」という本が講談社新書で出版されているが、昔は仏教=インド哲学という認識があった。昔より今はその関係が希薄になってきているのだろう。