埋蔵文化センターの常設展示室には
埋文コレクションからその時のイチオシを紹介する
「まいコレ」コーナーが月替わりであります。
先日、
首里城正殿跡出土品展の時に訪れた時に展示されていたのが、
現在のグーグルマップの写真がちょうどこのエリアを発掘している時のものだった。
首里城、守礼門後ろに位置する、
真珠道の起点エリアから出土した、
人の頭蓋骨(!)
まぁ、でも遺跡から昔の人の骨が出土するのは
特別珍しいことではないし…
とお思いでしょうが、
この頭蓋骨は、ちょっと不思議な点がひとつ。
それは、
頭蓋骨以外の体の部分が、
一片も発見されなかったこと。
つまり、
生首状態
で埋まっていた…!!
実際の「モノ」も展示されていましたが、さすがに憚れたので展示写真を。
…これは一体、どういうことなのでしょうか。
気になったので、真珠道跡の発掘調査報告書も見てみました。
調査の結果、
頭蓋骨は17世紀初頭の、
20代前半の男性で沖縄集団に属する
とのこと。
骨の形から、彼は
小顔で面長、
鼻が高く立体的な顔立ちで
健康体であったようです。
なかなかのイケメン!?
とはいえ、
生首状態ということは、穏やかではありません。
打ち首(処刑)か、
それとも首取りか、が考えられます。
刀傷などは見当たらなかったようですが、
残された頸椎との関係から、
前かがみになって後ろから切られる「打ち首」ではなく、
顔を上に反らせた状態で喉から斬られた
「首取り」の可能性が高いとのこと。
首取りと言えば、本土の戦国時代につきものの行為ですが、
17世紀、本土戦国時代の、首取りの作法……
1609年の薩摩侵攻!!
バリバリの戦国世を生き抜いてきた島津軍が、
琉球軍と戦った時の犠牲者なのでしょうか!?
報告書執筆者の土肥直美先生(人骨といえばこの人!)は、
尚寧王の側近で僧侶の喜安入道蕃元が記録した『喜安日記』に
「薩摩軍は(太平橋で)被弾した城間鎖子親雲上盛増の首を取った」
とあることから、
生首の主は彼の可能性もあるでは?
と推測しています。
薩摩の首取りの行為を見た琉球軍は
したたか驚いて戦意喪失し、
首里城に逃げ込みます。
薩摩軍は取った首を持ったまま首里城へと向かい、
首里城の入り口(守礼門・真珠道付近)で
琉球側への脅しと、見せしめにさらし首にした…
そして琉球はついに降参をする…
その後、
その場に埋葬(もしくは打ち捨てられた)とすれば、
この場所に埋まっていたことも確かに合点が行きます。
推論に推論を重ねたほとんど妄想に近い話のようではあるが、
人骨の状況証拠の部分は事実であるので
敢えて可能性として提示しておきたい。
いずれにしても、真珠道の頭骨が琉球史の貴重な証人であることは間違いない。
今後、家譜や新たな資料などにより、
事実関係の検証がなされることを期待したい。
土肥直美
参/
『真珠道後・松崎馬場跡-県営首里城公園整備に伴う発掘調査報告書-』
(沖縄県埋蔵文化センター/2020.3)
月替わりの展示なので、
もう別のものに変わっているかな?
それとも、コロナで長く閉館してたから
6月もそのまま展示されてるかな?
そこはちょっと未確認ですが、
これから埋文に行く人は
展示室入ってすぐの
「まいコレ」コーナーも忘れずにチェックしてみてくださいね。
+
現在の、
守礼門を過ぎたところ。
真珠道の起点。
頭蓋骨の出土場所は
人が写っている後ろあたりです。
ちょうど通路になっていて、常に人通りのあるところ。
色んな人が行きかう地中に、
こんな骨が埋まっていたなんて……。
合掌。