がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

当サイトの掲載写真・イラスト等の無断転載/無断使用を禁じます

テンペスト行脚~ニンブチャー~

2011年09月29日 | ・『テンペスト』行脚

■ニンブチャー■

 

「妾がニンブチャー。葬式女だと?」

ニンブチャーは庶民の壮烈の後ろを歩く念仏屋だ。

常に白い喪服を着、白い頭巾で顔を覆わなければならない。

ニンブチャーの唱える経は頓狂で無教養なものと相場が決まっている。

貧しく無学な庶民がせめて形だけでもお経らしくしようと
ニンブチャーを雇うのだ。

「おい。ニンブチャー。西原で病人が死んだそうだ。
葬儀に行け」

貧しい農民の葬儀は悲惨だ。

泣く余裕もないほど皆が生活に疲れ果てている。

まるで動物の死骸を処理するかのような、
淡々と乾いた葬儀だった。

「これが人の死と呼べるのか?
愚かな奴らじゃ。
こんな葬儀で霊が弔えると思うのか?」

形だけの粗末な葬列が物悲しく連なっていく。

遺体が、使いまわされて痛んだガンに納められ集合墓地に葬られる。

真牛は葬列の最後尾で半鐘を鳴らしながら念仏を唱えた。

他のニンブチャーには決してできない見事な念仏だった。

真牛は頭巾の衣越しに空を見ながら、
ミセゼル(祝詞)を謡っていた。

真牛の謡ったミセゼルは死者の生涯を讃えるものだった。

「この者は農民として生まれ、よく働き、子を育て、
よい織物を納め、王府から感謝された。
どうかあの世では豊かな生活を送れますように。
聞得大君から神にお願い申し上げます」

と。

「テンペスト(下) 326-」 (池上永一著/角川書店)

 

というわけで、写真は県立博物館にあります葬儀文化コーナーより。
(ここは写真撮影OKエリアなのです☆)

真牛が鳴らした、半鐘がコチラ↓

ドラマでは尺の関係で実にあっさりしていましたが、
寧温君の策略で身分を剥奪されての聞得大君の後半戦は実に波乱万丈。

上巻では感じられないような聞得大君の、
むちゃくちゃだけど憎めない、魅力的な人間性が見られる場面も多く
下巻の主人公は聞得大君と言ってもいいくらいです。

ワタシもテンペストの女性キャラでは
真鶴よりも聞得大君や真美那さんのほうが好きかも~
(思戸もなかなか…

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会ってみたい歴史上の人物を一人あげよ

2011年09月28日 | ・琉球史散策/第一尚氏

Q 会ってみたい歴史上の人物を一人あげよ

 

好きな人、興味ある人はたくさんいますが、

一人あげよ、と言われたら、

阿麻和利でも賢雄でもなく、尚巴志でもなく、

 

ワタシは絶対、百十踏揚です。

 

 

ナゼナラバ。

 

 

彼女は時代を網羅してるから(笑)

 

 

彼女に聞けば、だいたいの人物についての話は聞けるはず。

尚巴志(父方爺ちゃん)から護佐丸(母方爺ちゃん)から、尚泰久(父ちゃん)から、
阿麻和利(夫)から鬼大城賢雄(後夫)から、尚徳(弟)、金丸(家臣)まで。

はては真五郎とか懐機まで!?

直接彼女が関わっていないにしても
親族関係だったりとかで、父親や家臣から何かしら伝え聞いているであろうし。

百十踏揚に会えれば、
三山時代から第一尚氏の大抵の人物や事件、諸事情に関しては聞ける気がする(笑)

(…あっ、でも百十踏揚が「悪女説」のような人だったらどうしよう(笑))

 

なので、百十踏揚を軸にした大河ドラマができれば、いいな。

…と、ずっとぼやいています。

 

 

というわけで、

「テンペスト」で琉球史に興味を持った皆さん。

他に、琉球史をモチーフにした小説をお探しでしたら、

「百十踏揚」(与並岳生著/新星出版)

をオススメします!
(表紙が、ちょっととっつきにくい感じなのが残念ですが…。)

テンペストはエンターテーメント歴史小説でしたが、
こちらは結構正統派歴史小説風です。
(もちろんフィクション部分もありますが。それがまた面白いのです(笑))
うんちくも多いのですが、でもうんちくは飛ばし飛ばしでも
人物描写やストーリー展開が実にドラマチックで夢中になれる小説ですよ!!

当ブログにも 

『百十踏揚』を読ム 

というカテゴリもありますので、
是非参考にして見てください~♪

 

ちなみに、「百十踏揚(ももとふみあがり)」とは、
本当は神名であって彼女の個人名ではありません。

だから本当は「百十踏揚」っていう女性がたくさんいたはずなんですね。

…が、今では阿麻和利の妻である“百十踏揚”が有名すぎて、
彼女個人の固有名詞みたいな扱いになっているのです。

 

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写真は聞得大君の神扇。
BY琉染の展示資料

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百十踏揚行脚~屋良グスク【裏】~

2011年09月27日 | ・『百十踏揚』を読ム

昨日の記事の続き。

屋良グスクの裏。

(ちなみに公園の遊具と案内板があるところを【表)としています)

裏に回ると、風景はガラリとその趣を変えて、
まるで森の中の散歩道のような空間になります。

隣には、比謝川。
(トップ写真)

ではここで、もうヒトツの百十踏揚行脚。

 

■屋良グスク【裏】■

 

屋良グスクは、比謝大川の南のほとりにあって、

当時は屋良大川城と呼ばれていた。

川に面した北側は険しい断崖になっていた。

阿麻和利が小さいときに捨てられた漏池(ムルチ)は、

この屋良城の崖を越えた、比謝大川の中流あたりである。

屋良按司は、大読谷山按司となった又従兄弟の護佐丸を歓迎し、
護佐丸はその夜、屋良城に泊まった。

 

「百十踏揚 262-」(与並岳生著/新星出版)

はい、その屋良按司のお墓がコチラ!

ちなみに屋良グスクに屋良按司のお墓は2つあって、
この写真は「先」大川(屋良)按司の墓。

「後」大川按司(とその一族)の墓は最近リニューアルされたのか、
とてもぴかぴかの真っ白なお墓でした。

さあ、その屋良按司ですが。

実は、屋良按司は阿麻和利の父ちゃん
だという伝承があったりもします。
(この説、結構有名ですがブログで書くのは初めてですね)

阿麻和利は屋良村生まれの孤児となっていますが、
実は父親は屋良按司だった、と。

でも生まれつき体が弱かった故に棄てられたが
後に勝連按司として大出世するわけですから、
やっぱり按司の血が流れていたんだ…というような。

また、別にはしっかりと屋良で育って勝連へ移り住んだ、という説も。

確か阿麻和利を祀った家が嘉手納にあったと思いますが、
それは『沖縄戦国時代の謎(比嘉朝進著)』によると、

屋良按司の奥さん(または側室)として阿麻和利を生んだとされる
林堂家関係者(門中)ということになるらしいです。

 

個人的には普通に阿麻和利は百姓の子で棄てられて…、
という説を取りたいですケドね。

(「百十踏揚」の説が1番ドラマ性はあるとは思うけど☆全くありえない話じゃないから面白い

 

阿麻和利の子の有無とかも色々説もあって、
一応、「阿麻和利には子なし」が通説だと思いますが…

でも「阿麻和利の子孫」を名乗る人は、
実は見たこと、聞いたこともあったりするので…

やっぱり色々と謎の多い阿麻和利なのです。

この時代、謎が多いから、面白いんだよな~。

そんな伝承や歴史を知ると、また一段と楽しめる屋良グスクなのでした。

ひと気は少ない(っていうかほぼない?)ですが、

歩道は↑の通り石畳で整備されているので
晴れた日なんかは屋良グスク【裏】を散策してみるのもいいかもしれませんよ♪

(ぐる~っと周ると結構な広さです。ウォーキングコース並?)

隣を流れる比謝川のせせらぎも実に爽やかです。

ちなみに屋良漏池についての過去記事はコチラからどうぞ。
「百十踏揚行脚~屋良ムルチ~」

同じ比謝川でもガラリと雰囲気違いますよ。

こっちの比謝川(河口)もね☆

アンダーのWB蛍光灯で撮影。

 

トップ写真と似てるけど、もう1枚掲載。

ちなみにトップ写真と同じアングルの、
ハイキーバージョンはコチラ

 

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秋模様

2011年09月27日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

年に一度、

体力と声の、限界中の限界に挑戦する日が、

今年もやってきました。

 

さあ、今年も頑張るか。

空がもう、すっかり秋。

きれいな夕暮れの端っこを時々みかけますが、

障害物が多くて広い空が撮れない…。

 

去年までは夕日見にぷらっと西海岸とか座喜味グスクに行ったりしたんだけどな。

そういう穴場スポット早く見つけたいな~。

 

 

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百十踏揚行脚~屋良グスク【表】~

2011年09月26日 | ・『百十踏揚』を読ム

王朝末期(幕末)のテンペストな話題が続いたところで、

古琉球関連記事にリターン!

嘉手納町にあります、屋良(やら)グスクです!

こちらも喜屋武グスク同様、
昨年度までめちゃくちゃ生活圏内にありながらも散策できずにいたグスク。

喜屋武グスクとセットで、
やっと散策できました♪



この日は読谷村立図書館

尚巴志の墓

阿麻和利の墓

屋良グスク

鬼大城の墓

喜屋武グスク

肝高の阿麻和利
そして合間にショッピングと、スゴイ盛りだくさんの1日だったのです



屋良グスクは今では公園として整備されていますが、

まぁ、こちらも例に漏れず常に人が戯れているような公園ではなかったですね…。

でも立地的には住宅街の中で近くに団地とか高校とかがあるので
まだマシなほうではあるんですけど。

せっかくキレイに整備されているので
もうちょっとマメに清掃とか草刈とかできればいいんだろうけどな…。

屋良グスクについての案内板。

屋良グスクについてはこちらを見てください。
(手抜き)

さて、屋良グスクといえば、古琉球ですよ!
護佐丸ですよ!阿麻和利ですよ!

 

ということで、

久々の「百十踏揚」行脚記事です!

 

■屋良グスク【表】■

座喜味城時代、護佐丸はよく愛馬を駆って、領内を巡察したが、
ある時、山田時代からの旧臣、瀬名派大親を伴って、
比謝大川を越えて、屋良城へ行った。

屋良按司は、護佐丸には又従兄弟であった。

護佐丸の父の読谷山(山田)按司は、伊波按司の二男である。

先代の読谷山按司に嗣子がなかったために、
親族である伊波按司の子が養嗣子に入ったものだ。

一方、伊波按司の五男――すなわち護佐丸の父の弟は安慶名按司となり、
その二男が屋良按司であった。

 

「百十踏揚 262-」(与並岳生著/新星出版)

…人物関係、意味分かります?

図で見ると分かりやすいんだけど…。

伊波按司の二男(A)が読谷山按司の養子に入って、この人が護佐丸の父ちゃんになります。
同じ伊波按司の五男(B)、つまり護佐丸父ちゃんの弟が安慶名按司になります。

その安慶名按司の息子に、屋良按司と、そして喜屋武按司(C)がいます。

その喜屋武按司(C)の息子が栄野比大屋子で鬼大城の父ちゃんなんです。

 

伊波按司から、読谷山按司、安慶名按司、屋良按司、喜屋武按司と繋がっているというわけですね。

ちなみに、このもともとの伊波按司を、更に遡ると、
攀安知の爺ちゃん(怕尼芝(はにし))に追放された今帰仁按司(今帰仁世の主)。

……と繋がるわけです。

 

とりあえずこの系図に関しては過去記事コチラも参考までにどうぞ。

山田グスク・護佐丸父祖の墓

伊波城跡と伊波按司

安慶名グスク【2】

喜屋武グスクと鬼大城

…その、屋良グスクなんです!

構造や発掘品ではなく、
人間ドラマとしての屋良グスク、分かったかな?(笑)

(ワタシにとってはこういうのが重要(笑)。歴女的グスク巡りの楽しみ方☆)

でも屋良グスク…御嶽はあったけれど…

城壁とか遺構とかはないにしても
(屋良グスクは名護グスク同様、土のグスクとか?)
もうちょっと隠れスポット的な、いかにもグスクらしい絵になるような場所とかないかな?


…きっとあるはず!

 

グスク散策のコツはこれ!

 

道は もう一つ 裏へ。

もう一つ 奥へ。

(おや?どこかで聞いたフレーズ?(笑))

 

 

ほら、

 

ほぅら……

 

なんかありそうでしょう?

 

ってことで、発見!

 

 

百十踏揚行脚~屋良グスク【裏】~ へ続く!!

次記事では屋良按司にまつわる、アノ伝承も紹介しますよ!

 

元ネタ↓

 

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昨日の琉球史バトンのQ7で書いた早田さん。
タイムリーにも今日の沖縄タイムスの「古琉球と海域アジア」で
早田さんのことが書かれてます(笑)
check it out now!


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琉球史バトン

2011年09月25日 | ・琉球史散策/第一尚氏

  検索してたらたまたまFC2ブログの公式ブログで
歴史バトンの記事を見つけました。

ちょっと面白そうだったので、
“日本史”を“琉球史”にアレンジして回答してみます。

写真はALL斎場御嶽
(せーふぁうたき、世界遺産)

今年1月撮影。

Q1 日本史と世界史琉球史、どっちが好き?

琉球史。

でも幕末も好き。
(その他の日本史と、世界史は相変わらずさっぱり…)

 

Q2 琉球の語呂合わせ。覚えてますか?

イヨニク

…って、これ語呂合わせじゃないか~

イヨニクで十分!(笑)

Q3 好きな武将は?

阿麻和利

鬼大城賢雄

攀安知

…いかん、賢雄が阿麻和利越えそうです(笑)

 

Q4 歴史的に気になる国は?

琉球王国デショ?

 

Q5 日本琉球の名城と言えば・・・?

勝連グスク。
入場無料なところもいい。

もちろん首里城も好き。
それから今帰仁グスクも好き。
(特に主郭から見る志慶間城郭)

マイナーなところで言えば安慶名グスク
スゴイかっこいいです。

浦添グスクと越来グスクの復元図が見てみたい。

Q6 どの時代が一番好き?

古琉球!

特に三山時代と第一尚氏王統後期。
(…って、そこだけって言うくらい知識の偏りがあるワタシ

ちなみに今、南山のアレコレが気になってる。。。
南山からもヒーローを!

 

Q7 琉球史上の人物で誰が一番好き?

Q3と一緒。

武将以外も加えると…

やっぱり百十踏揚。


好きというか興味あって調べたい人は
アカインコと本部平原と懐機。

あっ、それから御茶当真五郎!

マイナーなところで言うと、
イソバさん、早田さん、チンベー。
(※サンアイ・イソバ、早田六郎次郎、君南風)

Q8 歴史の授業は好きだった?嫌いだった?

中学の時の社会の先生がすごく話上手で授業は好きだった。
その先生からは地理と歴史を習って楽しかったのを覚えてる

でも今となっては内容あんまり(ほぼ全く)覚えてないな~


 

Q9 日本史上琉球史上最大の歴史的出来事はなんですか?

三山統一・1429年。

金丸革命・1469年

薩摩侵攻・1609年

琉球処分・1879年

 …ありきたりだな。

北山陥落・1416年にしようかな。
朝貢開始・1372年とか。
懐機引退(1453年?)も大きかったはず。

あえて全部四字熟語でまとめてみたよ(笑)

でもやっぱり、護佐丸・阿麻和利の乱・1458年か~?

 

 

Q10 あなたのこれまでの人生の歴史的瞬間は?

…なんだろ?

2008年8月に肝高の阿麻和利を初めて見たことかな?

これあってこその、今のワタシ

 

…あれ、いざ回答してみたらあんまり面白い答え書けてないな…。

いつも言ってることしか書いてないし、
すごい偏ってるし(笑)

もっとマニアックな質問項目じゃないとアレかな?

また見つけたらやってみよう。

 

ブログのネタにやってみたい方、是非どうぞ~。

Q1 日本史と世界史琉球史、どっちが好き?

Q2 琉球史の語呂合わせ。覚えてますか?

Q3 好きな武将は?

Q4 歴史的に気になる国は?

Q5 日本琉球の名城と言えば・・・?

Q7 琉球史上の人物で誰が一番好き?

Q6 どの時代が一番好き?

Q8 歴史の授業は好きだった?嫌いだった?

Q9 日本史上琉球史上最大の歴史的出来事はなんですか?

Q10 あなたのこれまでの人生の歴史的瞬間は?
 

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暗シン御門と女子トイレ

2011年09月25日 | ・『テンペスト』徒然

テンペストで、真鶴と寧温、2つの性が入れ替わる秘密の通路、

暗シン御門の話。
(過去記事、テンペスト行脚~暗シン御門~もご一緒にどうぞ♪)

暗シン御門は単なるまっすぐな通路ではなく、
「クランク状」になっているというのが最大の特徴。

クランク状っていうのは、
↑の図のように、曲がった形状のこと。
(ちなみに図の縦横比はテキトーです(´・ω・`))

なんでここだけがこんな形状になっているのか、
謎ということなのですが…。

これって、もしかして、

 

トイレの発想と一緒では?

 

ほら、デパートとか大きな公共施設にあるトイレ。

特に女子トイレ。

表からトイレに行くまでの通路って、結構クランク状だったりしません?
(うちのショクバの女子トイレもコレ)

つまりは、表からの目隠し。

まっすぐな通路だったら向こうが見えてしまうから、
クランク状にして向こう側が見えないようにする。

暗シン御門も、
表から裏が見えないように、
裏から表が見えないように、

そうするためのクランク状だったのかも。

じゃあなんでこんなところに通路作ったのかって話ですが。

できた当時は必要だったんでしょうねぇ。

風水とか?

人は通さないにしても空気(気)は通す必要があったとか。

で、時代がたつにつれ表と裏を隔てるしきたりも強くなってきて、
使われなくなって、構造だけは残った…とか。

どうだろう。

こちら、淑順門にあるパネルです。

暗シン門、こんなに堂々とあるんですよね。

ドラマでは御庭とを壁で隔てていましたが、
あれはドラマならではのアレンジですね~。

 

ちなみに、この絵、正殿や奉神門が朱ではなく、
黒いことにお気づきですか?

黒い首里城、こちらも色々と見解があるようですが、

こんな時に、

黒 い 首 里 城 が 現 れ る ん で す 。

過去記事→ 黒い首里城【1】 【2】 

 

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琉球の龍は本当に4本指か

2011年09月24日 | ・琉球史散策/第二尚氏

テンペストでも首里城を象徴するモチーフとして登場していた琉球の龍。

首里城にはたくさんの龍の造形を見ることができますが、
その指の秘密については以前も記事にした通り

中国皇帝を象徴する中国(側)の龍は5本指。
琉球はそれを考慮して、一本引いての4本指。

 

 

………でも、 ホ ン ト に ?

 

この間、琉球の衣装や装飾品のデザインについて
じっくり調べる(観察する?)機会があったのですが、

…あれっ、琉球の衣装、装飾品なのに、
5本指の龍、結構あるよ?

たとえば、この王冠。

簪部分に龍のレリーフがあるのですが
(写真では分からないですね~)

その龍が5本指なのです。

 

それから、現在首里城で催される様々な再現儀式で
王様が召しているこの衣装の龍も5本指。

これは写真でも確認できるかな?↓

ちなみに代々の琉球王の肖像を描いた御後絵でも、
13代尚敬王からあとの王様の衣装の龍も5本指であることが確認できます。

衣装に関しては、中国側からもらった反物で衣装に仕立てることもあっただろうということで、
made by chinaといことで5本指の龍。

うん、まぁ、それは分かる。

でも中国側は別に指の数とか気にしてなかったのかなぁ~
琉球側は中国への献上品を作るときは5本指の龍で作ったりしてますが、
中国側は琉球へあげる反物だからと4本指で作ることはなかったということ?

 

更に面白いのは王冠。

今に残る王冠は中国からもらったものではなく、
琉球側で作ったもの。

本来なら宝珠は7列でなければならなかったものを、
中国が明から清へ変わったどさくさにまぎれて勝手に12列で自作しちゃった、

というのはテンペスト行脚~王冠~をどうぞ。

それは知ってたんですが、
その簪の龍までもが5本指で作っちゃった、となると……。

 

…これってヤバくない?

 

中国皇帝とか冊封使とかにバレなかったのかなぁ。
それとも清王朝は龍とかあんまり執着なかったのかな。

 

とことんしたたかな琉球が見えてくる気がします

 

(…はっ、今改めて御後絵を確認したら、11代の尚貞の龍は4本指!
尚貞王の時代は既に清国ですが、なるほど、清国になってすぐにではなく、
ある程度ほとぼりが冷めてから5本指で自作したんですね(笑)

ちなみにそれより以前の御後絵の衣装は無地なので龍は確認できません)

 

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トップ写真は前々代の王様。
先日の中秋の宴でまた新しい王様決まったはず…。

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ウガン(御願)

2011年09月23日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

お米と、マース(塩)と、シマー(島酒)。

 

御願(ウガン)三点セット。

 

上司のミセゼル(笑)も相まって、
威力抜群の今日でした

 

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日焼けしたぁ~(>_<;) 

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テンペスト行脚~首里城/白銀門(寝廟殿)~

2011年09月22日 | ・『テンペスト』行脚

珍しく、連続でテンペスト行脚記事です。

今回は首里城、御内原の奥にある白銀門。

テンペストでは白銀門っていう単語は、
確かなかったと思いますが…

白銀門の奥(中)にある寝廟殿が登場するので
こちらに絡めてのご紹介です。

 

■首里城/白銀門(寝廟殿)■

「首里天加那志が薨去されたですって?」

1847年9月18日、
尚育王が密かに世を去った。

享年34歳。

あまりにも若すぎる逝去だった。

*

王の遺骸は防腐処理され、
王家の墓、玉陵に葬られるまでは保存される。

葬儀の準備にかかる約2週間、
王の遺骸は御内原の東のアザナにある
寝廟殿に安置されることになっていた。

 

「テンペスト(上) 366-」より (池上永一著/角川書店)

尚育王の突然死、
消化器系の病気によるもの、という説もあるようですよ。
(くわしくはコチラから)

 

写真は去年の4月末に、
淑順門が新しくオープンしたときに撮ったものです。
(淑順門 【1】 【2】
(写真3枚目、右手の赤い建物が正殿です)

このあと、工事のためにできた柵などに阻まれて、
これほどはっきりとは見えなくなってしまったのですが…。

今はどうかな~?

 

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テンペスト行脚~首里城/空中回廊~

2011年09月20日 | ・『テンペスト』行脚

ドラマ、テンペストは終わりましたが、

ドラマで初めてテンペストを知った人が、
原作も読んでみようかな♪と思ってくれるといいな

というわけで、

テンペストの世界を実際の現場写真と引用で紹介する
テンペスト行脚シリーズ、まだまだ続きます。

首里城へはもう半年も行っていないのですが、
それまでに撮り溜めておいたテンペスト行脚用の首里城(とその付近)の写真とネタは
まだまだたくさんあるんです。
(ただしトピック、すごいマニアックですけど(笑))

いつの間にか55記事以上!の「テンペスト行脚」記事は
←サイドバーのカテゴリをクリックして下さいね♪

 

■首里城/空中回廊■


翌日、正殿の2階から黄金御殿と呼ばれる
王の居住へと通じる空中回廊の前に、寧温は立っていた。

この空中回廊には鈴がつけられている。

この鈴を鳴らすと女官が現れて伝言を申し付けることができる。

寧温を案内するかのように
一匹のオオゴマダラがゆらゆらと飛んでいく。


「テンペスト(上) 118-」より (池上永一著/角川書店)

 

残念ながら御内原エリアはまだ整備中なので、
この空中回廊も今はまだ通じていません。

女官呼び出しの鈴がつけられていていたであろう、空中回廊の入り口が、
正殿二階にあがってすぐ右手のこの空間です。

写真では仕切られた扉の隙間から漏れる光がなかなかいい味わい出てますが、
その先は寧温君にとってはまさに未知の世界。

そして恐ろしい(!?)女の裏の世界への入り口だったわけです(笑)

 

 

ちなみに、現在、そのわずかな隙間から覗くと、
御内原の施設、二階御殿が見えます。

そして黄金御殿があったであろう場所にブルーシートです。

(※下の2枚の写真は去年7月撮影です。今はどうなってるかな。御内原エリア…)

 

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肝高の阿麻和利に見る伝統芸能3/平敷屋エイサー

2011年09月19日 | ・琉球歴史/文化風景

 

肝高の阿麻和利に使われている伝統芸能ご紹介シリーズ

第3弾はこちら!

「平敷屋エイサー」

 

劇中では2幕、阿麻和利と百十踏揚のラブラブっぷりが発揮されるシーンで
この平敷屋エイサーが踊られます。

エイサーじたいは説明はいらないほど
全国でも知名度抜群の沖縄の伝統芸のだと思います。

…ちなみに、エイサーのイントネーションまっすぐですよ。
誰ですか?最初にアクセント置いてしゃべるアナウンサーは( ̄△ ̄;)

基本、語尾が伸びる沖縄の方言固有名詞はイントネーションまっすぐと心得てください。
シーサー、ゴーヤー、やーるー、シンカヌチャー、アンマー、パーランクー、
チョンダラー、サーターアンダギー、シマー、カメー、ジューシー、コーラー(笑)

うわ、過去記事をイントネーションで検索したらコレだけ出てきた(笑)
しつこいほどの散々言ってきているのが分かりますね(笑)
ないちゃーの方、↑の方言の意味、全部分かるかな?
分からない人はコメント入れてください(笑)
あっ、ないちゃー(内地の人)も語尾のばしだ。


しかし一言でエイサーと言ってもそのバリエーションは地域によって様々で、
その中でもひときわ特徴的なのがこの勝連地域のエイサーであり、
平敷屋エイサーなのです

まずは太鼓。

エイサーと聞いて思い浮かべるのは赤い大きな大太鼓だと思います。

続いて中くらいの締め太鼓。

そして小さいのがパーランクーと呼ばれる太鼓です。

(写真は過去記事より再掲載☆ →全国エイサー大会 →1万人のエイサー踊り隊’10

平敷屋エイサーはこのパーランクーのみが使われていて、
またバチも木の枝というとても素朴な作りになっています。

また動きも飛んだり跳ねたり振り回したりという派手さは一切なく、
ゆったりとした動きでじわりじわりとその魅力へといざないます。

分かりやすい派手さはないけれど、侮るなかれ。

腰を落として一糸乱れずに延々とじわりじわりと踊る
あの体力。あの魅力。

一度、平敷屋のエイサー大会(東VS西)を見に行ったことがありますが、
みんなすごい汗ですよ。

何事においても、
シンプルなものほど、1番難しい。

個人的にはその足の動きが見所かなと思っています。


↑これは与那城青年会ですが、同じ勝連エリア。

あと、肝高の阿麻和利には出てこないけど
平敷屋エイサーのチョンダラー。

やたらと髪が長くてかわいいです。

本場の平敷屋エイサーを見る機会があれば是非。

また、平敷屋エイサーは特に昔ながらの伝統を守っていることでも有名です。

地域の青年達は例外なく必ず参加。

もし県外に出ているとかでどうしても参加できない場合は
お金を払うと聞きました。

そうやって多少無理やりっぽくてもしっかりと伝統を守って
地域で受け継いでいくことって大切ですよね。

ちょっと羨ましいです。


平敷屋エイサーについてのもっと詳しい説明は
平敷屋公民館のサイト(!)にあったのでコチラからどうぞ。


勝連のマンホール。平敷屋エイサーは地域の象徴になっています。 


最後に、衣装について☆

衣装も非常に独特で他地域とは一線を画しているわけですが。

元々は「袖結い」にあると聞きました。

着物姿で作業をするときにたすき掛けをすると思いますが、
琉球では実は「たすき」ではなく、「袖結い」でした。

袖結いとは、袖を後で縛る非常に単純な方法。

こんな感じ。

(モデル/海人・加那♪)

琉球、特に古琉球の着物はとてもゆったりとしていたらしいので
このように後で結ぶこともできたんでしょうね。
(だからバルーンスカートもできる(笑))

たすきという道具も要らないし、
こっちのほうがより簡単で単純ですね。

(ちなみに直接袖を結ぶ以外にも直接紐を背中に通して結ぶ方法もあります。
ドラマテンペストでの門番達はこの格好をしていました)


平敷屋エイサーの独特な衣装は、
この袖結いの名残とも言われているらしいです。

衣装からも伝統をより感じることができる平敷屋エイサーです

 

実際に劇中で踊られている曲目に関しては…調べ中です

 

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テンペスト最終回 and more…!?

2011年09月18日 | ・『テンペスト』徒然

ドラマ・テンペスト全10話、
今日無事に完結しましたね

たった10話であの壮大なドラマがおさまるものかと心配していましたが、
なんとかかんとか、
スーパージェットコースター並ではありましたが
ウマく収まりましたね(笑)

毎回毎回、

はぁ~、なるほど、こうもってきたかぁ~

と感心しておりました。

(↑あれ?なんか上から目線?(笑))

 

寧温と真鶴の二面性と、琉球の二面性を重ね合わせた徐丁垓のセリフ、
阿片事件での女官大勢頭部の去り際、
八重山での女官大勢頭部との再会や、
ペリーとの対決でこれから琉球の在り方を述べるシーン
先に真鶴が首里天加那志に正体を明かす所なんかが
原作とは違ったアレンジになってて印象に残っています。

(ペリー対決での寧温君の論は、原作では科試受験前に麻先生に対して述べた持論として出てきます☆
この論に打たれた麻先生は寧温君の科試受験を許可します

 

 

 

で、必ず1話に1回は激しいツッコミが入るのもまたドラマならではか(笑)

 

ツッコミランキング

1番のツッコミは問答無用で
「蜘蛛の糸」(5話)

2位が
「ぬわんじゃこりゃ~!」(7話)

3位は、
津波古が買ってきた簪(笑)(9話)
↑マジで本気で「ちゃっちぃ~!!(`Д´) 」って叫んだ。
勾玉といいコレといい、なんであんなに質感がおもちゃなの?

 

で、今日のツッコミは尚泰王の「命どぅ宝」でした(笑)

いや、セリフじゃなくて、言い方。

…軽…っ(´Д`;)

みたいな。

…いや…、まぁ、若いし、沖縄人でもないんだから難しいよね…。
(沖縄人にとってこれほど重い一言はないのだよ)

でも今は見ることができない御内原や、
衣装、小道具(火矢とか(笑))、キレイな琉球の風景が
映像として見ることができてとても楽しかったです

よりイメージが広がった感じ

ドラマをみて、また首里城に行ったら
またより楽しめるんだろうな

(あー、テンペストガイド卒業以来、首里城1回も行けてないなぁ…

 

また各キャラの年齢設定、
原作よりドラマのほうがリアルでしたね。

明、今日のドラマでは二十歳だったけど、
ワタシのテンペスト年表でも二十歳なの。
(ちなみに真鶴は50代半ば)

でも原作ではもっと幼いっぽい(笑)

「うわぁ、これが王宮?すっごいなぁ」
「テンペスト(下) P418-」

…これは二十歳の男子のセリフじゃないもんね(笑)
小学生くらい?(笑)

 

 ちなみに成長した孫明が朝倉に似てると思ったのは私だけ?

同じ系統の顔っぽくない?

…きゃー!真鶴ったらもしかして…!!

…なんてね(笑)

(今日は尚泰に何かと同情

 

 

ということで、結論は一つ。

ドラマでテンペストを楽しんだ皆様。

今度は是非「原作」へ!

寧温や真鶴が奮闘したドラマの数々が、
もっと深く深く楽しめますよ~!

 

そして怒涛のテンペストムーブメント、

 

次はなんと、映画化だそうです。

しかも3D

しかも引き続き仲間由紀恵。

 

 


…いかん、

 

コレが最大のツッコミかもしれん。

(いや、舞台化の発表の時よりはマシか?)

ドラマのアフターストーリーとかアナザーストーリーとかなら分かるけど…。

どうなんだろう…(ノ_-;

 

 

 

*おまけ*

今日の最終回で嗣勇兄ちゃんが演じた
組踊「執心鐘入」コチラからどうぞ☆
(嗣勇兄ちゃんが演じたの。若松じゃなくて、鬼女のほうだったか~(笑))

 

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台風15号

2011年09月18日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

すげぇ。

こんなん、初めて見た(゜д゜;

 

丸2日間暴風域ヒット予想だったのに、

いつの間にかヒットなしになってるし…。

 

台風15号、進路予想の変遷。

こうなって、

こうなってから~の、

こう。

もう、わけわかりません

 

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喜屋武グスクと鬼大城

2011年09月18日 | ・琉球史散策/第一尚氏

久々のグスク散策記事

うるま市にあります、喜屋武(きゃん)グスク

去年まで普通に生活圏エリアにあったグスクだったのですが、
近すぎるとかえって後回しになるいういい例です(笑)

9月3日に、響ホールであった肝高の阿麻和利公演に行くついでに
やっと寄る事ができました。


↑左に見えるかまぼこ屋根の建物が響ホール

今は喜屋武マーブ公園として整備されていて、
展望台とか芝生の広場とか遊具とか隣にはテニスコートとかがありました。

「喜屋武グスク(城跡)」という標識や案内板も見つけることができず(ないのか?)
「グスク」らしい面影は全く見当たらない…。

…って、そんなはずはあるまい!!!

グスクらしい御嶽とかお墓とか遺構とか、探してやる!!!

と、ワタシの史跡センサー感度MAX!

キーポイントは

ひと気のない“裏”&“藪の中”

行ける所までは行く!
(あまりマネしないほうがいいかも…

ほら、みーっけ!

…トゥンヌ神?

火ヌ神(ひぬかん)もありました。

シードーガー。

…カー(湧き水/井戸)?

帰ってみらべて見たら石組みとかあったっぽいですねぇ。

この藪の中にあったのかな。

さすがにこの藪の中には入らなかったので
気付かなかったです(…チッ) 

でも1番探したかったのはこういうのじゃなくて…

喜屋武グスクといえば、

アレがなきゃ…。

草ぼーぼーの階段や整備途中?の小路を

登ったり降りたりとうろうろ…。

怪しい岩場発見!

…あった!!!

喜屋武按司の墓!
(トップ写真も)

やっぱり、他のエリアとは違った雰囲気でスゴイ

(ワタシはうろうろとかなり遠回りの末にたどり着きましたが、
展望台のある広場から左に降りればすぐでした

はい、ここで喜屋武グスク&喜屋武按司講座~!

喜屋武グスクは、鬼大城賢雄ゆかりのグスクなんです

伝承によると賢雄はここで生まれ幼少を過ごしますが、
幼くして父親が他界。

幼い賢雄と弟2人の3人を連れた母親は知花の大城家を頼ります。

故に“大城”らしいです。

賢雄は知花の大城家で成長し、
もしかしたら隣の越来グスク、当時王子として一帯を管轄していた尚泰久のに仕えたのかもしれません。

全く別の驚きの説もありますが(笑))

というわけで、この喜屋武按司の墓は、

もしかしたら賢雄の父ちゃん、または爺ちゃん、曾爺ちゃんのお墓

なのかもしれません。

ウートートー。

 

一帯は階段などかなり広範囲に渡ってしっかり作られているけど
いかんせん、草ぼーぼーすぎて
普通の人が気軽に利用できるお散歩コースにはなっていないのがもったいない

この階段を降りてきて、右手に続く藪の中(写真左)は……

さすがにちょっと入るのやめておこうかな。

そのかわりにこっち!

道はないけど、奥になんかありそう…。

あった…!

なんともなんとも古めかしい石の御嶽。

先に紹介した火の神とは違って、

標識も何もなく、

また、ここまでの道すらもなかった場所にあったこの拝所。

ただの御嶽じゃなさそう…。

こういうのに歴史を感じます。

 

散策させていただきありがとうございました。

お邪魔しましたm(_ _)m

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今日、テンペスト最終回!

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 *おまけ*

何この台風。

本当に

今現在、沖縄本島、普通にいい天気。

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