がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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鍛冶屋とかぎやで風

2019年09月29日 | ・琉球歴史/文化風景

(前記事のつづき) 

国頭村奥間にある、
東カンジャーについて。

 

迫害された金丸をかくまった
奥間鍛冶屋。

 

さて、
時が流れ、金丸が王になった時、
奥間鍛冶屋への恩い報いるため

鍛冶屋の長男に官職を与えようとしたが
家業を守るため辞退したため、
次男が国頭総地頭に、
その子孫(4代目)が国頭按司となり
明治時代まで続く按司家になった。

 

 

祠の中にある書は、
その時、喜びのあまり歌ったのが
「かぎやで風節(鍛冶屋手風節)」。

 

あた果報のつきやす

夢やちやうも見だぬ

かぎやで風のつくり

べたとつきやさ

 

大きな果報が得られようとは

夢にも見ない事であった

鍛冶屋で色々ものを作ってきたが

そのおかげで果報が身にぴったりとついた。

 

 

「かぎやで風節」の原歌であると伝わっているそうです。

 

 

なるほど。

 

かぎやで

って

鍛冶屋で(手)

ってことか。

 

「かぎやで風節」の由来も色んな話がありますね。

 

 

書はボロボロでしたが

そのまま石碑にしたものが
祠に行く手前に建っています。

 

 

東カンジャー関係、
あと一つ、つづきます

 

 


 

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奥間鍛冶屋

2019年09月28日 | ・琉球歴史/文化風景

 

国頭村奥間にある、

東(アガリ)カンジャー。

カンジャーとは、鍛冶屋のこと。

 

奥間、鍛冶屋、
と聞けばピンとくる方もいるのではないでしょうか。

 

 

第二尚氏の祖、金丸(尚円)が
故郷・伊是名島を追われ、
本島に渡り、宜名真に仮住まいしていた時。

そこでも迫害を受けたが、
奥間鍛冶屋が与那覇岳に彼をかくまい、
食料を運び、助けた、

という伝承があります。

 

いわば、

金丸の恩人

ということになりますね。

 

 

…が、

 

奥間鍛冶屋にかくまってもらっている最中なのか、

金丸は奥間大親の娘に手を出し

更に奥間を追われた、

という話もあるようです。

 


そして名護の汀間、久志へと下っていく…

 

 

 

……金丸~!😂

 

 

(つづく)

 

 


「新 琉球王統史2」(世並岳生)
「沖縄拝所めぐり300」(比嘉朝進)
「くんじゃん徒歩ナビ(奥間区編)」(国頭村)



キラキラ琉球史☆ゆんたくマンガより




 


 

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アマミクヌムイの越来グスク【2】

2019年09月24日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

前記事のつづき。


越来グスクが国の名勝「アマミクヌムイ」に
追加登録されたことを記念しての講演会、

『神が築いたグスク「越来グスク」』について。


 

後半は、文化庁の平澤さんによる名勝の話。

「名勝」とは何か、
なぜ越来グスクが追加指定されたのか。

 

現在の越来グスクは、戦後の土地開発によって
大きく地形もかわり(山がごっそりなくなるレベル)
かつてはあったという石垣なども皆無だけど、


「名勝」とは、
景色がいいとか、見栄えがいいとか
昔からの状態がそのまま残っているとか
そういうことだけではなくて、

アマミキヨがつくったグスクとして
生活の中で変化しながらも拝み続けられてきたという
その意味・在りよう、も重要なのだとか。

なるほど~。

だから、越来グスクという単体ではではなく、
アマミキヨ関連の場所、
「アマミクヌムイ」という<枠組>がポイントでもあるのね。

 

そもそもワタシは

名勝「アマミクヌムイ」自体
この越来グスクのニュースで初めて気づいたんだけど、
最初は2015年なんだ。

この時点で指定されていたのは、
今帰仁のカナヒャブ(テンチジアマチジ)及びクバの御嶽、
それから久高島のクボー御嶽のみ。

てっきり、その初期段階で琉球七御嶽は登録されているものだと思ったけど、
安須森御嶽や知念グスク、藪薩の浦原、首里森・真玉森グスクは未指定で、
七御嶽以外の、越来グスク、弁之御嶽(弁ヶ嶽)、伊祖グスクは指定済みなのよね。

指定の順番がなんか謎ではあるけど(各自治体文化行政の事情?)、
未指定のものも、これから追加されていくのでしょう。

 

今回話を聞いて思ったのは、

アマミクヌムイに指定されたからこそ、
これからいろいろ始まるんだろうな

ということ。

 

これまで全っ然
アマミキヨ関連は紹介されてなかった越来グスクだけど、
指定されて初めて周知され、
指定されたからこそ行政も一般も関心が高まり、
これからはこの面をどんどん推していって
整備、保護、活用につながっていくんだろうな。

 

少し、越来グスクの見え方も変わってきそうです。

 

 

とりあえず、

コザ十字路の大壁画
神話部分を描き足せたらいいねー。
(今は源為朝伝説が絵のスタートなのだ

 

 

 

*おまけ(後日談)*

この講座のあと、
愛読書『百十踏揚』をぱらりとめくってみたら
本文3ページ目に「(越来城は)アマミキョが造ったと歌われ」
という一文が(!)

…読んでたんかーいっ(苦笑)

 

 

 


 

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アマミクヌムイの越来グスク【1】

2019年09月22日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

先日、

『神が築いたグスク「越来グスク」』の講演会がありました。

これは、越来グスクが国の名勝「アマミクヌムイ」に
追加登録されたことを記念してのもの。

 

この追加登録がニュースに出たとき、

“アマミクに関連する御嶽として”

としか説明がなかったので

…ん!?越来グスクとアマミキヨにどんな関係が!?

と頭の中が「????」だらけになりました。

 

(ワタシは)越来グスクとアマミキヨの関連は
これまで聞いたことがなかったし、
越来グスクの石碑や、沖縄市教育委員会の説明版
沖縄市立博物館の越来グスク展のパンフレット
沖縄市の歴史を描いたコザ十字路の大壁画(および解説パンフ)にも
アマミキヨとの関連記述は一切なかったから。

もちろん私の知識不足もありましょうが、
これらを鑑みると
少なくとも沖縄市はこれまで越来グスク↔アマミキヨを
推して(重要視して)いなかった、とは言えるでしょう。

 

 

その後、沖縄市立図書館で追加指定に関連してのパネルが設置され↑

その中で「おもろさうし」に
「(越来グスクは)アマミキヨがつくったグスク」
という記述があることを知りました。

なるほど!おもろさうしか!

アマミキヨと史跡の関係といえば琉球七御嶽だけど、
おもろさうしに越来グスクの記述があったとは知らなんだ。

史書には七御嶽の記述だけで
越来グスクはないものね。

 

しかし、

なんで沖縄市は今までこの部分を一切紹介してこなかったんだ????

全然周知されていないのに、何でいきなり追加指定????

越来グスク、破壊されまくってて全然グスクとしての面影ないけどいいの????

 

と疑問でもあり、
全くなにもわからなかったので
勉強しに行ってきました。

 

 

前半は追加指定の根拠となった
「越来のおもろ」についての解説。

講師は以前、
勝連・阿麻和利をおもろをテーマにした講演会を拝聴したこともある
波照間永吉先生

 

 

ごゑく こてるわに

ゑのち ともおそいや

あまみきよが たくだる ぐすく

 

越来 小照る曲(曲輪)に

命 とも襲いは

アマミキヨが 工たるグスク

 

「おもろさうし2-74」

 

 

これが件のおもろ。

越来の曲輪、城壁の曲線、つまりグスクそのものを讃え、

“この素晴らしいグスクはアマミキヨが造ったグスクです”

と神をたたえ、祭祀を行っていたようです。

ほほ~~~~

 

越来をたたえるおもろは17首あり
その中からいくつかを読み解いていきました。

私にとって越来のおもろと言えば

「鷲の嶺」のおもろ。

 

ごゑく世のぬしの

わしのみね ちよわちへ

いみやからど ごゑくは

いみきや まさる

 

越来の世の主様が鷲の嶺においでになりまして

今からこそ越来は イミキは勝るのです。


「おもろさうし2-79(39)」

 

 

イミキの意味は諸説あるようですが、
講師の波照間先生によると

イミキは「お神酒」、
お神酒は米が原料のため、米の豊かさ、つまり五穀豊穣では、

とのこと。

 

でも、実は私が衝撃だったのは、このイミキではなく
「鷲の嶺」の部分。

 

鷲の嶺は越来のグスクのある嶺、
ひいては越来グスクそのもの
という解釈を以前本で読んでいたので、

(越来世の主が、鷲の嶺(≒越来グスク)に来て(就任して)、
今こそ越来は豊かになるのだ

こんな意味だと思っていたのです、

が、

 

鷲の嶺はグスクとは別にあるらしい!!


なにーーーーっ!!!???

 

沖縄市立郷土博物館学芸員さんによると
越来グスクから1キロ東に行った、
現・宮里小学校のところらしいです…。
(今はその面影はまったくないとのことでしたが…)

つまり、

〝越来世の主が鷲の嶺に出かけて行って”

という、巡行の様子とな。

 

わーお、マージーかーーーーーー。

 

 

グーグルマップ地形図で見てみる。

越来グスクの東に宮里小学校(下線部)。

更にその東に海。
(鷲の嶺から海をみるおもろもある)

地形図で見ると
確かに高台になっている地形が続いている(灰色部分が斜面)。

昔は山々が連なっていて、
この一部分が
いわゆる「鷲の嶺」
だったのだろうか?

 

キラキラ本の擬人化・越来グスクは
鷲の嶺≒越来グスクの解釈でかいてたんで(澪之助作)
違うとなるとちょっとショック…。

 

それとも、どっちの解釈もありなのか?

 

ともあれ、

鷲の嶺≒越来グスクのある嶺≒越来グスク

とは言い切れないことを学びました

 

 

(長くなったのでつづく

 

 

*オマケ*
郷土博物館のスタッフ紹介ページイイね!

皆めちゃ楽しそう(笑)

市立図書館が(元)コリンザに移転してから
あの建物訪れてないけど、
階下の図書館が空いて
郷土博物館はなにか変わったのかな。
そのうち再訪しようかな。

 

 

 


 

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知念グスクのクーグスク

2019年09月20日 | ・琉球歴史/文化風景

 

南城市にある知念グスク

琉球七御嶽のひとつでもあり
(斎場御嶽とセット記述)
聖地巡礼である東御廻りのスポットでもあります。

 

 

そんな知念グスクですが、

実は大きく2つのエリア(郭)に分かれています。

現在整備されているミーグスク(新グスク)と、

更に1段高くなったところにある、藪に囲まれたクーグスク(古グスク)。

上の図で言うと、
黄色い部分がクーグスク。

(番号①がトップ写真の正門)

 

 

ミーグスクの内側から。

右側の藪部分がクーグスク。

 

そのクーグスクの内部散策記。

 

 

かろうじて道のようになっていて
進むことができました。

 

 

古い野面積みの石積み発見。

おそらく、
ミーグスクの正門横の石積みと
繋がっている石垣かと。

 

 

側には拝所がありました。

 

 

下から。

上部に野面積み。

図をみると、クーグスクエリアはもっと広く、
石積部分ももっとあるようです。

今回見たのは、
ミーグスク側に隣接したほんの一部分だけ。

クーグスク内をぐるっと巡らせた道らしきも線も見えるけど…あるのか?)

 

 

切石積みのミーグスクに対して、
古い野面積みだったり
「古グスク」との名前の通り、
ここが知念グスクの元々のエリアなのか。

元々クーグスクがあって、
そこから拡張されてのちの時代にミーグスクができたということか?

とも思ったけど、

當間嗣一先生は『琉球グスク研究(P328)』で
城の縄張りとして見た時に、
縄張りとしての機能、新古が隣接する石垣の関係、石積みの塁線などから、
クーグスク・ミーグスクは創建当初からひとつのグスクと見た方が自然
という見解を述べています。

 

撮影/2019.1



 


 

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高嶺中学校と他魯毎

2019年09月15日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

先月、南山グスクを訪れた時に
グスク前(道沿い)に掲げられていた横幕。

 

 

南山城跡を国指定文化財に!

 

 

おおっ

 

 

ここ糸満市指定史跡「南山城跡」は
現在国指定に向けて調査が進められています。

 

 

糸満市も結構力を入れている(入れる計画?)と聞きました。

うんうん、頑張ってほしい

南山に光を!!

 

 

南山王(他魯毎)の子孫にあたる高嶺中学校の生徒達が、
毎朝南山城跡の周りの清掃をしております。

 

 

高嶺中学校の生徒=他魯毎の子孫!!!

 

これはまた大きく出たな(笑)

 

でもこう表現してるってことは、
少なくとも高嶺中学校の生徒達には
他魯毎が郷土の誇るべき王様像
になっているってことだよね?

そういう教育、アプローチをしている…
ってことだよね?

 

やっぱりね、
まずは地域の人が地域の偉人を愛さなきゃ!

 

他魯毎は反面教師、
という存在でしかないなんて
悲しすぎるもん。

 

高嶺小中学校で
どんなふうに他魯毎や南山を教えているのか、
興味ある~♪

もちろん、

「他魯毎」の
読み方も漢字もちゃんと理解して……

 

 

って、

ここは間違えたらいけないやつ!!!


 

 


 

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三山統一、南山は最後?最初?

2019年09月14日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

今日も南山にまつわるお話を。

 

南山が中山や北山に比べて
認知度や人気度が低いのは、
その歴史を見た時に、

1 登場人物の関係性とごたごたが複雑かつ謎
2 南山(佐敷)所属の尚巴志との関連性が謎

だからだと思う。

 

1に関しては以前、
『考古学から見た琉球史』を元に図解した記事があるので
それを参照してもらうとして。

2の尚巴志の関連性は
やっぱりまだイマイチ腑に落ちない部分もありますよね。

 

尚巴志は南山所属なのに、
島添大里を滅ぼした時、南山王(島尻大里)が動いている様子がない。

その後、尚巴志は南山王を滅ぼさず、中山に向かっている(※)

南山は尚巴志が動き出して20年以上、ずっと放置されていて
その間、尚巴志に対する南山の動きはない。

 

南山…どうした!?

 

尚巴志の三山統一の過程は、
現在の通説では

南山東エリア有力按司の島添大里を討つ→島添大里の地を得る
中山王・武寧を討ち、父・思紹を中山王に即位させる
北山王・攀安知を討つ
南山王・他魯毎を討つ → 三山統一(1429年)

となっています。

 

正史の『球陽』(1745年)でもこの順。

 

が、

正史でも球陽よりも古い
『中山世鑑』(1650年)、
『中山世譜』(1701年)では
少し記述が違うんですねー。

 

 

『中山世鑑』

南山を討つ
尚巴志南山王になる
中山を討つ
尚巴志中山王になる
北山を討つ(1422年)→三山統一

 

 

『中山世譜(蔡鐸本)』

他魯毎を討つ
尚巴志南山を統治する("(南山の)民にあまねく利をほどこした")
中山王・武寧を討ち、思紹を即位させた
北山を討つ(1422年)→三山統一

 

尚巴志は中山攻略の前に南山を討っている!!

しかも、しっかり「南山の支配者(南山王)」になっている!!!

 

 

 

 

先日、この三山統一の過程について雑談してたら、
同僚の一人が


「先に南山を討つという順が普通に考えて自然。
南山を放って中山に行ったら
(背後にも敵(南山)がいるわけだから)
背後からやられる」

 

と。

 

だーよーねーー。

確かにそれだと、すごくシンプルでスッキリするんだよね。

 

 

 

でもでもでも!



1429年まで明実録に他魯毎の朝貢記録があるんだよ。
(つまり1429年までは南山と南山王が存在していた)


それはどうとらえる!?

と聞いてみたら…

 

「他魯毎は尚巴志(中山)側の人間

もしくは、

(他魯毎は殺されていたが)尚巴志(中山)が影武者をたてていた」

 

 

きゃーっ!Σ(゚Д゚)


 

え、なぜそうする必要が!?

 

 

「そのほうが朝貢の利益が2倍になる」

 

 

ぎゃーっ!!Σ(((゚Д゚;))))

 

た、確かに南山を併合した中山だけが朝貢するより
南山、中山それぞれから朝貢したほうが利益が多い!

実際には中山(尚巴志)の支配下ではあったけど
南山、そして南山王という存在を生かしておいて(orそのように見せかけておいて)
2重の利益を得る戦略!?

朝貢も王様が直接明国に行くわけじゃないし、
文書上に肩書と名前が出てくるのみ。


本当に本人かどうか確かめるすべはない…!?


尚巴志が「南山王之印」もぶんどって
そのまま利用していたということか!?

 

 

いや、でも、実態を欺くなんて
久米村(朝貢の事務を担っていた明人集団)が黙っていないのでは??

 

 

「結局は、久米村も、勢いのある尚巴志に加担していた」

 

 

ぎゃーーーっ!!ΣΣ((((゚Д゚;;))))

 

 

南山・中山の2重朝貢によって
久米村へのリターンも倍増、メリットがあるとなると、
確かにそっちに傾くかもしれん…!!!!

 

尚巴志………悪い奴め……w

 

実際、中山と南山が合同で朝貢している記録もあるだけに
この推理はなかなかリアル…!!←(大好物)

 

また、他魯毎は尚巴志の子説もありますが、
(初出典は冊封使・汪楫の『中山沿革志』?)

子ではなくても
尚巴志の腹心の部下が他魯毎だった…

という見方もできるの…か?

 

南山は中山と同盟関係にあったとか、
南山は中山の傀儡政権だったとか、
南山と中山の関係を推測した説は色々見受けられますが、

今回のはこれらに似てはいるものの
戦略性や背後の「人間味(欲望とか損得勘定とか)」がより感じられて
個人的には結構、腑に落ちました。

 

 

ただ、この推理の通り
中山の前に南山を倒していたとすると、
中山攻略の1406年以前、ということになります。

1406年以前となると、
他魯毎はまだ南山王ではなくて、
その父ちゃん、王応祖の代になります。

汪応祖は1403年に王弟として入貢、
1404年に冊封を受けて、
1415年に兄・達勃期に殺されるまで南山王でした。

 

冊封直後(1405年とか)に討って、汪応祖も影武者をたてた?

達勃期とのいざこざは?

 

ううぅ~~~~む……

 

 

 

さぁて、この推理、あなたはどう見ますか?

 

 

写真は先月再訪した
南山(島尻大里)グスク、嘉手志川。




 


 

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【またまた】推定年齢考証してみた。

2019年09月12日 | ・琉球史散策/グスク時代

ツイッター@wawa_ryuq)で、
今週(9/8~)は南山推しウィークと名付けて
南山にまつわるツイートをしています。

その中のツイートの一つから派生したのが
今回のネタ。

 

 

前々から触れていますが、
尚巴志とか阿麻和利みたいに、
もっと南山の皆さんに光(注目)が
あたってほしいなと思っている和々です。

なので、

今の「推し」は誰?

と聞かれたら、

他魯毎、守忠の兄弟をあげます。

 

他魯毎(たるみい)は尚巴志に倒された最後の南山王。
守忠(しゅちゅう)はその弟。

この兄弟の父親が汪応祖(おうおうそ)です。

他魯毎は戦死しますが、
弟・守忠は逃れ、
後に結婚し、生まれた子供が守知(しゅち)

守知は第二尚氏の世で出世し、
尚真王の養父となります。

 

これを以前図にしたのがこちら↓

拡大版と記事はこちらから。
これは『琉球戦国キャラクター図鑑』のコラムでもリテイク図解しています!

 

また、他魯毎・守忠兄弟は歳が離れていて、
他魯毎が守忠の育ての親でもあった、
と以前本で読み、
2人の関係にぐっと興味がわいたのを覚えています。

年が離れていたって、

…どれくらい?

他魯毎が王様だった時、守忠は何歳だったの?

尚巴志に攻められた時は?

 

…と、ふと気になったので、
【またまた】推定年齢考証してみました!
(前回はこちら→

 

年齢の数字を設定をする上で材料としたのが、以下の点。

 

・汪応祖は天寿を全うしたわけではなく、在位中に兄に殺されたのでまだ働き盛りの壮年期だったのでは。

・よって、その子、他魯毎もまだ若かったのでは。

・とは言え、南山の諸按司から次の南山王にと推挙されているので、成人はしていたはず。

・守忠は幼くして父を亡くした、とあるので、汪応祖が死ぬ数年前の生まれか。

・守忠は戦から逃れたあと、名護(久志)で数年隠れて南山に戻り、結婚し、子ども(守知)が生まれた。

・守知は第二尚時代の王府に仕官し、尚真の養父になっている(そのタイミングは諸説あり)

 


・『沖縄のサムレー 家譜に見る士族』(比嘉朝進著)
・『球陽』

伊舎堂墓の説明版

 

 

というわけで、

汪応祖が死んで、他魯毎が即位した時を
20代前半~中盤のイメージとして、間をとって24程度に、

弟・守忠を汪応祖が死ぬ4年前程度に設定して、
(汪応祖が死んだ時点で生まれたての赤子より幼児の方が、他魯毎も教育しやすいのではないかな、と)


Excelカモ―――ン!!!

赤字は確定。黒字は推定です。


 

全体的に2~4歳程度前後する可能性もふまえつつ、
割と「アリ」
な気がする結果となりました。

 

他魯毎の在位中に、守忠は幼児から大人(18歳程度)になっている。
他魯毎が「守忠という人」を作り上げた育ての親ってのも納得。

他魯毎が40前後で没というのも、
まぁ、割とイメージ近いかも。

(そういえば他魯毎は尚巴志の長男説もあるね。
尚巴志の次男の尚忠が1391年生まれだから、
もし長男が1年前の1390年生まれだとしたら
南山王即位の1415年時点で26歳。
おお~、誤差の範囲)

 

 

守忠の息子・守知の誕生は
守忠が数年名護に隠れ住んでいたという話から、
南山滅後の数年後に設定。

 

ところで、
守知の32歳の所に「養父」と書きました。

これは


尚真が生まれ、尚円が占わせた所、
吉日に赤ん坊(尚真)を城外に出して
最初に出会った男を養父すれば吉と言われ、
尚円は家臣に命じてそのようにさせると、
守知と出会った


という話から。


しかし、尚真が生まれた1465年は
金丸(後の尚円)はまだイチ家臣で、王位にはついていないので、
尚真が城内で生まれたわけではありません。

とすると、この伝承は年代的に無理が生じるのかなと。

伊舎堂墓の案内板にあるように、

守知は最初は普通に仕官して出世し、
孫(華后)が尚真の側室に入り、尚清王を生んだことで
養父となった…

という流れの方が自然なのかも?

 

個人的には、
守知が死んだ時、尚真は号泣したともあるので(『球陽』)

幼少期からの密なつながりがあった=赤子の時から養父説

を取りたいところですが。

 

…尚真が赤子の時ではなく、
尚円が即位した時(5歳)、

もしくは尚円が死んだとき(11~12歳)に
尚知が養父になった…というのもアリかな?

 

ともあれ、
表を見ると守知は結構長生したっぽいことが分かりますね。


+


この推定年齢考証は
あくまでもワタシの推測にすぎませんが、
具体的な数字で見てみると、
漠然とした各人物イメージが
少しシャキッと
してくるような気がしませんか?

  💭

 

 

 


 

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Qプラスリポート、地域を守る琉球石獅子

2019年09月09日 | ・村シーサー/おきなわ石獅子マンガ

本日のQABローカルニュース「Qプラス」で、
石獅子(村シーサー)の特集が放送されました!

 

案内人は、石獅子と言えばこの人!
石獅子アーティストであり、
石獅子リサーチマスターでもある
若山ご夫妻!

映像と、テキスト・写真もありますので
是非ご覧ください♪
(映像は約6分)


顔で勝負!? 地域を守る琉球石獅子
https://www.qab.co.jp/news/20190909118859.html

 

 

ふぇ~ぬ新城くんや、
富盛先輩のカットも☆

 

 

 


 

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ボーダーインク×桜坂劇場(桜坂市民大学)特別講座やります!

2019年09月08日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

 

桜坂劇場で定期的に行われている桜坂市民大学。

その桜坂市民大学(55期)と、
お馴染み、沖縄県の出版社・ボーダーインクが
コラボフェアを開催します!

 

特別講座

ブックフェア

朗読会

出版相談会

の4つの企画があり、

その中の「特別講座」でワタクシ和々が
初日(10/2)の講師を務めることに相成りました!

 

 

「講座」と言っても、
黒板と机のある部屋で歴史のお勉強!!というものではなく、
桜坂劇場内にあるカフェ(さんご座キッチン)内で行う
少人数制のフランクなカフェトークイベントです。

とはいえ、
有料のイベントですので、お金を頂くからには
「来てよかった」と思ってもらえるような内容を提供できるよう、
ただ今絶賛準備中!

 

講座テーマとしては

絵を通して琉球史を楽しむ♪

という感じ。

 

ボーダーインクフェアの一環なので
『琉球戦国列伝』や
『琉球歴女の琉球戦国キャラクター図鑑』の
アレコレについてもお話しします☆

また、キラキラ(フィクション)だけではなく
がっつり時代考証したモノについても☆

 

まだネット上で公開していないイラストや
描きおろし(新作)も持っていきますよ!



今回の描きおろしのための作画資料の一部。

 

お問合せ・お申し込みは

TEL:098-860-9555(桜坂劇場)

まで!

 

 

もし、
こういったことが聞きたいというような
リクエストや質問がありましたら
ご意見承ります♪

 

メール:gajumaru_wawa(アットマーク)yahoo.co.jp 

ツイッター:@wawa_ryuq

 

事前に準備して、ご提示できるかもしれません。


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山巓毛↔南山グスクを<実感>する

2019年09月07日 | ・琉球歴史/文化風景

 

糸満市の中心地、糸満ロータリーの所にある、

さんてぃんもう公園(上)と、
最後の南山王・他魯毎の墓(中央右側・白い部分)。

 

 山巓毛(さんてぃんもう)については
過去に記事にしたこともありますが、
他魯毎が自害した場所、とも言われています。



(過去記事より)


今回、この公園にある水色の展望台(↑写真左端)に
初めて登ってみました。

糸満を360度ぐるりと見渡すことができて
気持ちがいい~♪

 

東側に目をやると…

 

 

…ん?

 

真ん中のずーーーっと奥の、
ぽつんと飛び出た塔の下あたり……

 

 

ここ、

南山グスクのところじゃないか?

 

 

ズーム&トリミングで。

 

お、やっぱりそうだ。

 

茂みの左右にある四角の屋根が
南山グスクの隣にある
高嶺小学校と高嶺中学校の(おそらく)体育館。

 

 

念のため、グーグルマップ(3D)でも確認。

 

 

奥の黄色い丸に向かって近づいていくと、

 


 

こんな感じ。

さらに奥にある台地の上の塔が
立体に反映されてなくて見えていませんが…
航空自衛隊の施設だから?

(平面地図で見るとちゃんと存在しています)

 

ちなみに、
尚巴志の金屏風と交換したということで有名な
嘉手志川もすぐそこ。


 

もう一度、この写真。

なるほど、この距離感か。

拡大版はこちらから

 

 

1429年、
尚巴志(中山)軍に攻められた他魯毎が、
追われて追われて、ここまで逃げてきた距離感。

うん、そんなに遠くないね。

ってことは、
割とすぐに捕まった(追いつかれた)
ということか。

阿麻和利の、勝連→読谷に比べれば
かなり現実的な距離だな。

南山戦から自害するまで、
タイムラグはなさそう。

 

 

以前も触れたことがありますが(→  )、
史跡巡りで実際にその場に身を置くことの楽しみのひとつが、

距離感や立地を〝実感〟すること

だと思っています。

 

確かにグーグルマップなどでもできないことはありませんが
レンズ越しに写されたものと
自分の目でみたものでは、
やはり少し感覚が変わるのです。

 

さらに言えば
実際に歩いてみると「時間感覚」「体感」が加わり
もっと〝実感〟できるのです。


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執心鐘入のゆかりの場所(記事まとめ)

2019年09月03日 | ・琉球歴史/文化風景

今日は組踊の日、らしいです。

9(く)、3(み)、だから?

 

先日の記事でも触れましたが
今夏の沖縄ホラードラマ番組でも
組踊「執心鐘入」がモチーフになったものが2つもあり、その影響か、
執心鐘入のあらすじを紹介した記事のアクセス数がまだまだ伸びていて、
関心が高まっているということを実感しています。

 

組踊と一言で言っても演目は様々あり、
組踊を創作した玉城朝薫の代表作でも5作品あります

しかし、その5作品の中でも
特に注目を浴びているのが
やはり『執心鐘入』ではないでしょうか。

実際、ストーリーも分かりやすいし、
コメディ要素もちょこっと入ってるし、
鬼のシーンなどメリハリも効いていて
よりショー的というか、
初心者でも取っつきやすい演目だと思います。

 

そこで、

執心鐘入にちょっと興味が出てきたよ!

という人のために、

執心鐘入にまつわるスポットを紹介した過去記事+αを、
改めてまとめてみたいと思います。

 

 

まず、主人公、中城若松。

 

 

若松(のモデルとなった人物)ゆかりの場所が詰まった場所と言えばここ!
ズバリ、若松公園!
(北中城村安谷屋)

高速の北中城ICを出て、ほど近いの場所にあります。

 

 

若松についての紹介、

若松の屋敷跡、

若松の屋敷の火の神、

若松の墓、

若松の妻と母の墓、

が、解説パネルと共にあります。

 

 

過去記事には載せていなかったのですが、

若松を謳ったおもろ碑もあります。
裏に解説があります。

 

  安谷屋の若松

  秀れ若松

  枝茂り

  国守る若松

又 心ゆかしき若松

 

(縁起のいい)青々した若い松の枝にかけて、
優しくて優秀な中城若松を称えています。

 

墓とか、屋敷跡とか、妻とか母とか、
舞台上のキラキラしたいたいけな少年若松というより、
成長して所帯して老いて亡くなるという
生身の人間としての、「中城若松」に想いを馳せられる場所ですね。

 

ワタシは「妻(の墓)」の存在に、
鬼となり成敗させられた
恋に敗れた宿の女を想うのであります。

 

 

 

 

あと一つの執心鐘入スポットは、


若松が逃げ込んだお寺。

そして鬼と化した宿の女と住職たちのバトルが繰り広げられた
あのお寺。

 

那覇市の末吉公園界隈(末吉参詣道)にある、
遍照寺(万寿寺)

 

 

参道から中に入った所の写真がなかったので
追加で載せておきます。
(こちらは今年1月撮影)

今はお寺自体は見る影もありませんが
鬱蒼とした緑に囲まれ、
普段はひと気もないため、少しゾクっとする空気感。

夜のこの場所をイメージすると
まさに鬼が出てきそうな雰囲気です…。

遍照寺自体は移転して今も存在します。
沖縄県民にとっては中尾彬のCMでもお馴染みの、
あの遍照寺なのです。→

 

 

末吉公園には
玉城朝薫生誕300年記念の碑もあります。

執心鐘入の遍照寺に由来して
ここに建てられたのでしょう。

 

 

レリーフは、執心鐘入だけではなく、
朝薫五番(5作品)がデザインされています。

 

 

ちなみに、
同じ末吉参詣道沿い(平良交差点側)には
こちらも有名な組踊演目『万歳敵討』(田里朝直作)の
舞台となった場所もあります。

 

 

いかがでしたでしょうか。

実際にゆかりの場所を「体感」して、
より深く『執心鐘入』の世界に想いを巡らせてみてはいかがでしょうか?


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