がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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有森神社+浦上グスク

2019年12月12日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

奄美大島にある、
浦上有盛遺跡(有盛神社・浦上グスク)。

壇ノ浦の戦いで敗走した平家の武将のひとり、
平有盛が築いた城だと言われています。

さすがに奄美大島、喜界島は、
沖縄よりも平家伝承の場所が多くみられました。

 

 

有盛神社。

 

 

ここには奄美市指定文化財の
石造弁財天像があるようでした。

…が、案内板が残念なことに(^^;)

 

 

奄美は歴史・史跡を観光資源として
前面的に活かすという取り組みは薄いらしいのですが、
(歴史よりも自然推しだから。歴史系はあっても幕末の西郷さん関係)
もっと整備&PRしてもいいのにな~と思いました( ˘ω˘ )

 

 

この有盛神社の奥をさらに行くと
グスク的構造が出てきます。

…が、実際の風景ではわかりにくいので、
まずは県博の常設展にある模型を。

 

 

下部が有盛神社部分。

山を登っていくような形で進みます。

 

 

この丘陵のてっぺん部分には
石碑がありました。

文化十三年とあったので
1816年の大島代官が寄進建立したもののようです。

 

 

さらにその奥には
山を削り込んだ堀切が!!

しかも三段構え!

 

 

…のはずなのですが…

…うむ。

木々が生い茂っていると
まったくもってわからないね(^^;)

 

堀切は実際にその場に降りてみないと
実感しにくいですよね…。
根謝銘グスクみたいに

 

とりあえず、地面が低くなっているのは分かるはず。

 

 

帰り道です。

写真右手が平場になっているんだはず。

 

 

石垣のない、
堀切をもった土のグスクでした。


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南西諸島最大の交易拠点、城久遺跡群

2019年12月04日 | ・琉球史散策/グスク時代

開催中のグスク展に合わせて
まだ記事にしていないグスク訪問記事も
アップできればと思って…います。

 

というわけで、
今回は喜界島の城久遺跡群。

城久と書いて「ぐすく」と読みます。

 

「ぐすく」だけど、
城久遺跡群は「城跡」ではなく、
「集落跡」になります。

 

県博の館長、田名先生によると
琉球の「グスク」の語源には諸説あるけれど、
この喜界島の「城久」との関連もあるのでは?
と。

 

というのも、この城久遺跡群は
琉球のグスク時代よりも前の時代にさかのぼります。

発掘調査結果によるとⅢ期に分けられ、

Ⅰ期 9~11世紀ごろ
Ⅱ期 11後半~12世紀ごろ
Ⅲ期 13~15世紀ごろ

最盛期がⅡ期。

(なお、琉球のグスク時代は12世紀ごろ~と言われています)

 

城久遺跡群がすごいのは、

* 南西諸島とは類を見ない大規模集落の跡であること。
* 遺物の出土量が突出している
* 製鉄遺構・遺物がでている

 

よって、

*かなり力を持った有力者がいたこと、

(南九州や大宰府との関係も?)
*大いに繁栄していたこと、
*琉球列島、九州島、中国大陸、朝鮮半島におよぶ
 南西諸島一の交易拠点であろうこと、

が考えられています。

 


城久遺跡群の交易ネットワークは
琉球へヒト、モノ、情報、文化をもらたしたことでしょう。

琉球が農耕を開始し、グスク時代になっていく過程には
この城久遺跡群の存在・影響が大いにあったと考えられます。

 

 

城久遺跡群のうち、
「山田半田遺跡」を訪れました。
(360度動画→

最盛期であるⅡ期の、中心的な建物があったであろう場所で、
屋敷跡が杭打ちで印されています。

 

大いに繁栄した、最先端の大規模集落。

今は見渡す限りの畑で
なかなかイメージしがたいですが、
VRなんかで再現してほしい場所です。

 

 

実際に喜界島に行ってみて、
実感したのが、
「地形」です。

面積は大きいけれど
やんばるのように山が多い奄美大島とは違い、
喜界島は小さいけれど、
島の中央は台地になっていて、
台地の上は平らな地形。

 

地形が天然の要塞になっているし、
見通しもいい。
台地を上ってしまえば平地で農耕しやすい。

奄美ではなくここに集落が発達し、
交易の拠点にしたのも納得、でした。

 

 

 

ちなみに、ここ城久遺跡群の山田半田遺跡。
同じ日の夜に再訪しました。

星がきれいに見えるかな、と…。

予想通り、
あたり一面、ま…っくらだったのですが、
天気が微妙だったので、
「満天の星空!!!」は残念ながら満喫できず…(´;ω;`)

あと、ちょっと寒かったという思い出…(笑)

 

 

参:
「城久遺跡ー発掘調査開始15周年記念資料集―」
(喜界町埋蔵文化センター/2017.4)


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「沖縄の土器づくり」展と関連講座

2019年10月25日 | ・琉球史散策/グスク時代


↑クリックで拡大

 

沖縄市郷土博物館で本日より開催の企画展の案内です。

 

「沖縄の土器づくり~よみがえる技」

10/25~1/26

9:00~17:00

入館無料

※月曜・祝日、年末年始は休館

 

沖縄にも様々な土器が出土していますが…
土器を通して当時の沖縄の生活を垣間見れるかも!

 

 

そして展示とともに見逃せないのがこちら!

関連体験講座!

 


↑クリックで拡大


沖縄市郷土博物館は土器づくりや土器クッキーづくりなどの
面白い企画を毎年やっているらしいことは聞いていたのですが、
なかなかその情報を事前にキャッチすることができず、
気づいたら終わっていた…
というパターンで早数年……。

 

今年は偶然にも(!)事前にチラシをゲットすることができたので
もっとたくさんの人に知ってもらうべく、
私のブログとツイッターでも宣伝します!

土器づくりは土器研究の専門家の先生が指導されるので
親子はもちろん、
土器や歴史に興味のある人、
学校の先生や博物館関係者も、
きっと貴重な「体感」、学びの場になるはず!

 

日程的に都合のあう方は
1年に1度の!?この機会をお見逃しなく!

 

申し込みが少ないと、
講座自体が中止になってしまうこともあるみたいなので
申し込みはぜひお早めに!

 

 

以前、
土器の質感や重さや口触りや触感を「体感」すれば、
中国の「陶磁器」が琉球に入ってきたときの
琉球人の感動がわかる
と、言われたことがあります。

陶磁器のようにつるつるで、軽くて、丈夫で、
手触りや口当たりのいい器は
現代に生きる私たちにとっては
当たり前で、なんとも思わないのですが、
昔、土器しかなかった時代からすれば
陶磁器に初めて接した時の驚きはいかほどのものか。

そりゃ、権力者のステータスにもなるでしょう。

でもそれを「実感」するためには、
今ではこっちのほうが 超絶レアとなっている
「土器」を体感しないとわかるものではありません。

そういう意味でも今回の「土器体験」は
琉球史を学ぶ上でも貴重な体験だと思うのです。

 

 


11/3(日)
琉球歴女:和々とめぐる琉球浪漫ウォーク♪「世界遺産:中城グスク+α」
申し込みは10/31まで

11/1(金)
琉球歴女の会
申し込みは10/26まで


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アマミクヌムイの越来グスク【2】

2019年09月24日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

前記事のつづき。


越来グスクが国の名勝「アマミクヌムイ」に
追加登録されたことを記念しての講演会、

『神が築いたグスク「越来グスク」』について。


 

後半は、文化庁の平澤さんによる名勝の話。

「名勝」とは何か、
なぜ越来グスクが追加指定されたのか。

 

現在の越来グスクは、戦後の土地開発によって
大きく地形もかわり(山がごっそりなくなるレベル)
かつてはあったという石垣なども皆無だけど、


「名勝」とは、
景色がいいとか、見栄えがいいとか
昔からの状態がそのまま残っているとか
そういうことだけではなくて、

アマミキヨがつくったグスクとして
生活の中で変化しながらも拝み続けられてきたという
その意味・在りよう、も重要なのだとか。

なるほど~。

だから、越来グスクという単体ではではなく、
アマミキヨ関連の場所、
「アマミクヌムイ」という<枠組>がポイントでもあるのね。

 

そもそもワタシは

名勝「アマミクヌムイ」自体
この越来グスクのニュースで初めて気づいたんだけど、
最初は2015年なんだ。

この時点で指定されていたのは、
今帰仁のカナヒャブ(テンチジアマチジ)及びクバの御嶽、
それから久高島のクボー御嶽のみ。

てっきり、その初期段階で琉球七御嶽は登録されているものだと思ったけど、
安須森御嶽や知念グスク、藪薩の浦原、首里森・真玉森グスクは未指定で、
七御嶽以外の、越来グスク、弁之御嶽(弁ヶ嶽)、伊祖グスクは指定済みなのよね。

指定の順番がなんか謎ではあるけど(各自治体文化行政の事情?)、
未指定のものも、これから追加されていくのでしょう。

 

今回話を聞いて思ったのは、

アマミクヌムイに指定されたからこそ、
これからいろいろ始まるんだろうな

ということ。

 

これまで全っ然
アマミキヨ関連は紹介されてなかった越来グスクだけど、
指定されて初めて周知され、
指定されたからこそ行政も一般も関心が高まり、
これからはこの面をどんどん推していって
整備、保護、活用につながっていくんだろうな。

 

少し、越来グスクの見え方も変わってきそうです。

 

 

とりあえず、

コザ十字路の大壁画
神話部分を描き足せたらいいねー。
(今は源為朝伝説が絵のスタートなのだ

 

 

 

*おまけ(後日談)*

この講座のあと、
愛読書『百十踏揚』をぱらりとめくってみたら
本文3ページ目に「(越来城は)アマミキョが造ったと歌われ」
という一文が(!)

…読んでたんかーいっ(苦笑)

 

 

 


 

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アマミクヌムイの越来グスク【1】

2019年09月22日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

先日、

『神が築いたグスク「越来グスク」』の講演会がありました。

これは、越来グスクが国の名勝「アマミクヌムイ」に
追加登録されたことを記念してのもの。

 

この追加登録がニュースに出たとき、

“アマミクに関連する御嶽として”

としか説明がなかったので

…ん!?越来グスクとアマミキヨにどんな関係が!?

と頭の中が「????」だらけになりました。

 

(ワタシは)越来グスクとアマミキヨの関連は
これまで聞いたことがなかったし、
越来グスクの石碑や、沖縄市教育委員会の説明版
沖縄市立博物館の越来グスク展のパンフレット
沖縄市の歴史を描いたコザ十字路の大壁画(および解説パンフ)にも
アマミキヨとの関連記述は一切なかったから。

もちろん私の知識不足もありましょうが、
これらを鑑みると
少なくとも沖縄市はこれまで越来グスク↔アマミキヨを
推して(重要視して)いなかった、とは言えるでしょう。

 

 

その後、沖縄市立図書館で追加指定に関連してのパネルが設置され↑

その中で「おもろさうし」に
「(越来グスクは)アマミキヨがつくったグスク」
という記述があることを知りました。

なるほど!おもろさうしか!

アマミキヨと史跡の関係といえば琉球七御嶽だけど、
おもろさうしに越来グスクの記述があったとは知らなんだ。

史書には七御嶽の記述だけで
越来グスクはないものね。

 

しかし、

なんで沖縄市は今までこの部分を一切紹介してこなかったんだ????

全然周知されていないのに、何でいきなり追加指定????

越来グスク、破壊されまくってて全然グスクとしての面影ないけどいいの????

 

と疑問でもあり、
全くなにもわからなかったので
勉強しに行ってきました。

 

 

前半は追加指定の根拠となった
「越来のおもろ」についての解説。

講師は以前、
勝連・阿麻和利をおもろをテーマにした講演会を拝聴したこともある
波照間永吉先生

 

 

ごゑく こてるわに

ゑのち ともおそいや

あまみきよが たくだる ぐすく

 

越来 小照る曲(曲輪)に

命 とも襲いは

アマミキヨが 工たるグスク

 

「おもろさうし2-74」

 

 

これが件のおもろ。

越来の曲輪、城壁の曲線、つまりグスクそのものを讃え、

“この素晴らしいグスクはアマミキヨが造ったグスクです”

と神をたたえ、祭祀を行っていたようです。

ほほ~~~~

 

越来をたたえるおもろは17首あり
その中からいくつかを読み解いていきました。

私にとって越来のおもろと言えば

「鷲の嶺」のおもろ。

 

ごゑく世のぬしの

わしのみね ちよわちへ

いみやからど ごゑくは

いみきや まさる

 

越来の世の主様が鷲の嶺においでになりまして

今からこそ越来は イミキは勝るのです。


「おもろさうし2-79(39)」

 

 

イミキの意味は諸説あるようですが、
講師の波照間先生によると

イミキは「お神酒」、
お神酒は米が原料のため、米の豊かさ、つまり五穀豊穣では、

とのこと。

 

でも、実は私が衝撃だったのは、このイミキではなく
「鷲の嶺」の部分。

 

鷲の嶺は越来のグスクのある嶺、
ひいては越来グスクそのもの
という解釈を以前本で読んでいたので、

(越来世の主が、鷲の嶺(≒越来グスク)に来て(就任して)、
今こそ越来は豊かになるのだ

こんな意味だと思っていたのです、

が、

 

鷲の嶺はグスクとは別にあるらしい!!


なにーーーーっ!!!???

 

沖縄市立郷土博物館学芸員さんによると
越来グスクから1キロ東に行った、
現・宮里小学校のところらしいです…。
(今はその面影はまったくないとのことでしたが…)

つまり、

〝越来世の主が鷲の嶺に出かけて行って”

という、巡行の様子とな。

 

わーお、マージーかーーーーーー。

 

 

グーグルマップ地形図で見てみる。

越来グスクの東に宮里小学校(下線部)。

更にその東に海。
(鷲の嶺から海をみるおもろもある)

地形図で見ると
確かに高台になっている地形が続いている(灰色部分が斜面)。

昔は山々が連なっていて、
この一部分が
いわゆる「鷲の嶺」
だったのだろうか?

 

キラキラ本の擬人化・越来グスクは
鷲の嶺≒越来グスクの解釈でかいてたんで(澪之助作)
違うとなるとちょっとショック…。

 

それとも、どっちの解釈もありなのか?

 

ともあれ、

鷲の嶺≒越来グスクのある嶺≒越来グスク

とは言い切れないことを学びました

 

 

(長くなったのでつづく

 

 

*オマケ*
郷土博物館のスタッフ紹介ページイイね!

皆めちゃ楽しそう(笑)

市立図書館が(元)コリンザに移転してから
あの建物訪れてないけど、
階下の図書館が空いて
郷土博物館はなにか変わったのかな。
そのうち再訪しようかな。

 

 

 


 

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高嶺中学校と他魯毎

2019年09月15日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

先月、南山グスクを訪れた時に
グスク前(道沿い)に掲げられていた横幕。

 

 

南山城跡を国指定文化財に!

 

 

おおっ

 

 

ここ糸満市指定史跡「南山城跡」は
現在国指定に向けて調査が進められています。

 

 

糸満市も結構力を入れている(入れる計画?)と聞きました。

うんうん、頑張ってほしい

南山に光を!!

 

 

南山王(他魯毎)の子孫にあたる高嶺中学校の生徒達が、
毎朝南山城跡の周りの清掃をしております。

 

 

高嶺中学校の生徒=他魯毎の子孫!!!

 

これはまた大きく出たな(笑)

 

でもこう表現してるってことは、
少なくとも高嶺中学校の生徒達には
他魯毎が郷土の誇るべき王様像
になっているってことだよね?

そういう教育、アプローチをしている…
ってことだよね?

 

やっぱりね、
まずは地域の人が地域の偉人を愛さなきゃ!

 

他魯毎は反面教師、
という存在でしかないなんて
悲しすぎるもん。

 

高嶺小中学校で
どんなふうに他魯毎や南山を教えているのか、
興味ある~♪

もちろん、

「他魯毎」の
読み方も漢字もちゃんと理解して……

 

 

って、

ここは間違えたらいけないやつ!!!


 

 


 

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三山統一、南山は最後?最初?

2019年09月14日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

今日も南山にまつわるお話を。

 

南山が中山や北山に比べて
認知度や人気度が低いのは、
その歴史を見た時に、

1 登場人物の関係性とごたごたが複雑かつ謎
2 南山(佐敷)所属の尚巴志との関連性が謎

だからだと思う。

 

1に関しては以前、
『考古学から見た琉球史』を元に図解した記事があるので
それを参照してもらうとして。

2の尚巴志の関連性は
やっぱりまだイマイチ腑に落ちない部分もありますよね。

 

尚巴志は南山所属なのに、
島添大里を滅ぼした時、南山王(島尻大里)が動いている様子がない。

その後、尚巴志は南山王を滅ぼさず、中山に向かっている(※)

南山は尚巴志が動き出して20年以上、ずっと放置されていて
その間、尚巴志に対する南山の動きはない。

 

南山…どうした!?

 

尚巴志の三山統一の過程は、
現在の通説では

南山東エリア有力按司の島添大里を討つ→島添大里の地を得る
中山王・武寧を討ち、父・思紹を中山王に即位させる
北山王・攀安知を討つ
南山王・他魯毎を討つ → 三山統一(1429年)

となっています。

 

正史の『球陽』(1745年)でもこの順。

 

が、

正史でも球陽よりも古い
『中山世鑑』(1650年)、
『中山世譜』(1701年)では
少し記述が違うんですねー。

 

 

『中山世鑑』

南山を討つ
尚巴志南山王になる
中山を討つ
尚巴志中山王になる
北山を討つ(1422年)→三山統一

 

 

『中山世譜(蔡鐸本)』

他魯毎を討つ
尚巴志南山を統治する("(南山の)民にあまねく利をほどこした")
中山王・武寧を討ち、思紹を即位させた
北山を討つ(1422年)→三山統一

 

尚巴志は中山攻略の前に南山を討っている!!

しかも、しっかり「南山の支配者(南山王)」になっている!!!

 

 

 

 

先日、この三山統一の過程について雑談してたら、
同僚の一人が


「先に南山を討つという順が普通に考えて自然。
南山を放って中山に行ったら
(背後にも敵(南山)がいるわけだから)
背後からやられる」

 

と。

 

だーよーねーー。

確かにそれだと、すごくシンプルでスッキリするんだよね。

 

 

 

でもでもでも!



1429年まで明実録に他魯毎の朝貢記録があるんだよ。
(つまり1429年までは南山と南山王が存在していた)


それはどうとらえる!?

と聞いてみたら…

 

「他魯毎は尚巴志(中山)側の人間

もしくは、

(他魯毎は殺されていたが)尚巴志(中山)が影武者をたてていた」

 

 

きゃーっ!Σ(゚Д゚)


 

え、なぜそうする必要が!?

 

 

「そのほうが朝貢の利益が2倍になる」

 

 

ぎゃーっ!!Σ(((゚Д゚;))))

 

た、確かに南山を併合した中山だけが朝貢するより
南山、中山それぞれから朝貢したほうが利益が多い!

実際には中山(尚巴志)の支配下ではあったけど
南山、そして南山王という存在を生かしておいて(orそのように見せかけておいて)
2重の利益を得る戦略!?

朝貢も王様が直接明国に行くわけじゃないし、
文書上に肩書と名前が出てくるのみ。


本当に本人かどうか確かめるすべはない…!?


尚巴志が「南山王之印」もぶんどって
そのまま利用していたということか!?

 

 

いや、でも、実態を欺くなんて
久米村(朝貢の事務を担っていた明人集団)が黙っていないのでは??

 

 

「結局は、久米村も、勢いのある尚巴志に加担していた」

 

 

ぎゃーーーっ!!ΣΣ((((゚Д゚;;))))

 

 

南山・中山の2重朝貢によって
久米村へのリターンも倍増、メリットがあるとなると、
確かにそっちに傾くかもしれん…!!!!

 

尚巴志………悪い奴め……w

 

実際、中山と南山が合同で朝貢している記録もあるだけに
この推理はなかなかリアル…!!←(大好物)

 

また、他魯毎は尚巴志の子説もありますが、
(初出典は冊封使・汪楫の『中山沿革志』?)

子ではなくても
尚巴志の腹心の部下が他魯毎だった…

という見方もできるの…か?

 

南山は中山と同盟関係にあったとか、
南山は中山の傀儡政権だったとか、
南山と中山の関係を推測した説は色々見受けられますが、

今回のはこれらに似てはいるものの
戦略性や背後の「人間味(欲望とか損得勘定とか)」がより感じられて
個人的には結構、腑に落ちました。

 

 

ただ、この推理の通り
中山の前に南山を倒していたとすると、
中山攻略の1406年以前、ということになります。

1406年以前となると、
他魯毎はまだ南山王ではなくて、
その父ちゃん、王応祖の代になります。

汪応祖は1403年に王弟として入貢、
1404年に冊封を受けて、
1415年に兄・達勃期に殺されるまで南山王でした。

 

冊封直後(1405年とか)に討って、汪応祖も影武者をたてた?

達勃期とのいざこざは?

 

ううぅ~~~~む……

 

 

 

さぁて、この推理、あなたはどう見ますか?

 

 

写真は先月再訪した
南山(島尻大里)グスク、嘉手志川。




 


 

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【またまた】推定年齢考証してみた。

2019年09月12日 | ・琉球史散策/グスク時代

ツイッター@wawa_ryuq)で、
今週(9/8~)は南山推しウィークと名付けて
南山にまつわるツイートをしています。

その中のツイートの一つから派生したのが
今回のネタ。

 

 

前々から触れていますが、
尚巴志とか阿麻和利みたいに、
もっと南山の皆さんに光(注目)が
あたってほしいなと思っている和々です。

なので、

今の「推し」は誰?

と聞かれたら、

他魯毎、守忠の兄弟をあげます。

 

他魯毎(たるみい)は尚巴志に倒された最後の南山王。
守忠(しゅちゅう)はその弟。

この兄弟の父親が汪応祖(おうおうそ)です。

他魯毎は戦死しますが、
弟・守忠は逃れ、
後に結婚し、生まれた子供が守知(しゅち)

守知は第二尚氏の世で出世し、
尚真王の養父となります。

 

これを以前図にしたのがこちら↓

拡大版と記事はこちらから。
これは『琉球戦国キャラクター図鑑』のコラムでもリテイク図解しています!

 

また、他魯毎・守忠兄弟は歳が離れていて、
他魯毎が守忠の育ての親でもあった、
と以前本で読み、
2人の関係にぐっと興味がわいたのを覚えています。

年が離れていたって、

…どれくらい?

他魯毎が王様だった時、守忠は何歳だったの?

尚巴志に攻められた時は?

 

…と、ふと気になったので、
【またまた】推定年齢考証してみました!
(前回はこちら→

 

年齢の数字を設定をする上で材料としたのが、以下の点。

 

・汪応祖は天寿を全うしたわけではなく、在位中に兄に殺されたのでまだ働き盛りの壮年期だったのでは。

・よって、その子、他魯毎もまだ若かったのでは。

・とは言え、南山の諸按司から次の南山王にと推挙されているので、成人はしていたはず。

・守忠は幼くして父を亡くした、とあるので、汪応祖が死ぬ数年前の生まれか。

・守忠は戦から逃れたあと、名護(久志)で数年隠れて南山に戻り、結婚し、子ども(守知)が生まれた。

・守知は第二尚時代の王府に仕官し、尚真の養父になっている(そのタイミングは諸説あり)

 


・『沖縄のサムレー 家譜に見る士族』(比嘉朝進著)
・『球陽』

伊舎堂墓の説明版

 

 

というわけで、

汪応祖が死んで、他魯毎が即位した時を
20代前半~中盤のイメージとして、間をとって24程度に、

弟・守忠を汪応祖が死ぬ4年前程度に設定して、
(汪応祖が死んだ時点で生まれたての赤子より幼児の方が、他魯毎も教育しやすいのではないかな、と)


Excelカモ―――ン!!!

赤字は確定。黒字は推定です。


 

全体的に2~4歳程度前後する可能性もふまえつつ、
割と「アリ」
な気がする結果となりました。

 

他魯毎の在位中に、守忠は幼児から大人(18歳程度)になっている。
他魯毎が「守忠という人」を作り上げた育ての親ってのも納得。

他魯毎が40前後で没というのも、
まぁ、割とイメージ近いかも。

(そういえば他魯毎は尚巴志の長男説もあるね。
尚巴志の次男の尚忠が1391年生まれだから、
もし長男が1年前の1390年生まれだとしたら
南山王即位の1415年時点で26歳。
おお~、誤差の範囲)

 

 

守忠の息子・守知の誕生は
守忠が数年名護に隠れ住んでいたという話から、
南山滅後の数年後に設定。

 

ところで、
守知の32歳の所に「養父」と書きました。

これは


尚真が生まれ、尚円が占わせた所、
吉日に赤ん坊(尚真)を城外に出して
最初に出会った男を養父すれば吉と言われ、
尚円は家臣に命じてそのようにさせると、
守知と出会った


という話から。


しかし、尚真が生まれた1465年は
金丸(後の尚円)はまだイチ家臣で、王位にはついていないので、
尚真が城内で生まれたわけではありません。

とすると、この伝承は年代的に無理が生じるのかなと。

伊舎堂墓の案内板にあるように、

守知は最初は普通に仕官して出世し、
孫(華后)が尚真の側室に入り、尚清王を生んだことで
養父となった…

という流れの方が自然なのかも?

 

個人的には、
守知が死んだ時、尚真は号泣したともあるので(『球陽』)

幼少期からの密なつながりがあった=赤子の時から養父説

を取りたいところですが。

 

…尚真が赤子の時ではなく、
尚円が即位した時(5歳)、

もしくは尚円が死んだとき(11~12歳)に
尚知が養父になった…というのもアリかな?

 

ともあれ、
表を見ると守知は結構長生したっぽいことが分かりますね。


+


この推定年齢考証は
あくまでもワタシの推測にすぎませんが、
具体的な数字で見てみると、
漠然とした各人物イメージが
少しシャキッと
してくるような気がしませんか?

  💭

 

 

 


 

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KUMIODORI300-組踊展―

2019年08月18日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

組踊300周年記念展示会、
その名もズバリ
「KUMIODORI 300ー組踊展ー」

県立博物館と首里城の2会場で同時開催中です。

https://kumiodori300.okinawa/event/20190711-0825-exhibition/
https://kumiodori300.okinawa/event/20190705-1114-exhibition/

 

県博の方が展示規模が大きく本格的なのですが、
会期があと1週間!
(首里城は11月まで)

そこで、県博のほうの見どころを
簡単にレポートします。

 


『執心鐘入』の元ネタともいえる
『道明寺縁起』が初公開!

執心鐘入のストーリーと比較しながら
絵巻を見ることもできて面白いです。
道明寺そのものにも興味がわきます。

 


村(地方)に伝わる組踊の数々の衣装や小道具!

これだけの衣装を一堂に見れるのはなかなか貴重!
宜野座村の『本部大主』、
多良間島の『忠臣仲宗根豊見親組』が特に興味深かったな。
「鎧」の表現が面白いの。

国賓に対して踊られた(古典)組踊とは違って
近代になって村々で演じられてきた組踊は庶民の目も加わり、
よりショー的なビジュアルになっていった部分
(ある意味では庶民的ながらも健気な工夫)もあるのかな、
と想像しました( ˘ω˘ )

こういうごてごてした装飾って、
古典組踊ではあまり見ない気がするもの。
特に男性キャラ。

琉球創作をしてる人(絵とか舞台とか)には
いいヒント・資料になるかも。

衣装、後ろからも見たかったな。



組踊名優たちの衣装・小道具
『二童敵討』のあまおへ(阿麻和利)だけでも
こんなにバリエーションが!

向立(鍬形部分)も似ているようでちょっと違う。
統一されている形というわけではないのね。

(今の肝高の阿麻和利の阿麻和利のように
真ん中部分がつながっている向立も!)

どの阿麻和利衣装が好みか、話の種にできそう。

 


片山春帆の『芸能画帖』!

個人的にはこちらもポイント高し!

組踊をスケッチ+淡彩したものがステキング!

クロッキーなので、ささっとした線なんだけど
それがまた良くて、憧れる…

 

 

個人的な推しポイントは以上の4つですが、
音楽に焦点を当てたコーナーや
NHKの「沖縄の歌と踊り」の上映もあります。

上映はダイジェストとかじゃなくて
各演目がっつり見れます。

こちらは無料スペースです。

ちなみに、展示は3Fですが、
1Fのジブリ展の手前では
4Kで組踊を上映してましたよ。

演者や公演にこだわらず
綺麗な画像で見たい方はこちらもオススメ。

 

 

首里城での展示は
南殿と黄金御殿だけなのでこじんまりとしていますが、
首里城出土の、アノ兜の鍬形を生で見れます!


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漢那グスク

2019年07月23日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

親子連れで大いににぎわっている
宜野座村の「道の駅ぎのざ」

その向かいにある丘が、
漢那(かんな)グスクです。

 

 

5年前くらいに撮った案内板。

今もあるかな?

それか、リニューアルされたかな?

 

 

グスクの内部を目指して丘にも行ってみたけど、
更地になっていて、なにやら工事をしていたようで
遺構などは見ることはできませんでした。

工事は住宅などではなさそうだったので、
展望台的なものかな?とその時は思ったんだけど、
結局なんだったんだろう?

(今はもしかしたら入れないかも?未確認)

 

 

上からの眺め。
(まだ道の駅ぎのざができる前)

案内板にもある河口の入江が良く分かります。

かつて、多くの山原船が行き来した場所。

 

↑クリックで拡大

 

現在。

 

山原船の賑わいはなくなりましたが、

かわりに

多くの子どもたちの声で賑わう場所になっています。


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長寿宮・長寿寺跡

2019年07月20日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

夜の歓楽街として有名な、那覇市松山。

窓のない大きな建物に囲まれた
そんな一角、

 

 


セクシーなお姉さんの幕が掲げられている、
そんな場所のすぐそばにたたずむ、

ひとつの史跡碑。

 

 

「長寿之宮」

 

 

尚金福王の時代、
当時"浮島"だった那覇と本島を繋ぐ海中道路、
いわゆる長虹提の建設計画が上がる。

国相・懐機は
海を埋め立てて道をつくるという難工事は
神仏の力なくしては成し遂げられないとし、

祭壇を設け、
二昼三夜祈ったところ、
水が引き海底が表れた。

いまだ!と人民を総動員して
(そのイメージ写真がこちら

みごと長虹提を作り上げることができた。

懐機は神仏に感謝し、
長寿宮を建てて天照大神を祀った。
また、長寿寺を建てた。

 

参/『球陽』

 

 

実際、この場所は長虹提のそばにあたります

 

当時は神社お寺は二つセットだったので(神仏習合)
長寿宮・長寿寺が同じ場所に建てられた(併設)、
ということですね。

 

銘には「長寿之宮」とあるので
長寿宮(長寿神社)跡なのですが、
同時に長寿寺跡でもあるのです。
(本によってはここを長寿寺跡として紹介しているものも)


また、長寿寺は懐機が私邸を喜捨して造られたとあるので、
まさにここは

懐機のおうち跡

とも言えると思います。

 

なお、長寿寺は明治に廃寺になり、
長寿宮は浮島神社と名前をかえ、色んな経緯をたどって
現在は波上宮に移されています。

戦前までは祠が残っていたそうなので、
今あるこれは、それを元に建てられたものなのでしょう。

 

参/
『沖縄の神社』(加治順人著)
『沖縄は仏教王国だった』(川上正孝著)
『三十六の鷹』(亀島靖著)

『沖縄大百科事典』


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【描いてみた】琉球史人物、を、34【キラ男子】

2019年06月08日 | ・琉球史散策/グスク時代

【義本(ぎほん)】

舜天王統(1187~1259)3代目の王。

在位中、天災・飢饉が起こって多くの餓死者が出た。

それは自分に徳が無いからだとし、
彼は英祖に王位を譲って退位した。

 

彼は自身の不徳を詫びるため、
玉城グスクに行き薪の上に座ると、
家臣に火をつけさせ焼身自殺を図った。

しかし、まさに火が彼を呑み込もうとした時、
にわかに大雨が降り、火は消えさった。

死ぬことままならなかった義本は
そのまま行方知らずとなった。

 

退位後の義本王の足取りは全くの不明であり、

彼の墓だといわれているものも点在。
辺戸北中城1北中城2 等)
奄美群島にまで及ぶという。

 

そのため、
義本→英祖の政権交代は
禅譲という平和裏なものではなく
クーデターによるものであり、
義本王は追われる身になったのでは
という見方もある。

 

辺戸にある【義本王の墓】からは実際に
グスク時代の人骨や装飾品が出ている。

 

 

彼はまじめで責任感が強く、優しくも悲運な王だったのでは…
とイメージします。

 

(少なくとも辺戸の観光案内所にある
チャラ男っぽいイメージはない(笑)
でもあれはあれでキャッチ―(笑))

 

 

そんな義本王のキラキラ化。

1年以上前に描いて放置してたラフ画を発掘

キラキラ舜天とちょっとリンクさせてます。

 

ちなみに、彼が王位を譲った英祖(キラキラver)は
コチラから。

政権交代なので、
顔のタイプもガラリと変えています。


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<図解>考古学からみた南山+α

2019年05月12日 | ・琉球史散策/グスク時代

三山時代の南山は
北山、中山と比べてなんだか複雑。

謎も多く、色んな解釈があって把握しにくい…
というのが根強い印象。

一応、

・南山は王を頂点とするピラミッド型の社会とは少し違う
・南山按司連合の代表が王となる、というイメージ
・南山は更に2つの勢力に分かれていた(島添大里・島尻大里)
・尚巴志はそのうちの1つ(島添大里)を先に滅ぼして拠点とし、中山へとコマを進めた

という具合に、ある程度は把握できたものの(→)、

それでもまだ人物関係などではもやもやした部分もあり、
分かっているような、わかっていないような…。

 

そんな中
『考古学から見た琉球史(上)』(安里進著/ひるぎ社/1990)
を読了。

その中で、南山の歴史に触れた箇所があり、
私的にとてもスッキリした部分が多かったので
復習も兼ねて図解してみました!

 

+

 

まず、南山の区分について。

 

 

ザックリ言うと、
考古学的に、出土した土器などの特徴を元に地域分けするとこうなる、
という図です。
(▲はグスク)


豊見城・糸満あたりのD類主体圏(緑エリア)
玉城・具志頭あたりのA・C類主体圏(赤エリア)
そして大里・知念あたりのB類主体圏(黄色エリア)

 

ここでのポイントは、黄色エリア。

このB類主体圏は南風原まで、
つまり中山のエリアまでつながっているのです。

 

ということは、考古学的に見ると、

島添大里や佐敷は南山ではなく、中山だった!

 

はっきり「中山」とは言えずとも、
南山と中山の境界線で、所属があいまいな(ゆるい)エリア、
というのはあるかもしれない。

そう考えたら

・尚巴志が島添大里按司を倒しても南山王とはならない(島添大里グスクは南山王の居城ではない)
・尚巴志が島添大里按司を倒しても南山は特に動いていない
・尚巴志が島添大里按司を倒した後、南山(島尻大里)ではなく中山にコマを進めた
・尚巴志が中山王・武寧を倒した時、そこを南山の領土拡大とするのではなく、そのまま「中山」とし、中山王を踏襲した

というのは確かに合点が行きます。

 

でも、一方で
グスクの規模的に大きな力を持っていたであろう島添大里グスク・按司が
全く存在感がなくなっているのがひっかかりポイント…ではあります。

また、この解釈(島添大里や佐敷は中山)は現在は一般的ではありません。

 

これに関してはまた後で振り返ります。

 

+

 

次に、緑エリア赤エリアの権力者について。


 

文献から見える、南山最初の権力者の名前が2つ。

・1つめが、南山王・承察度(しょうさっと)
・2つめが、南山王叔・汪英紫(おうえいし)。

 

支配エリアに関しては、

承察度はウフサト(大里)と読めることから緑エリア、
汪英紫はエージ(八重瀬)と読めることから赤エリア、

ではないかというのが本書の主張。

 

承察度は島添大里グスク関係者だと思っていたので
これまた真逆の展開…。

 

島添大里グスクが南山ではないという前提になると、
承察度は島尻大里から、糸満ということになる。

(でも島尻と島添の語意からすると、島尻<島添という気もするけど…)

 

とりあえず、
南山にはこの2大勢力があった、と。

 

ふむふむ。

 

+

 

では次に南山王の系譜図。 

 

 

本書では、
考古学的に緑エリアと赤エリアの違いは部族の違いであり、
王叔などのように血のつながりがあるような記述は擬制的関係なのだろう、
としていますが、
この図では敢えて文献記述に基づいた線で結んでみました。

中心になるのは文献に最初に出てくる南山王・承察度

彼を中心に、王叔(汪英紫)、王子、と見て行ってください。

 

南山王・承察度の朝貢と同時に、王叔・汪英紫が朝貢している。

・この二重外交の例は他でも見られ、王位継承者(後継者)の証、特権である

・三山時代、王位継承者は一定期間、二重外交をした後で王位が継承されるのが原則であった

・よって、承察度の後継者は、汪英紫であるはずだった。が、まだ正式な「世子」までは行ってなかった

・そのうち、承察度汪英紫ではなく、我が子の承察度(Jr)を王位継承者にしたくなった

そこで汪英紫承察度(Jr)と王位継承をめぐって対立し、結果、承察度(Jr)は朝鮮へ亡命する(『李朝実録』)。

(この時、中山王察度が、汪英紫に味方して協力している)

・王子亡命後もおそらくいさかいが絶えず、南山王・承察度(温沙道)自身も追われて朝鮮へ亡命する(『李朝実録』)。

(この時も、中山王察度が、汪英紫に味方して協力している)

・ライバルを追放し、晴れて王位につけることになった汪英紫だが、病気かなんかで死去する。

・よって、汪英紫の子・汪応祖が南山王を引き継ぐことになった


という流れ。
(その後の達勃期、他魯毎に関しては割愛)

(王と世子による二重外交のシステムに関しても興味深いので
この点に関しては是非本で読んでほしいです)

承察度の朝鮮亡命が色々謎ポイントで、
王子は存在せず王そのもの(同一人物)なのだとか、
温沙道と記述されているのは承察度ではなく上里按司だとか、
色々解釈があって取っ散らかっているのですが、

私は今回のこの展開が1番腑に落ちてスッキリしました。

 

 

さて、
最初の南山勢力図で、
承察度の勢力は豊見城・糸満エリアで
汪英紫の勢力
は玉城・具志頭エリア
とありました。

でも、
汪英紫の子の汪応祖は豊見城グスクと関係があるし
やっぱり規模的にも、
島添大里グスクが南山権力闘争とは全く関係ない只のグスクとは思い難い…。

 

とすると、

 

承察度を追い払いつつあった汪英紫が、
次第に勢力を拡大して行って
自分の子ら(汪応祖やその兄弟)を豊見城グスクや島添大里グスクに配置していった…

というのは考えられるな。

参/『新 琉球王統史2』(与並岳生著/新星出版)

 

島添大里や佐敷は中山(もしくはあいまい)領域だったというのも、
昔はそうだったとしても、
次第に汪英紫が影響を広げていって
南山色が濃くなっていった…とか、ね。

 

でも、そう(島添大里按司=汪英紫の子)だとしたら、
尚巴志が島添大里按司を滅ぼした時、
一族で繋がっているはずの南山王から
何もアクションがなかった…というのは妙な話ですね。

とするとやはり、
島添大里グスク(按司)と南山は関係がない、
というが自然なのか!?

 (RBCドラマ尚巴志では、汪英紫一族同士で仲たがいしていたという設定でしたね)

 

 

う~む、堂々巡り。

 

 

+

 

ところで、この本では出てこなかったけど、
三五郎尾も図に入れておきました。

承察度とは叔父と姪の関係。

「姪」と書かれてはいるとは言え、ここでは「甥」と言う意味
というのが一般的でしたが、

言葉通り「姪」、つまり、女性だった!

というのは
古琉球 海洋アジアの輝ける王国』(村井章介著/角川選書)』より。

と言うわけで髭無しの中性的にしてみた。

女性外交官・三五郎尾もそのうち描いてみたいと思います。


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中城グスクの起源に迫る

2019年01月15日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

 

世界遺産中城グスク、
一の郭城壁の解体工事&発掘現場解説にお誘いいただき
行ってきました!

 

現場はこちら。

 

 

正門入ってすぐの側面。

昔、ワタシが発掘体験をしたところ

 

足場が組まれているのですぐにわかります。

(ところで、今グスク観光順路、
これまでの広場のある裏門からではなく
普通に正門からになっていますね。
チケット売り場から正門まで、
カートが常時運行されていました☆)

 

到着したとたん、

なんじゃこりゃ~~~~!

 


※スマホのパノラマ撮影ゆえ湾曲してます

 

今まで見ていた城壁の中に、
古い時代の城壁が出現!

 

これまで見ていたごつごつの野面積的な城壁とは違い、
かなりきれいな布積み!

石の表面も滑らかで、石の継ぎ目も隙間なくぴっちり!

形の加工も精巧に、
上下方向の目地もまっすぐにではなく
ずらして強度が出るように組まれています。

 

スゴイ丁寧で緻密な作り!

 

 

城壁の根元部分。

岩盤に突き当たるまで土を掘って、
その上に石を積み、
また土をかぶせていく。

また加工した石の欠片などで隙間を埋めていく。

城壁の製作過程が垣間見えました。

 

この古い城壁は
13世紀末~14世紀初頭ぐらいでは?
とのこと。

グスク時代真っただ中!

 

中城グスクの築城時期が解明!?

 

--------------------------------------------

追記(2019.5)

その後の様々な検討により、
件の石垣の時期は推定14世紀前半から
推定14世紀中頃~後半に変わったようです。

--------------------------------------------

 

 

足場を登って上から。
(高所恐怖症でもこういう時はガンバル!)

 

危険なので案内(許可)なく勝手に登らないように

 

 

この部分の城壁は3つの時代にわけられるということで、
色分けしてみたよ。

 

-------------------------------------------

追記(2019.5)

その後の様々な検討により、
件の石垣の時期は推定14世紀前半から
推定14世紀中頃~後半に変わったようです。

--------------------------------------------

 

っていうか、これまで見ていた表面の城壁が
つい最近(近代)のものだったとは…。

古い(赤部分)城壁の上の城壁(青部分)は増築部分。
15世紀前半ごろか?とのこと。

その頃と言えば、
冊封体制のスタート・朝貢貿易の活性化、
統一に向かう三山時代終盤の時期ですね。

 

 

時代の違う城壁の境目、
石積が倒れこんで角が丸くなっているのが
気になる!

崩れた?

それとも意図的?

キニナル キニナル。

 

-------------------------------------------

追記(2021)

増築された上部分(青部分)の重さにより
崩れてきたもの。

その応急処置として、抑えの石積み(緑部分)が
新た(近代)に積まれた。
↑今まで見ていた城壁がそれ

--------------------------------------------

 

 

古い部分の城壁はこれまで見てた城壁よりも
もっと垂直に近い角度で積まれいて、
上の増築部分は角度がややゆるやかに変わります。

 

 

 

石積の角度が変わる境目部分。

ちょっとでっぱりがあるので
そこに鉄骨が組まれていました。

 

下から見てるよりも
上に登ってみると結構な高さで
怖かったのよ~~~~😂

 

 

 

奥から振り返っての図。
(逆光で写真見えにくくてすみません

古い城壁の角が!

 

 

この角が古い城壁のアウトライン!?

ということは、もしかしたら
1番古い中城グスクは
今よりもずっとずっと短い、この範囲だった…のかも!?

 

 

ところで、

最初の中城グスクの按司といえば
先中グスク按司。

護佐丸の中城移動に伴って
糸満の真栄里グスクに追いやられたと言いますが……

 

うーむ、先中グスク按司時代の
築城技術というか、
丁寧な仕事ぶりを見るに

先中グスク按司の人物像というか
能力の高さというか
そういうものも感じられました!

 

そんな彼が簡単に城を追いやられるなんて…

その真相や、いかに!?

(それだけ護佐丸がハンパなかったということか?)

 

 

 

 

刻印石も!

刻印石とは
石の表面に意図的に削られた印のある石こと。

その印の意図は不明。

職人(集団)を表すものなのか、
建築過程上の目印なのか、
まじない的なものなのか…。

現時点では
首里城と、ここ中城でしか確認されていないようです。
(座喜味グスクにもあったと言われていますが実物は未確認)

アルファベットっぽいですよね。

 

えーーーなんでこれが自然の傷ではなくて
加工された印だと分かるんだーーー???

と素朴な疑問をぶつけてみましたら、

削られた面の滑らかさが違うとのこと。

実際に触って比べてみると…
…おお、なるほど…確かに

 

 

ところで!!!

中城グスク成立時期に関わるであろう
この城壁ですが!!!

 

なんと!!!!

今月いっぱいでまた埋め戻される運命とのこと!

 

見るなら、今月しか、
あと2週間余りしかありません!

担当者さんも、
とにかく多くの人に知ってほしい!と
色んな人に呼びかけている、とのことでしたので、
私も微力ながら取り急ぎ、こうして記事にさせてもらいました。
(写真撮影・記事にすること等、確認済み)

ご都合つく方は、是非!

 

なお、私が今回記事に書いた内容は
見聞きしたことのザックリした内容なのですが、

また改めて報告(報道)もあるかもとのことでした!

(その際はこの記事にもリンク先を追記したいと思います)

 

 

*追記*

 

★琉球新報記事
「中城城跡に14世紀前半城壁 貴重な発見、定説より古く」

 

19世紀後半増築か 中城城跡の城壁 写真から推測」

 

「中城城壁 謎の刻印 築城過程解明 糸口に 作業の目印? 意思表示?」

 

 

動画(Twitter)

 

 

+ + +

 

 

 

さっきの城壁の上、一の郭。

並べられている石は体対された石。

ナンバリングされ、
また元に戻せるようになっています。

 

 

むむっ!?

一の郭に新たな石積が!!

御庭に、新しい郭か!?

 

 

滑らかな台形、

曲線、

野面積み。

 

 

後方は基壇跡のように平らな石積…。

 

なんだ なんだ!?

 

 

 

…実はこれ、解体した際に出てくる
城壁の中にある「ぐり石」を積んだもの。

 

いわば、現代人による新たな石積!

 

普通の工事のおじさんたちが積んだものらしいですが、
……立派ですね。

知らない人が見たら、
これも中城グスク城壁の一部だと思うはず(笑) 


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【描いてみた】琉球史人物、を、32【キラ男子】

2018年11月06日 | ・琉球史散策/グスク時代

久々に

新規の
【描いてみた・キラ男子】シリーズです。

 

ラフで描いたデータはずーーーっと前からあったのですが
ようやくお披露目です。

 

今回は、英祖王です。

 

イメージ台詞
「太陽は、死んでもまた甦るのです」

イメージカラーはやっぱり
オレンジ~黄色系。

 

すっきり系の顔立ちに(唇も薄い)、

前髪オンザで内巻きマッシュルームカットの
モッズヘアにしたかったのですが
そのままだとあまりにも現代人っぽかったので
草髪を足しました。

やっぱりなかった方が良かったかなー?

太陽のイメージから
黄金系のアクセサリーを多くまとっています。

 

英祖は、舜天の次の王統の始祖になります(英祖王統)。

舜天王統の3代目、舜天の孫・義本王の時代に
天災が相次ぎ大飢饉が起こります。
義本王はこれは自分に徳がないせいだ、とし、
当時摂政として義本に仕えて、
幼いころから才徳高しと評判だった英祖に
王座をゆずり、姿をくらました…

とあります。

でも義本王のその後の消息が不明な事や
義本王の墓とされているものが
広範囲に点在していることから(  
実際にはなにかしらの争い(クーデター)があり、
義本王は追われたのでは、とも見られてもいます。

 

そんな彼ですが、
異常出生秘話として、

太陽が懐に入る夢を見て懐妊した。
いよいよ彼が生まれる時
部屋に光が満ち、瑞気は天に昇り
部屋中に香ばしい香りに包まれた
(「球陽」)

という逸話が有名です。

 

よって彼は

「太陽の子(てだ・こ)」

と称され
今でも浦添ではまつりや施設やお店や企業などに
「てだこ」を使ったものが多くみられます。

 

ワタシの彼個人としてのイメージは…
まだふんわりしていますが
頭が良く、大人で、浮ついたところがない落ち着いた人
というようなイメージ。

哲学(か倫理)の先生、みたいな。

うーん、きれいな優等生像しかない…。
人間臭さを感じるところまでは行ってないので
まだ英祖とはしっかり「お友達」にはなれていない証拠ですね…。

 

武系というよりは文系かな。

 

琉球に初めて仏教が入ってきたのも英祖の時で
英祖は浦添グスクのすぐそばに極楽寺を建てて
禅鑑を招いてもいますしね。

琉球で初めての仏教徒は英祖
って言ってもいいのかもしれない。

 

(でも先述したようにクーデターが起こっていて
英祖がその先駆けとなっていたのであれば
またガラリとイメージが変わりますね)

 

 

英祖関連の史跡は

浦添ようどれ( 

伊祖グスク

伊祖の高御墓(父)

などあるので

もっともっと「人間・英祖」を突き詰めていきたいです。


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