がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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リテイク版・赤犬子

2021年07月31日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

琉球戦国列伝リテイクシリーズ
赤犬子(あかいんこ)。

 

尚真王代(1477~1527)に活躍。

オモロ(神歌)の歌い手で、歌三線の始祖ともいわれる。

沖縄各地をはじめ、
1501年に完成した王陵・玉陵や、
1522年に仲宗根豊見親が尚真王に献上した治金丸についても
謳っており、
「おもろさうし(一巻)」にまとめられている。

また、不思議な力(霊力)を使っている伝承もあり、
謎の多い人物である。

 

 

私とアカインコの出会いは、
たぶん現代版組踊「翔べ!尚巴志」(現:現代版組踊「鬼鷲」)の初演。

ストーリーテーラーとして登場した彼の印象は
素朴で親しみのある好青年。

その舞台の影響や、
「吟遊詩人」や「旅芸人」と説明されることもあって、
当初からキラキラしたイメージがありました。
みつあみとかね。
ジプシーとか、FFⅣのギルバートとか、そういう感じ(笑)

 

なのでこれまで割とそういうキラキラキャラ寄りで
ずっと描いてきたわけですが、
(髭キャラで描いたことない)

アカインコを調べれば調べるほど、

悪く言えばうさんくさい
良く言えばミステリアス

だなぁ…と…。

タンチャー(短気)だし、
呪いもするし。

 

とりあえず、
ただのきれいな優等生キャラではないだろうな
とはずっと思っていたので、

リテイク版では

得体の知れないおじさん風

に。

 

ざんばら髪にくたびれた野良着のまま、
装飾品も一切排除です。

 

 

本人も見た目は一切気にしないタイプ。
性格の癖も強いんだけど
「芸・技」は唯一無二の本物。

祝いの席や王の前にでるときは、
周りの人が身支度を整えてあげる。

そうすると…
おっとびっくり、別人のように大変身!?

的な裏設定です(笑)



 

なお、
野良着の感じと、腰に掛けてる水筒は
宮古島市総合博物館で見た写真を参考に
させてもらいました。


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リテイク版・仲宗根豊見親

2021年07月25日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

琉球戦国列伝リテイクシリーズ
仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみや)。

 

宮古島の首長。
1500年、首里王府軍と共に石垣島のオヤケアカハチを倒した後、
与那国島も攻める(その際は女傑サンアイイソバの反撃で失敗)。
22年後、2度目の遠征で与那国の新首長・鬼虎を滅ぼし、
先島の天下を握る。
同年、に自分の刀(治金丸)を尚真王に献上。
尚家の宝刀の1つとして現在に残る。

 

多良間の八月踊りに仲宗根豊見親の演目があるので
その衣装で描かれることが多い彼ですが、
リテイク版は芸能仕様である組踊衣装は採用しない方針なので
(阿麻和利もそうするつもり)
八圧踊り感はゼロ。
敢えて言うなら、髭のみ…かな。
(でも晩年設定なのでグレイヘア~に)


前作のように本島よりも南島なので
涼しげに白の単衣で描いていましたが
李朝実録の目撃証言記録では

(”衣服は多良間島と同じで”)苧布を用いて藍で染め…

とあるのに後から気づいて、
藍色にチェンジ。

柄は宮古上布の主な図柄の中から
「ティーイディ・ツカ・ジュームンズ(手の出た 舛 十文字)」
を選びました。

 

手にするのは治金丸。
尚真王に献上する前設定なので
簪は普通の蓮形しています。
(治金丸献上後に、鳳凰の金簪が与えられるので)

 

先島の髪型は首里とは違うようですが、
仲宗根は首里との結びつきを強めたので
敢えて首里のスタイルで。
(耳横カタカシラでもよかったかもしれない)

 

でももう少し宮古島感を出したいな~と思ったので
鳥さんと共演してもらいました。

鳥は現在は絶滅しているという
ミヤコショウビン。

カラフルな羽が亜熱帯を感じさせます。

でも、仲宗根が刀に手をかけてるので
この直後に斬られそうな
ミヤコショウビンになってしまいました😨


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リテイク版・オヤケアカハチ

2021年07月17日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

琉球戦国列伝リテイクシリーズ
オヤケアカハチ。

 

石垣島の首長(波照間島出身)。

首里王府に従うことを拒み、首里への貢ぎ物を停止。
反対意見の島内の勢力を制圧し、
八重山の完全独立や、宮古島への勢力拡大も目指した。

危機感を感じた宮古島の仲宗根豊見親の求めに応じ、
尚真王は王府軍を派遣。

1500年、
アカハチは奮闘するも、ついに力尽きて滅びた。

 

 

前回は石垣島に建っているアカハチ象(銅像)に
寄せたビジュアルにしていたのですが、
いくら離島とはいえ王府軍を迎え撃つ大将が野良着っていうのはどうよ…
とずっと気になっていたので、
リテイク版では鎧着用に。

しかし、
沖縄本島(王府軍)と差を出すために
「韋包(かわつづみ)」という鎧にしました。

いろんな鎧の小札(パーツ)をつなぎ合わせて修理したのを、
ちぐはぐ感を隠すために上から皮を張った鎧です。

つまり、リサイクル品(B級品)。

 

確か石垣島では鎧の遺物は見つかってないのですが、
アカハチが独自ルートで手に入れたという
仮の設定です。

 

素肌に直接着ているのはちょっと痛そうですが…
実際にそういう着方をしてる室町時代の絵図なんかもあるので
そちらを採用。
(上だけでなく下も履いてない例もあったんだけど、
さすがにそれは…ね…(^^;))


THEワイルド★アカハチです。

 

 

髪型や装飾については
当時の目撃証言録『朝鮮王朝実録』より。

 

朝鮮の漂流者が保護され、
首里に向かうために先島の島々を移動し、
各島の様子が書かれているの貴重な記録。

とはいえ、「石垣島」については書かれていないのですが、
アカハチの出身地「波照間島」の記述があり(→”大概与那国と同じ”)
そちらの一部を参考に。

すなわち、

耳には青い玉(ビーズ)のピアス(垂らす系)。
髪は苧縄でしばって、まげて、たたんで、髻をうなじのあたりに作る。
玉をつなげた首飾りを3、4巡りさせて1尺ばかり垂らしている

実際にどのようなデザインなのかは
この情報だけでは想像するしかないのですが
ザンバラ髪やポニーテールやカタカシラではなく、
このような髪型にしてみました。

首飾りは実際に石垣島から出土しているビーズと
サメの歯を参考にしました。

 

顔だちは
眉と目の間を詰めて、掘り深めに。

手足の毛もマストです。
(胸毛、脇毛は自主規制♡)


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リテイク版・尚真

2021年07月11日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

琉球戦国列伝リテイクシリーズ
尚真(しょうしん)。

 

第二尚氏第3代の王。
父は尚円(金丸)、母はオギヤカ。

父・尚円の死後、母の画策によって(とする見方が強い)、
叔父の尚宣威(第二代王)から王位を譲られて
12歳で王位に就く。

在位は歴代最長の50年。
様々な政策で王国の基盤を固め、
琉球の黄金時代を築いた。

 

 

やはり尚真は少年時代で描きたくなります。

今回は、朝鮮王朝実録にある「オギヤカの行列」目撃談にある
尚真の描写をビジュアル化しました。

 

・年十余歳

・貌甚だ美なり

・髪は後ろに垂らし、あまず

・紅あやぎぬの衣を着て

・帯を束ぬ

 

ちらっと出会っただけの朝鮮人に
「甚だ美なり」と言わせるほどのお顔とは
気になりますね♪

生粋のモテ男金丸と、
その金丸を最終的に射止めたオギヤカの血を引いているのですから
それはそれはイケメンだったことでしょう。

実際、御後絵を見ても整った感じですものね。
(金丸よりも…)

 

紅衣の詳細は分からないのですが
皮弁服ではないので
尚家継承の「紺地龍丸模様緞子唐御衣裳」と
「黄組物御紐」を(近世)を
参照しました。

赤地にして、
模様は古琉球なので龍ではなく鳳凰に。

紐はそのままです。


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リテイク版・オギヤカ

2021年06月26日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

琉球戦国列伝リテイクシリーズ
オギヤカ。

第二尚氏の始祖である尚円(金丸)の妻であり、
尚真王の母。

尚円王の死後、幼い我が子(尚真)を王位につけるために画策。
尚真が王位についた後はその背後にあって「女王」の如く権力を振るった
…とみられている女性。
 
キツめの表情の「悪女」として描かれることが多いオギヤカですが、
稀代のモテ男・金丸を射止めた女性なので
意思の強いかっこいい美人という感じで。
 
 
 
今回は琉球の身分の高い女性が外出の際にしていたという
「被衣」を採用。
 
着物を頭からかぶるあれです。
 
この風習は18世紀頃にはすたれますが、
婚礼衣装にその名残が見られます。
 
 
それからウシンチー。
琉球の女性は「帯」を締めません(ひもはあり)。
歩くとき、裾を引きずらない・汚さないように
表着の身丈をたぐって、下着の腰ひもに押し入れます。
この着方がウシンチー。
これは今でも琉装に見られますね。
 
 
本来は表衣を被衣に使う…のかもしれないけど
今回は『琉球服飾史(嘉数津子著/1960)』内の
復元写真(国際婦人クラブファッションショー)を参考に、
ウシンチー+被衣にしてみました。
 
 
表衣の柄は「現存する最古の紅型」とも言われている
「菊花繋文絹地型付胴衣裂地」を参照。
ちょうど尚円王の時代のものだと言われています。
 
「最古の紅型」と言われていますが。
紅型の最大の特徴である(と私は思っている)隈取は見当たらず。
なので、あえて隈取を入れず、
「紅型スタイルが確立される前」の感じにこだわってみました♪
 
 
草履は身分に応じて素材や厚みが違いました。
上級MAXは三重の竹皮草履。
 
絵では1ランク落として二重草履で。
 
 
簪は王族の金ではなく、士族ランクの銀。
 
 
そう、この絵は王妃になる前のオギヤカの想定です。
だって、王妃になってから、ましてや「女王」になってからは
外出は徒歩ではなく輿こしですから。→
(被衣なんていらないよね~^^;)

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真珠道から出土した骨

2020年06月05日 | ・琉球史散策/第二尚氏

埋蔵文化センターの常設展示室には
埋文コレクションからその時のイチオシを紹介する
「まいコレ」コーナーが月替わりであります。

 

先日、
首里城正殿跡出土品展の時に訪れた時に展示されていたのが、

 


現在のグーグルマップの写真がちょうどこのエリアを発掘している時のものだった。

 

首里城、守礼門後ろに位置する、
真珠道の起点エリアから出土した、

 

 

人の頭蓋骨(!)

 

 

まぁ、でも遺跡から昔の人の骨が出土するのは
特別珍しいことではないし…
とお思いでしょうが、
この頭蓋骨は、ちょっと不思議な点がひとつ。

 


それは、

 


頭蓋骨以外の体の部分が、
一片も発見されなかったこと。

 

つまり、
生首状態
で埋まっていた…!!

 

 


実際の「モノ」も展示されていましたが、さすがに憚れたので展示写真を。

 


…これは一体、どういうことなのでしょうか。


気になったので、真珠道跡の発掘調査報告書も見てみました。

 

調査の結果、
頭蓋骨は17世紀初頭の、
20代前半の男性で沖縄集団に属する
とのこと。

骨の形から、彼は
小顔で面長、
鼻が高く立体的な顔立ちで
健康体であったようです。

なかなかのイケメン!?

 
とはいえ、
生首状態ということは、穏やかではありません。
打ち首(処刑)か、
それとも首取りか、が考えられます。

刀傷などは見当たらなかったようですが、
残された頸椎との関係から、
前かがみになって後ろから切られる「打ち首」ではなく、
顔を上に反らせた状態で喉から斬られた
「首取り」の可能性が高いとのこと。

 

首取りと言えば、本土の戦国時代につきものの行為ですが、
17世紀、本土戦国時代の、首取りの作法……

1609年の薩摩侵攻!!


バリバリの戦国世を生き抜いてきた島津軍が、
琉球軍と戦った時の犠牲者なのでしょうか!?

 

 

報告書執筆者の土肥直美先生(人骨といえばこの人!)は、

尚寧王の側近で僧侶の喜安入道蕃元が記録した『喜安日記』に
「薩摩軍は太平橋で)被弾した城間鎖子親雲上盛増の首を取った」
とあることから、
生首の主は彼の可能性もあるでは?
と推測しています。

 

薩摩の首取りの行為を見た琉球軍は
したたか驚いて戦意喪失し、
首里城に逃げ込みます。

薩摩軍は取った首を持ったまま首里城へと向かい、
首里城の入り口(守礼門・真珠道付近)で
琉球側への脅しと、見せしめにさらし首にした…
そして琉球はついに降参をする…

その後、
その場に埋葬(もしくは打ち捨てられた)とすれば、
この場所に埋まっていたことも確かに合点が行きます。

 

 

推論に推論を重ねたほとんど妄想に近い話のようではあるが、
人骨の状況証拠の部分は事実であるので
敢えて可能性として提示しておきたい。
いずれにしても、真珠道の頭骨が琉球史の貴重な証人であることは間違いない。
今後、家譜や新たな資料などにより、
事実関係の検証がなされることを期待したい。

土肥直美


参/
『真珠道後・松崎馬場跡-県営首里城公園整備に伴う発掘調査報告書-』
(沖縄県埋蔵文化センター/2020.3)

 

 

月替わりの展示なので、
もう別のものに変わっているかな?
それとも、コロナで長く閉館してたから
6月もそのまま展示されてるかな?

そこはちょっと未確認ですが、
これから埋文に行く人は
展示室入ってすぐの
「まいコレ」コーナーも忘れずにチェックしてみてくださいね。

 


 

 

現在の、
守礼門を過ぎたところ。
真珠道の起点。

頭蓋骨の出土場所は
人が写っている後ろあたりです。

ちょうど通路になっていて、常に人通りのあるところ。

色んな人が行きかう地中に、
こんな骨が埋まっていたなんて……。

 

合掌。


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琉球の花火

2019年08月17日 | ・琉球史散策/第二尚氏

組踊300周年記念イヤーも後半戦、
加えて夏休み期間ということで
あちらこちらで組踊関連の企画が
目白押しですね。

お盆時期恒例の沖縄ホラードラマも
今年は「琉球トラウマナイト」「オキナワノコワイハナシ」の
2夜連続で『執心鐘入』題材の話があったのには
さすがにぶっとびまし

おかげで10年前に執心鐘入のあらすじを紹介した記事が
ここ数日ずっとアクセス数トップです。

どうもありがとうございます。

 

 

しかし、私は組踊は組踊でも、
今、興味関心がアゲアゲなのが

琉球の花火

なのです

冊封使をもてなす宴で芸能(琉舞や組踊)が披露され、
そのクライマックス、おおとりとして披露されたのが
なんと「花火」でした。

以前、このニュースで『火花方日記』の絵図を見た時から、
琉球の花火にすっかり虜になってしまいました。
(動画は公開終了で現在は見れません。残念…)

 

 

琉球の花火は
打ち上げ花火や手持ち花火ではなく、
スタンド式のからくり仕掛け花火。
(※ただし時代によって変化あり)

1866年(尚泰冊封)の『火花方日記』に記録されている花火は
どんなものかというと、

 

こんなん。

ちなみにこの画像は、昨日行われた首里城講座
『琉球国の舞台と花火―甦る300年の伝統ー』
で配られたチラシです。

現在の私たちが「花火」と聞いて
イメージするものとは違う驚きと、華やかさがありますね

講座でもこの画像が写し出されとたん
会場から「わぁ~」と声が上がっていました。

 

赤いふさふさが火です。
噴水状のものと、回転式のものと、
それから飾りを魅せるための照明(ランプ)としての花火。

ちなみに着火前は、

 

 

こう。

こちらも同上のチラシ(裏)より。

どういう仕組みで着火だけであれだけの展開が可能になるんだろう…

 

このようはスタンド式のからくり仕掛け花火が
他にあと4種類あって(全5種類)
それぞれ異なる趣向をこらしています。

この花火の担当者(火花方)任命や
5つの花火のうち誰がいくつ担当するかを巡って
ライバル争いがあったというエピソードは
人間臭くて面白かったです(笑)

↑の花火を担当した安里さん(安里筑登之親雲上)は
父・祖父が花火を代々担当してきた家なのに、
他のライバルに負け1つしか担当させてもらえなかったらしい。

最初は不服申し立てをするも、
本番が終わって後の(冊封使からの)リクエスト再演に指名されればいいや、
と、申し立てを取り下げ、本番は1つということに甘んじたのに、
まさかのリクエスト指名もされなかったという…

 

そんな(ちょっとカワイソウな)安里さんの花火↑が
今秋、復元披露される予定です→  

 

その前に、

 

こちらの講座もいかがですか?

国立劇場おきなわの研究講座「17191年朝薫の舞台」

 

花火について特化した講座もあるので
要チェックです!

全部平日開催ですが、入場無料です。
(要受付・先着順)

 

 

ところで、今年の首里城の中秋の宴は
影を潜めすぎているんだけど
なんなんだろうか…。

一応日程は9月14・15日みたいだけど、
(県博の首里城関連の掲示物で確認)
公式HPには出てないしチラシも見ないし、
プログラムも不明。

組踊300周年の、
正真正銘の現場である首里城の、
中秋の宴で、
特別なにもない?って……いいんだろうか…

組踊300周年イヤーの集大成は、
まさにこの首里城中秋の宴だと思っていたんだけど…
ちがうのか?

仮に何かする計画があるとしても、
今になってもちゃんとした情宣がなさすぎるのは、不安…


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女首長も、キラキラ化

2019年07月02日 | ・琉球史散策/第二尚氏

琉球史人物のキラキラ化シリーズ
今回は女子です!

(【描いてみた】【キラ男子】と分けての
キラキラ化シリーズでは
過去には神様聖獣もございます)

与那国島の女首長、サンアイイソバさんです。

実はキャラとしては習作として既に公開済み

このカラーイラストも1年前に描いたものです。

(慣れないアングルで描いたので
なんだかちょっと気に入らなくてひっこめていましたが、
せっかくなので少しトリミングして載せちゃいます)


肝っ玉母さん+女性体育教師なイメージのイソバさんですが
(『琉球戦国列伝』ではそれ)
キラキラ化に伴い、強気な乙女風に。

ハジチと腕輪の模様、青ビーズのピアスと藍色の服、
貝、それからお馬さんに与那国(先島諸島)エッセンスを。

島の女性と言うこともあり
神女モチーフの白いハキマキを。

 

おかっぱ頭なのは、前も書いたけど
新里堅新先生(BY『首里城ものがたり』)のイソバさんのオマージュです。


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赤の鎧の聞得大君(再)

2019年06月27日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

尚真王の妹(姉?)で、
初代・聞得大君の月清(音智殿茂金おとちとのもいかね)。

 

琉球の古い神歌である「おもろ」に、
赤い鎧を着て刀を持った聞得大君を謳ったものがあり、
その姿に興味を持って月清で描いてみたのが
7年前

 

そのリテイク版です。
(描いたのは去年です)

 

神事と武装。

祭政一致だった当時の琉球の様子が垣間見える、
(戦も政治なのである…)
一致興味をそそるモチーフです。


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リテイク版・芥隠

2019年06月10日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

『琉球戦国列伝』リテイク版、

5人目めは、

芥隠(かいいん)

 

 

【人物データ】

京都・南禅寺の流れをくむ禅僧。

1450年代に来琉し、
第一尚氏~第二尚氏初期にかけて活躍した。

広厳寺、普門寺、天龍寺、龍福寺などの住職をつとめ、
第二尚氏の菩提寺である円覚寺の初代住職となる。
王の相談役、外交官として、国政にも影響を与えていたとされ、
死後、「国師」の称号が与えられた。

 

 

その姿は奇異で
虎のように鋭いまなざし、
牛のようにゆったりとした佇まい…

と表現される芥隠。

ただ、このフレーズは徳の高さを表す
決まり文句のようなもので
実際の見た目の事ではないらしいのですが、

(なので琉球戦国列伝では敢えて
相反するおっとりした顔つきを採用)

一度、このフレーズのイメージで描いてみたくて
今回のリテイク版になりました。

第二尚氏のクーデターにも関与した可能性もあるということで、
立派な聖職者(和尚さん)というより
影で王府をコントロールする策士…っぽい雰囲気に。

大柄でガタイもよい…という設定。
(若い頃は特にムキっと)

キラキラ版でも登場している彼ですが、
どれも雰囲気が全然違いますね(笑)

 

芥隠についてはコチラの過去記事も→  


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江戸上り絵図のイラスト

2019年06月03日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

江戸上り(江戸立ち)の絵図を元に
イラスト化した2枚。

 

楽童子とお付きの者。

 

そして、

 

 

行列の路地楽隊。

よく見ると表情も結構楽しそうである。

 

絵図を元にしたこういうイラストを、
もっと色々描いていきたいなと思っている所。


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ニャトグスク

2019年04月21日 | ・琉球史散策/第二尚氏

与湾大親の墓碑?のすぐ向かいにあるのが
ニャトグスク。

漢字で書くと

湊城。

 

観光パーク「ケンムン村」の中にあります。

入って、左手。

 

 

珍しく公式っぽい案内板。

でも教育委員会などの明記はなし。

ケンムン村の手書きの看板が後ろに隠れています。

 

与湾大親の文字はありませんが、
地理的、時期的に、
おそらく何かしら関係のあったグスクかと思われます。

 

 

堀切。

 

 

案内板の想像図で言うと、
遠見ヤグラ跡?

 

 

振りかえるとこう。

ケンムン村という観光パークになっているので
周辺なども含めて
遺構がどれだけちゃんと残されているのか
気になる所。

 

とりえず、

「ニャトグスク」

という名称の響きは大変気に入りました(笑)

 

 

ニャトグスクの眼下はすぐ海。

「湊城」、納得です。


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与湾大親の墓?碑

2019年04月20日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

奄美大島の偉人、
与湾大親の関連遺跡を巡ろうチャレンジ、
2つめがこちら。

与湾大親の墓碑。

 

 

…墓なのか?

…墓跡なのか?

 

「ケンムン村」っていう
琉球村みたいな観光パークの
駐車場の脇にありました。

駐車場で施設外なので、見学は無料。

 

 

ケンムン村がたてている手作りの案内板。
(※ケンムン…沖縄で言うキジムナー的存在)

ここでは「墓碑」じゃなくて
単なる「碑」になってる。


意味合いが全然変わってくるんだけど…
…どっちだ?

 

ちなみに私がここの情報を見かけた

笠利町文化財遺跡イラストマップ、
および
マップを手に入れた宇宿貝塚史跡公園のパネルでは

「与湾大親」

ってしか書かれてませんでした。

 

……うーーーむ……曖昧過ぎる…

 

一応、

先記事にした与湾神社と同じ
用安地区にあるので(すぐ近く)、
ここに墓があっても不思議ではない。

 

そういえば、奄美では沖縄で見るような
自治体がたてている(いわゆる公的に史跡・文化財と認定・認識されていると分かる)
案内板はあまり見かけなかったな…。

 

 

空港からもほど近く、
県道82号線沿いなので、
(背後に見えてるアスファルト道がそれ)
気軽に立ち寄れるポイントです。


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奄美の与湾大親神社

2019年04月16日 | ・琉球史散策/第二尚氏

去年、奄美大島に行った時、
やはり巡りたいと思ったのは
「西郷どん」スポット…ではなく、

「あの人」にまつわる場所。

 

奄美が「琉球」だった時の、尚清王の時代。
島のライバル(我利爺)の讒言によって
首里王府軍によって攻められ自害した、

与湾大親。

奄美版護佐丸とも言える人ですね。

 

彼の息子、糠中城は
『琉球歴女の琉球戦国キャラクター図鑑』でもキャラ化し、
何度かこのブログでも取り上げています→  

糠中城は首里に連行され、
許された後も奄美に帰ることはなかったようなので
奄美に史跡が残っているなら
糠中城というよりは、与湾大親だろう!と。

 

しかし。

 

旅行の前に色々ググってみても
与湾大親の人物紹介はヒットするものの、
彼にまつわる関連史跡の情報は一向に見つけきれず…

 

何もないのか??

それともマイナーすぎるのか????

 

ともかく現地調達するしかない!
と情報ゼロのまま飛んだ奄美大島✈

 

 

でも奄美大島は
幕末(西郷さん)と自然推し!!
という印象で
琉球時代の、しかも人物に関する史跡情報は難航


実は、いくつもの山、トンネルを越え、
湯湾地区へも遠出した…
でも湯湾と与湾はやっぱり別だった!

 

諦めかけましたが、
奄美滞在最終日の前日に
偶然、笠利町文化財遺跡イラストマップを見かけ、
その中に「与湾大親」の文字を発見。

それを頼りに調べていき、
無事、最終日の朝に3スポットを巡ることができました!

 

そのうちのひとつ。

 

 

与湾大親が治めていたという用安地区にある、
その名もずばり、

 

与湾大親神社

 

 

小雨の降る中、参道の階段を登っていきます。

 

 

登りきると、
新しい社と、戦前の手水鉢が。

与湾神社は1939年に建立された
与湾大親を祀った神社。

手水鉢はその時のもののようです。

社や鳥居は2018年4月に再建されたばかりらしい。

 

与湾大親神社を再建(奄美新聞)

 

(今、普通に「与湾大親」でググったらこちらの情報ヒットします。
でもワタシの旅行前は何も出なかったのよー??謎…)


 

高台にあるので見晴らしは抜群。

雨で景色がかすんでいたのが残念。

 

 

帰路。

鳥居を後ろから。

晴れた日は、
赤い鳥居と、緑と、向こうに見える海と空の青と、
3色のコントラストが美しいのでしょうね。


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続・王様の行列

2018年12月10日 | ・琉球史散策/第二尚氏

前回、古琉球期の王様の行列のについて書きましたが、

同じ朝鮮王朝実録に記録された
王様の行列の超有名なエピソードは
別にあります。

 

通称、

オギヤカの行列。

 

オギヤカの行列の様子については
これまで断片的には取り上げてるとは思いますが
しっかりブログに書いてないっぽいので、
せっかくなのでしっかり拾ってみましょう。

 

供述しているのは1477年に済州島から漂流し、
1479年に帰国した朝鮮人。

帰国までに転々とした先島諸島や
琉球国、九州など各地の様子について語っている
当時の記録。

その彼らが1478年沖縄島にいた時、

あの行列を目撃したのです。

 

 

(意訳:和々)

 

 

俺らは、たまたま、国王の母の出御を見た。

国王の母は漆の輿乗り、四面は御簾が垂れていた。

輿を担ぐ者は20人近くいた。

皆、白苧衣を着て、帛(絹?)で頭を包んでいる。

軍士は長剣を持ち、弓矢を佩いて、前後を警護しており、
100人近くいる。

双角や双太平簫(※楽器)を吹き、
火砲(※祝砲的なやつ?
を放っている。

美しい婦人たちが4・5人、
あやぎぬの衣を着て、表(上)には白苧衣の長い衣を着ている。


俺らは、道端に出て拝謁した。

すると輿が止まり、
二つの鑞瓶が運ばれ、漆の木の器で
酒を賜った。

その味はわが国(朝鮮)と同じだった。

 

若君がいた。

(輿より)やや後ろにいて別隊だった。

年齢は10歳余りだろうか。

はなはだ美しい。

髪は後ろにたらし、編んではいない。

紅のあやぎぬの衣を着て、帯をし、
肥えた馬に乗っている。

轡をとる者、皆、白苧衣を着ている。

騎馬で先導するものが4・5人いる。

左右を護衛するものも、はなはだ多い。

衛士の長剣を持つ者は20人余り。
傘を持つ者は馬に並んで行き、陽をさえぎっている。


俺らは、(若君にも)また伏して謁見した。

すると若君は馬から降りると
鑞瓶を持ってきて酒を盛り、これをくれた。

俺らがそれを飲み干すと、
若君は馬に乗って去っていった。


国の人が言っていた。

『国王が亡くなって、若君はまだ年若い。
なので母君様が朝廷にいる。
若君が成長すれば、すぐ国王になる』


『朝鮮王朝実録 琉球史料集成』(榕樹書林/2005)



この行列は、
尚真が即位(1477年)してじきのことから、
お披露目パレードのような、
もしくは権威を知らしめるためのものとも
考えられています。


だけど、当の尚真王よりも、
母・オギヤカの方が派手で、輿に乗り、前方にいることから
幼い尚真王を差し置いて権力を誇示する
オギヤカの女帝っぷりが感じられるエピソードとして
この行列の記述はよく引用されています。

 

一方で尚真はというと、
母が朝鮮人に酒を賜ったのをそっくり真似て
同じようにやっているのがちょっとかわいい。

馬から降りて、飲むのを最後まで見届けている
というのも、なんだか無邪気な少年らしさが感じられて
面白いですよね。

しかも美少年ときたもんだ。

さすが、モテ男金丸と、
そんな金丸を射止めるほど美人だったであろう
オギヤカの血を引く人だ!

 

もう一つ特筆すべきは、
尚真の髪型。

髪は後ろにたらして編んで(束ねて)はいない。

カタカシラでもなく、
総角でもなく
かんぷーでもない。

ちょっと意外な感じもしますよね。

 

この記述から、キラキラ尚真(少年期)は
さらさらストレート垂れ髪にしてます。

(制作途中↓)

 

本当は髪は(結べるくらい)後ろも前ももっと長くて
サイドも結んではないんだろうけど、

ここは幼さとかわいさを出すための
アレンジとして。

 

採用版では短くおかっぱになりましたけど、
没ラフでは記述通りもっと髪は長かったのです↓

でも金丸も長髪ストレートだったので
被りすぎるかなーと思い、
バリエーションを出すためにも
サイドだけ長くして、後ろは短くした…

という制作裏話。

 

子猿ちゃんの印が怖いですね(笑)

 

 

 

ところでこの漂流民の記述。

 

自分たちを示すのに

 

俺ら(俺等)

 

って書いてあるのがツボ(笑)

 

私が勝手に一人称「俺」にしてるんじゃなくて

本当に「俺等」って書いてあるんです(笑)

 

俺等、適々国王の母の出遊するを見る。

俺等、道傍に出で拝謁す。

 

云々。

 

 

俺等、イカしてるぜ!


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