今日も南山にまつわるお話を。
南山が中山や北山に比べて
認知度や人気度が低いのは、
その歴史を見た時に、
1 登場人物の関係性とごたごたが複雑かつ謎
2 南山(佐敷)所属の尚巴志との関連性が謎
だからだと思う。
1に関しては以前、
『考古学から見た琉球史』を元に図解した記事があるので
それを参照してもらうとして。
2の尚巴志の関連性は
やっぱりまだイマイチ腑に落ちない部分もありますよね。
尚巴志は南山所属なのに、
島添大里を滅ぼした時、南山王(島尻大里)が動いている様子がない。
その後、尚巴志は南山王を滅ぼさず、中山に向かっている(※)
南山は尚巴志が動き出して20年以上、ずっと放置されていて
その間、尚巴志に対する南山の動きはない。
南山…どうした!?
尚巴志の三山統一の過程は、
現在の通説では
南山東エリア有力按司の島添大里を討つ→島添大里の地を得る
中山王・武寧を討ち、父・思紹を中山王に即位させる
北山王・攀安知を討つ
南山王・他魯毎を討つ → 三山統一(1429年)
となっています。
正史の『球陽』(1745年)でもこの順。
が、
正史でも球陽よりも古い
『中山世鑑』(1650年)、
『中山世譜』(1701年)では
少し記述が違うんですねー。
『中山世鑑』
南山を討つ
尚巴志南山王になる
中山を討つ
尚巴志中山王になる
北山を討つ(1422年)→三山統一
『中山世譜(蔡鐸本)』
他魯毎を討つ
尚巴志南山を統治する("(南山の)民にあまねく利をほどこした")
中山王・武寧を討ち、思紹を即位させた
北山を討つ(1422年)→三山統一
尚巴志は中山攻略の前に南山を討っている!!
しかも、しっかり「南山の支配者(南山王)」になっている!!!
先日、この三山統一の過程について雑談してたら、
同僚の一人が
「先に南山を討つという順が普通に考えて自然。
南山を放って中山に行ったら
(背後にも敵(南山)がいるわけだから)
背後からやられる」
と。
だーよーねーー。
確かにそれだと、すごくシンプルでスッキリするんだよね。
でもでもでも!
1429年まで明実録に他魯毎の朝貢記録があるんだよ。
(つまり1429年までは南山と南山王が存在していた)
それはどうとらえる!?
と聞いてみたら…
「他魯毎は尚巴志(中山)側の人間
もしくは、
(他魯毎は殺されていたが)尚巴志(中山)が影武者をたてていた」
きゃーっ!Σ(゚Д゚)
え、なぜそうする必要が!?
「そのほうが朝貢の利益が2倍になる」
ぎゃーっ!!Σ(((゚Д゚;))))
た、確かに南山を併合した中山だけが朝貢するより
南山、中山それぞれから朝貢したほうが利益が多い!
実際には中山(尚巴志)の支配下ではあったけど
南山、そして南山王という存在を生かしておいて(orそのように見せかけておいて)
2重の利益を得る戦略!?
朝貢も王様が直接明国に行くわけじゃないし、
文書上に肩書と名前が出てくるのみ。
本当に本人かどうか確かめるすべはない…!?
尚巴志が「南山王之印」もぶんどって
そのまま利用していたということか!?
いや、でも、実態を欺くなんて
久米村(朝貢の事務を担っていた明人集団)が黙っていないのでは??
「結局は、久米村も、勢いのある尚巴志に加担していた」
ぎゃーーーっ!!ΣΣ((((゚Д゚;;))))
南山・中山の2重朝貢によって
久米村へのリターンも倍増、メリットがあるとなると、
確かにそっちに傾くかもしれん…!!!!
尚巴志………悪い奴め……w
実際、中山と南山が合同で朝貢している記録もあるだけに
この推理はなかなかリアル…!!←(大好物)
また、他魯毎は尚巴志の子説もありますが、
(初出典は冊封使・汪楫の『中山沿革志』?)
子ではなくても
尚巴志の腹心の部下が他魯毎だった…
という見方もできるの…か?
南山は中山と同盟関係にあったとか、
南山は中山の傀儡政権だったとか、
南山と中山の関係を推測した説は色々見受けられますが、
今回のはこれらに似てはいるものの
戦略性や背後の「人間味(欲望とか損得勘定とか)」がより感じられて
個人的には結構、腑に落ちました。
ただ、この推理の通り
中山の前に南山を倒していたとすると、
中山攻略の1406年以前、ということになります。
1406年以前となると、
他魯毎はまだ南山王ではなくて、
その父ちゃん、王応祖の代になります。
汪応祖は1403年に王弟として入貢、
1404年に冊封を受けて、
1415年に兄・達勃期に殺されるまで南山王でした。
冊封直後(1405年とか)に討って、汪応祖も影武者をたてた?
達勃期とのいざこざは?
ううぅ~~~~む……
さぁて、この推理、あなたはどう見ますか?
写真は先月再訪した
南山(島尻大里)グスク、嘉手志川。
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