がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

当サイトの掲載写真・イラスト等の無断転載/無断使用を禁じます

渡名喜島重要伝統的建造物群保存地区

2019年04月30日 | ・琉球歴史/文化風景

渡名喜島に行ってきました

 

渡名喜島は
沖縄に2つある、
重要伝統的建造物群保護地区の一つ

 


↑クリックで拡大

 

砂の道に、フクギ並木、
赤瓦、井戸、フール跡、
木製の電柱にフットライト。

昔ながらの沖縄の風景に、
今の暮らしが混ざりあっている
リアルな生活の場です。

今回は、
渡名喜島のいつもの風景、
いつもの生活の風景に焦点を当てて撮った写真を
フォトコラージュでまとめてみました。

残念ながら前日までの天気予報が崩れ、
曇り、雨、時々陽がさすも、また曇り、雨
…でしたので、
全体的に鮮やかさが欠けるのはご容赦を

(All photo by iphone)


渡名喜島はもちきびの産地。
青々としたもちきび畑も。

ゆるキャラは、フクギのフーちゃん。

ほぼすべての家屋に屋号プレート。

そして
スイジガイなどの貝のお守りがゴロゴロと。

右下が渡名喜村の花、カラワナデシコ。
マンホールのデザインにもなってます。

海はまだ冷たかったです。

あがり浜には、大正時代から続く
島民総出の伝統行事「水上運動会」。
100回記念碑ができていました。

集落から海につづく道には
おそらく非常時に封鎖するための門が
設置されていました。

猫さんも発見。

古い集落には猫が良く似合う。

軒下でのんびりお昼寝猫さんや
朝のパトロール猫さん。

ワタシも滞在中はのんびりお昼寝。。。

 

+ 

 

そして、渡名喜島と言えば、
フットライト。

本島でもお祭りとかイベントとか、
特別なときにこういうライト演出をするのは
時々見かけるけど、
ここでは今や生活の明りとして毎日灯る、
日常の風景になっています。

日が暮れていくにつれ、
自動点灯して。。。

日が暮れるとこのような幻想的な雰囲気に。

メインストリートの村道1号線だけでなく、
集落内全ての道にフットライトや
壁に埋められたライト、
場所によっては街灯があったりして
夜の散策も懐中電灯要らずの十分な明るさでした。

里遺跡に行く途中の展望台からだと
夜の集落はどんな感じに見えるんだろう…
(さすがに登るのはやめておきましたが…)

 

 

もちろん、
御嶽、遺跡、遺構、墓などの
史跡もめぐりました!

が、それはまた別記事で。


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#残したい沖縄 について考えてみた

2019年04月24日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

沖縄のツイッター、インスタ界隈では
6月にRBCで放送される特番に向けての

#残したい沖縄

が話題ですね。

 

「おきなわMOSAIC」


ピースの又吉さんがMC。


この

「残したい沖縄」

っていうフレーズを聞いた時、
もちろん

ワタシなら何て答えるかな?

と考えました。

 

タイムラインで流れてくる
#残したい沖縄投稿を見ていると
実に様々で、

具体的な「物」もあれば、
「自然」もあるし、
「伝統」や「文化」
「言葉」とか「笑顔」というようなものも。 

でも一方で、
媒体がツイッターやインスタだからかもしれないけど
ただ単に沖縄っぽい、
映えてる、フォトジェニックなものを
ただひたすらあげてるだけのような一面も垣間見えて、
(その被写体に反対するわけではないけれど)

う~~~ん……

となってしまったのも確か。

 

別に答えは一つじゃないし
(一つであろうはずがないし)
もちろん、人それぞれ色んな答えがあっていいんだけど、

個人的には、
簡単に、気軽に答えは出せないな、
真面目にじっくり向き合って考えてみたいな、と
#残したい沖縄
ではなかなか投稿できずにいました。

 

 

そこで、

逆に、

もしこれが一切なくなってしまったら
沖縄が沖縄(らしく)でなくなる、
沖縄人が、沖縄そのものや沖縄人としての誇りとか愛とかが
なくなってしまうようなものは何だろう…

と考えてみたら。

 

やっぱり、

 

琉球王国の痕跡

 

かな、と。

 

 

それは
首里城を代表する建築物だったり

伝統芸能や工芸品だったり

文化や風習、思想だったり

当時の暮らしを支えてきた自然だったりする。

だから、

こんな答えは意味合いが広すぎるから
ズルいと言えばズルいとは思うし、

意味合いとしては月並みの、
ごくごくありふれた答えに入るのかもしれないけど、

 

もし、

 

今後、沖縄から
琉球王国の痕跡が一切なくなって、

その存在を教えられることも語られることもせず、

完全に忘れ去られたとしたら……

 

沖縄人としてのアイデンティティに関わる
大きな問題だろうなと思いました。

 

事実、

1879年に琉球王国が解体され、
「沖縄県」になった時、

沖縄の人たちは
琉球王国の名残や文化や
琉球人(沖縄人)としての自分たちを
(日本本土と比べて)劣ったものとし、
否定し、忘れようとして、
必死に「日本人」になろうとしていた時代、一面もありました。

 

(沖縄人が沖縄を堂々と誇りに思う、好きだと思う、
沖縄らしさを意識する、大切にしていこう、守っていこう
っていう気風も、案外最近のこと、ここ数十年の流れだと思います。

私の親世代(母は戦後すぐの生まれの生粋の沖縄人)は
どうしても沖縄に対しての劣等感が根強かったのを感じるし、
小学校の運動会でエイサーをしたり、琉球の歴史や地域の偉人を学んだり、
遠足や社会見学などで首里城や世界遺産に行ったりするのも、
最近の事で、昔からやってたことじゃない)

 

王国時代が全て美しい、すばらしい、立派だった、
ということが言いたいのではなく、
王国時代にももちろん問題や闇はあったのですが、

450年間、
一つの国として
独自の文化を持ち
政治外交をし
小さいながらも世界の中で渡り合ってきた

という王国時代の営み、歴史文化は
その流れの延長線上にある今の沖縄、沖縄人にとって

決して忘れてはいけないこと、
すててはいけないこと、

そしてこれこそが
沖縄を沖縄たらしめている土台にあるもの、

 

つまり

 

#残したい沖縄

 

だな、と思いました。

 

 

番組企画としては、気軽に考えてバンバン投稿してほしいという意図だろうし
今回ワタシがブログで書いたことは、
番組として求めているような答えではないかもしれません。

でも個人的には番組企画参加のため、というよりは
「残したい沖縄」についてじっくり考えてみることができてよかったです。

考えるきっかけを与えてくれたことに感謝です。


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ふぇ~ぬ新城くん(4)

2019年04月23日 | ・村シーサー/おきなわ石獅子マンガ

おきなわ石獅子マンガ、
ふぇ~ぬ新城くん4本目です。

なお、公開は今の所、
ツイッターが先、ブログが後になってます。

つづく。

 

リアル富盛先輩については、
コチラの過去記事をどうぞ。

 

+

 

この「おきなわ石獅子マンガ」を
今後も制作&ブログアップしていく予定な事と、
写真に撮ってはいるけど、
まだ記事にしていない村シーサーが増えてきて
今後、関連記事が増える見込みがあることから、
カテゴリを分けて独立させることにしました。

カテゴリー名は、
「村シーサー/おきなわ石獅子マンガ」です。


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ニャトグスク

2019年04月21日 | ・琉球史散策/第二尚氏

与湾大親の墓碑?のすぐ向かいにあるのが
ニャトグスク。

漢字で書くと

湊城。

 

観光パーク「ケンムン村」の中にあります。

入って、左手。

 

 

珍しく公式っぽい案内板。

でも教育委員会などの明記はなし。

ケンムン村の手書きの看板が後ろに隠れています。

 

与湾大親の文字はありませんが、
地理的、時期的に、
おそらく何かしら関係のあったグスクかと思われます。

 

 

堀切。

 

 

案内板の想像図で言うと、
遠見ヤグラ跡?

 

 

振りかえるとこう。

ケンムン村という観光パークになっているので
周辺なども含めて
遺構がどれだけちゃんと残されているのか
気になる所。

 

とりえず、

「ニャトグスク」

という名称の響きは大変気に入りました(笑)

 

 

ニャトグスクの眼下はすぐ海。

「湊城」、納得です。


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与湾大親の墓?碑

2019年04月20日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

奄美大島の偉人、
与湾大親の関連遺跡を巡ろうチャレンジ、
2つめがこちら。

与湾大親の墓碑。

 

 

…墓なのか?

…墓跡なのか?

 

「ケンムン村」っていう
琉球村みたいな観光パークの
駐車場の脇にありました。

駐車場で施設外なので、見学は無料。

 

 

ケンムン村がたてている手作りの案内板。
(※ケンムン…沖縄で言うキジムナー的存在)

ここでは「墓碑」じゃなくて
単なる「碑」になってる。


意味合いが全然変わってくるんだけど…
…どっちだ?

 

ちなみに私がここの情報を見かけた

笠利町文化財遺跡イラストマップ、
および
マップを手に入れた宇宿貝塚史跡公園のパネルでは

「与湾大親」

ってしか書かれてませんでした。

 

……うーーーむ……曖昧過ぎる…

 

一応、

先記事にした与湾神社と同じ
用安地区にあるので(すぐ近く)、
ここに墓があっても不思議ではない。

 

そういえば、奄美では沖縄で見るような
自治体がたてている(いわゆる公的に史跡・文化財と認定・認識されていると分かる)
案内板はあまり見かけなかったな…。

 

 

空港からもほど近く、
県道82号線沿いなので、
(背後に見えてるアスファルト道がそれ)
気軽に立ち寄れるポイントです。


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ふぇ~ぬ新城くん(3)

2019年04月18日 | ・村シーサー/おきなわ石獅子マンガ

おきなわ石獅子マンガ、
ふぇ~ぬ新城くん3本目です。

 

 

それでは、

実物をご覧ください。

 


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奄美の与湾大親神社

2019年04月16日 | ・琉球史散策/第二尚氏

去年、奄美大島に行った時、
やはり巡りたいと思ったのは
「西郷どん」スポット…ではなく、

「あの人」にまつわる場所。

 

奄美が「琉球」だった時の、尚清王の時代。
島のライバル(我利爺)の讒言によって
首里王府軍によって攻められ自害した、

与湾大親。

奄美版護佐丸とも言える人ですね。

 

彼の息子、糠中城は
『琉球歴女の琉球戦国キャラクター図鑑』でもキャラ化し、
何度かこのブログでも取り上げています→  

糠中城は首里に連行され、
許された後も奄美に帰ることはなかったようなので
奄美に史跡が残っているなら
糠中城というよりは、与湾大親だろう!と。

 

しかし。

 

旅行の前に色々ググってみても
与湾大親の人物紹介はヒットするものの、
彼にまつわる関連史跡の情報は一向に見つけきれず…

 

何もないのか??

それともマイナーすぎるのか????

 

ともかく現地調達するしかない!
と情報ゼロのまま飛んだ奄美大島✈

 

 

でも奄美大島は
幕末(西郷さん)と自然推し!!
という印象で
琉球時代の、しかも人物に関する史跡情報は難航


実は、いくつもの山、トンネルを越え、
湯湾地区へも遠出した…
でも湯湾と与湾はやっぱり別だった!

 

諦めかけましたが、
奄美滞在最終日の前日に
偶然、笠利町文化財遺跡イラストマップを見かけ、
その中に「与湾大親」の文字を発見。

それを頼りに調べていき、
無事、最終日の朝に3スポットを巡ることができました!

 

そのうちのひとつ。

 

 

与湾大親が治めていたという用安地区にある、
その名もずばり、

 

与湾大親神社

 

 

小雨の降る中、参道の階段を登っていきます。

 

 

登りきると、
新しい社と、戦前の手水鉢が。

与湾神社は1939年に建立された
与湾大親を祀った神社。

手水鉢はその時のもののようです。

社や鳥居は2018年4月に再建されたばかりらしい。

 

与湾大親神社を再建(奄美新聞)

 

(今、普通に「与湾大親」でググったらこちらの情報ヒットします。
でもワタシの旅行前は何も出なかったのよー??謎…)


 

高台にあるので見晴らしは抜群。

雨で景色がかすんでいたのが残念。

 

 

帰路。

鳥居を後ろから。

晴れた日は、
赤い鳥居と、緑と、向こうに見える海と空の青と、
3色のコントラストが美しいのでしょうね。


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ふぇ~ぬ新城くん(2)

2019年04月13日 | ・村シーサー/おきなわ石獅子マンガ

 

なお、ふぇ~ぬ新城くんの「新城」は

しんじょう

ではなく、

あらしろ

と読みます。

 

八重瀬町(行政)としては

「あらぐすく」らしいのですが、

新城小学校は「あらしろ」読みだし、

保育園も「あらしろ保育園」。

 

あらぐすくくん

よりは

あらしろくん

のほうがリズムがいいので

あらしろ読みを採用しています。


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ふぇ~ぬ新城くん

2019年04月11日 | ・村シーサー/おきなわ石獅子マンガ

ずっと作りたいと思っていた
新キャラができました!

 

その名も、「ふぇ~ぬ新城くん」です!

 

 

「ふぇ~ぬ」 とは 「南の」ということ。

なので訳すると

「南の新城くん」

 

モチーフは、先日も記事にしました
八重瀬町新城にある石獅子です。

 

彼には
「にしぬ(北の)新城くん」という
双子のやっちー(兄)もいます(笑)

 

他に仲間もいっぱいいます。

 

4コママンガで展開していきますよ。

 

今後のふぇ~ぬ新城くんたちの活躍(!?)に
こうご期待♪

 


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尚徳王の系図

2019年04月10日 | ・琉球史散策/第一尚氏

前回記事にした『琉球のユウナ』3巻

そこに出てきた第一尚王統最後の王・尚徳王の次男(浦添王子)。

 

しかし、クーデターの関係で
尚徳王の系図、子どもたちとその後については
実はハッキリしていません。

長男(世子)がクーデターの際に殺害された
というのは共通しているのですが、
その弟たちについては、いくつかのパターンを散見するので
ちょっと掲載してみることにします。

 

 

尚徳の父、尚泰及関係の史跡が集中している
玉城村(現:南城市)の村史(2006年)より。

次男が鹿児島に逃亡、
となっているのが興味深い。

 

 

第一尚氏子孫の書いた
『系図は生きている』(當間荘平著/1990)より。

本文によると
古琉球三山由来記集373頁、
尚徳王の子孫系図記されているものとして紹介。

次男については、
一説には日本国へ逃げ去る云々
とありますね。

喜界島の女との間に生まれた子として3男が、

久高島の女(→ )との間のに生まれた子として
萬金子の記載があるのが興味深い。
(これは他で見る"黄金子"と同一人物なのか…??)

何男なのか不明なのもリアル。

 

 

先の『系図が生きている』より前になりますが、
同じ作者の『月代の神々』(1985)より。

長男に「志義」、4男に「黄金子」との名前が。

本文によると、
この世系図は、雍氏松茂良姓系図に記録されているが、
尚巴志王統由来記には尚徳王の子は男3人しか伝わっていない
4男黄金子は史書にも記録はない。
おそらく別腹であったのではないか。

…だそうです。

 

 

『琉球王国の真実』(伊敷賢/2013)より。

この本は民間伝承の本で、
掲載されている系図にはぶっ飛んだ(と感じる)ものも多いので
(他魯毎の妃は攀安知の妹で、その子供が金丸、とか
攀安知の妃は他魯毎の妹で、その子が阿麻和利の母とか→
その点、私は一歩引いて見てはいるのですが。

喜界島の娘との間の子は、2人となっていますね。
喜界島の尚徳王墓前の石碑には、3人の息子とあります)

 

 

『佐敷町の文化財Ⅳ 第一尚氏関連写真集』(佐敷町教育委員会/1996)より。

ただ見出しの第一尚氏世系図には(仮)の文字も。

最初に紹介した『玉城村史』とも合わせると
オフィシャル的には今のところ、
この形が1番無難、という所でしょうか?

 

 

これはドラマ版テンペストより。

黄金子に大明存留とあるのはドラマのフィクション設定。

そして、
時代考証を担当した上里さんのこの回↑のテンペスト解説記事によると、
朝鮮の『海東諸国紀』という史料に
尚徳の子供に、中和、於思、截渓という人物がいた
との記述があるとのこと。

おっ、これはユウナで出てきた名前ですね。

 

 

 

以上、見てきた中で
それぞれの息子たちの母(尚徳の妃、妻ら)の関係までは分からないけど
ユウナに乗ってる系図は
3男と4男はそれぞれ別の「妻」となっています。

元となった資料があると思いますが(ナンダロウ?)、
その「妻」が誰なのか…想像すると面白いですね。


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漫画「琉球のユウナ」3巻

2019年04月09日 | ・和心な本、琉球な本

「琉球のユウナ③」(響ワタル著/白泉社)
(↑画像クリックでamazonにジャンプ)

 

引き続き、雑誌では一切読んでいないので、

えっ、もう!?

という印象。

まだ先、と思っていたので
嬉しい誤算。

 

琉球のユウナ関連過去記事→ 1巻 2巻

 

 

今回も楽しく読ませてもらいました

 

3巻で新しく出てきた琉球史ポイントは、

琉球七御嶽

 

それから新キャラ

居仁

赤犬子。

 

 

居仁はぶっ飛びましたなぁ…。

少女漫画的恋愛展開としても
いつか出てくるだろうとは思ってたけど
このようなキャラだとは
1ミリも思ってなかったので
さすがに度肝抜かれましたわ

なお、ここでの居仁のルビは「いに」
ワタシは最初に触れた知識の影響で「きょじん」派です。
(※「巨人」とイントネーションは違いますー)

 

父・尚宣威の事とか
息子の尚維衡(→首里追放)、
そして玉陵の碑(→息子共々玉陵に入る資格者から除外されている)
ことを思うと
居仁そのものも、どうしても薄幸の儚い女性なイメージがあったのですが、

いやはや……

 

ちなみに☆

尚真は14歳で冊封を受けており、
その時に「王妃」への下賜物が記録されていることから
14歳ではすでに居仁と結婚していた、ということになります。

でも、もしそれが冊封の時点では「形」だけだったとしたら…
それはそれで面白いですね。

尚真と居仁、
マンガで描かれた設定も
そういった作者の裏設定が垣間見えるような気がしました。

 

そういえばワタシ、
居仁はきちんとは描いたことないかも?

華后さん(→尚真の側室で尚清王の母)は何度かあるけど。

(華后さんも今後出てくるのかな(笑)
ややこしくなりそうだから出ないかな)

 

 

赤犬子もいいキャラでした。

確かに彼にまつわる伝承などを読んでると
優等生というよりも、
頑固というか短気と言うか、
癖がある感じなんだよなぁ(笑)

「楽師」としてはもちろん、
不思議な力を持っているという面を前面に。

何かその出生・ルーツに秘密がありそうですね。

トーン貼りの肌は褐色イメージなのかな?

「赤」なだけに。

とかね。

 

 

個人的には
少年尚真と尚徳王長男とのエピソードが
気に入りました。

 

そうそう、
金丸が王になる前の尚真(やオギヤカ)の
暮らしや生き方(→ )を想像するとね、
また面白いのですよね…。

 

そして、
その後の結末が描かれるのが、また憎い…

 

 

というわけで、
作者が史実を踏まえた上で
出来事や人物をどう創作・アレンジしているのか、

今回も元ネタなどを予想・想像しつつ
マニアックに楽しませてもらいました☆

 

4巻も楽しみです。

 

「琉球のユウナ」から
琉球史に興味持ってくれる女子が増えたらいいなぁ~。

そんな意味も込めて、
単なるレビューというよりは、
ベースとなる歴史・史跡もふわ…っと紹介しつつ…の記事でしたっ。


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リテイク版・鄭義才

2019年04月07日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

『琉球戦国列伝』リテイク版、

3人目は、

 

鄭義才(ていぎさい)

 

 

【人物データ】

南山王他魯毎の使者として登場。
後に久米村ナンバー2の長史となり、
尚巴志の使者として明国へ渡り、
第一尚氏初期の対明外交を支えた。

子孫も通事や貿易船の船長として活躍し、
薩摩侵攻時の三司官・鄭迵(謝名親方)も、子孫の一人。

 

 

『琉球戦国列伝』では顔のみのサブキャラ扱いでしたが、
『三十六の鷹』に出てきたので全身の昇格リテイク。

武人じゃなくて文人だろうけど、
子孫の謝名親方のイメージも含めて、
護身術くらいは身につけてて
ある程度強そうなおっちゃん…をイメージ。

 

(本では、幼稚園の園長先生をイメージして描いてたので
リテイク版とはいえ、絵的にはかなり変わりました(笑))


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もうひとつの、尚徳王の墓

2019年04月05日 | ・琉球史散策/第一尚氏

第一尚氏最後の王、尚徳。

21歳で王位につき、
29歳の若さで急死。

その直後(または直前)に起こったクーデターとの関係で
毒殺されたとも、
自殺したとも言われています。

第一尚氏各王の遺骨は
元の天山陵から離散したとはいえ、
それぞれの場所で各王の墓として今に伝わっています。

→ 第一尚氏墓リスト

 

 

現在、識名に
「尚徳王陵墓跡」というものがあります↑

これは尚徳の養育役であった安謝名が
識名・上間地区の支配者であったため…
という由来だそうです。
(参/那覇市観光資源データベース

 

安謝名が尚徳の遺骨を持って逃げて、この地に安置した…
とか、そう説明は無いんだけど、どうなんだろう。
なぜここが尚徳王陵墓跡になっているのか
いまいち腑に落ちない気もします。

 

別説では
尚徳王の王子の守役の安座名大主が
クンダグスクから王妃や王子(世子)など
7体の遺体を運んできて葬った場所…
なのだとか。
参/『琉球王国の真実』(伊敷賢著)


どっちにせよ、
尚徳本人ではないよね…?

 

そもそも尚徳は病死・毒殺・自殺ではなく
実は生きていて逃亡したとの説もあり、
遺骨があったのかも謎なので、
この王陵もあくまで伝承の範囲。

まぁ、それはいいんですが、

この識名の陵墓跡については、石碑が折(ら?)れていて
いまだにそのまま…という因縁じみたものを感じて
これがまた奇妙なんですよねぇ…。

なんなんでしょうねぇ…。

 

 

さて、その死が謎なら、

その墓についても一筋縄ではいかず、

尚徳王の墓とされているものは
ここ以外にもあるのです。

 

そう、
舜天王統最後の王、
義本の墓が複数か所  に伝わっているように、

第一尚氏王統最後の王、
尚徳の墓が数か所に伝わっている。

そのこと自体、
穏やかではなかった王の最期や、
時代の空気を感じさせます。

 

+

 

今回は、色々ある中の一説をご紹介。 

 

クーデターが起きたとき、
北に逃げた尚徳は、そこで病死し、葬られます。

 

その場所は、奄美群島、

 

喜界島。

 

 

 

…に、行ってきました。

訪問に際して
喜界島に伝わる尚徳の墓の場所を調べましたが、
事前に分かったのが志戸桶という地域であることと、
実際のお墓の写真のみ。

 

……とりあえず、志戸桶に行ってみよう。

で、あとは地域の人に聞けばなんとかなるだろう…。

 

 

しかし、全然人と出くわさない。
これは難航するか、
はたまたたどり着けないことも覚悟しつつ、

島の外周である喜界島循環線を走らせていると、
墓地が。

 

現代の墓地なので、私はなんとも思わなかったのですが、
(私は尚徳の墓は他の王墓と同じように単独であるイメージがあった)
オツレサマがビビビッと来たらしく、Uターン。

 

墓地に入ってみると……

 

 

ん、ん、ん……!??

 

あの花ブロックは……!!

 

なんと迷うことなく、一発でビンゴ!

 

 

階段を登って、1番奥、1番高い所に
それはありました。

 

 

手前には由来の石碑。

 

要約すると、

 

尚徳は喜界島征伐をして帰る時、
当家(※孝野家)の娘・カミーを妻を連れて帰り、妻にした。
3名の子を授かったが、クーデターが起き、
妻(カミー)と長男は喜界島に逃げる途中、
船が転覆して、長男は死亡。
(カミーは一命をとりとめたが、辺士名ノロとなる)

前後して、次男と三男が、
そしてその後、尚徳も喜界島に到着した。

しかし、尚徳は疲労と病に倒れ、数か月後に亡くなった。

尚徳の遺言により、墓は首里を向いて建てられた

 

と。

 

 

 

カミーの実家(孝野家)には後継ぎがいなかったため、
尚徳王次男が養子になって、
子々孫々現在まで続き、

この石碑を建てた孝野武志氏は
その27代目にあたるのだとか。

 

尚徳の墓の手前には孝野家の墓があり、
27代目孝野武志氏も
数年前にお亡くなりになっていました。

 

 

合掌。

 

 

+ + +

 

 

う~む、妻(側室)の故郷とは言え、
自分が張り切って攻め落とした島に、
そして島人に相当恨まれているであろう、そんな場所に、
都を追われて、満身創痍で逃げてこれるもんかなぁ…?
(しかも肝心の、妻・カミ―は帰郷してないし…)

普通に考えたらちょっと厳しい気もするけど……

 

とはいえ、尚徳に限らず
古琉球のお墓は伝承によるもの、
物的確証がないモノがほとんど。

長い間、そう伝わり続けて
今、それとして存在していることには
なにかしらの意味があるのだと、
私は思います。

 

 

+

 

≪追記≫


ちなみに、
『月代の神々』(當真荘平著/1985)に
筆者が喜界島を訪れた際、孝野氏とのやり取りが記録されています。

以下、抜粋↓

骨壺の中の御骨は尚徳王のものであると決定するまでは
首里から漂流してきた偉い人の御骨だ、と
先祖から言い伝えられてきたという。

系図は木製の箱に納められていたが、製本されてなくバラバラになっている。
筆法は確かに、首里・那覇泊系の系譜と同じであるが
どこにも第一尚氏とのかかわりのある名前は探りだせなかった。

首里王府より下賜された辞令書や男物のかんざし、
女物のぢーふぁーも保存されている。

和紙に書かれた家譜には世系図は見当たらない。
辞令書や家譜にも王府の印は押されていない。
(※印入りの辞令書も存在している→

(筆者の同行者が)
「尚徳王の御骨であるという物的証拠もありますか」と質問すると、

「記録はないが、私が確信したのは、
お墓参りをして白紙に神酒をかけて、
尚徳王の御骨であれば赤く染まって下さい、
でなければ黒くなってくださいと合掌したところ、
赤く染まっていました」

「これが尚徳王の御骨であるという証拠で、
25年前に決定(=断定)しました」


……とのことです。

 

とりあえず真意はどうあれ、
そういう経緯があったらしい、
ということは一応書いておきます。

 

※ここは正式な文化財指定などはされていません。
ただ、『第一尚氏関連写真集』(佐敷町教育委員会/1996)には
孝野氏の話と共に掲載があります。

 

 

 

 

とりあえず、
喜界島の尚徳の墓(伝)、
実際に訪問することができてよかったです。

 

尚徳にも、もっと光が当たるといいな。


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喜舎場の石獅子

2019年04月04日 | ・村シーサー/おきなわ石獅子マンガ

 

昨日、シーサーの日にちなんで
八重瀬町の石獅子を紹介しましたが、

せっかくなのでまだ紹介してない
マイ石獅子写真コレクションの中から、
北中城村喜舎場の石獅子をピックアップ。

 

喜舎場公園の中にあります。

(ちなみに喜舎場地区は
コレとかコレとか色々と史跡があるので
史跡散策、オススメします☆)

 

 

鼻と口が前にぐーんと突き出た
ワニタイプ。

胴体の小さい、顔デカさん。

 

さて、村シーサーは
設置されている場所と向きにご注目!

 

↑クリックで地図部分拡大

 

移設はされていますが、元の場所と同一線上、
カニサン(跡)に向かって、
同じ向きで設置されています。

 

 

その視線の先には、
今はなき、カニサンが…。


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八重瀬町、石獅子巡り

2019年04月03日 | ・村シーサー/おきなわ石獅子マンガ

 

先日、
八重瀬町の具志頭歴史民俗資料館に行ってきた時に
手に入れたパンフレット。

八重瀬町石獅子まっぷ。

八重瀬町内にある村シーサー(村落獅子)を巡れるようにまとめたもの。

村シーサー好きのワタシとしては
これは見逃すわけにはいきません。

写真も載っていたので
造形に興味を引いたものと場所で絞って
5つの村シーサー巡りをしてみました!



+ + +

 

 

新城地区には2つの村シーサー。

そのうちの一つ、
北の石獅子。

 

 

…いた!

犬くらいの大きさ。

 

 

体を少し傾けて、
民家と民家の間を、
覗き見ている。

なにこれ、かわいいんですけど…!!

 

 

じーーーーーーっ………

何か獲物でも狙っているときのような……

 

 

正面がこちら。

まあるい顔に、

三角の鼻、

一直線の口。

にやっ。

 

 

大きさといい、

ちょっと傾いた体といい、

立地といい、

造形といい、

表情といい、

妙にかわいい。

 

今回周った中で1番気に入ったのがこれ。

 

+ + +

 

 

同じく新城にある

南の石獅子。

 

 

正面図。

 

基本、北の石獅子と同じ顔のパーツ。

でも妙にきれいなので
復元か、修復かされているのでしょうか。

 

 

かわいい。

でも獅子には見えない(笑)

 

基本、石獅子には「耳」がありません。

稀に、
大型の物や細工の細かい物にはありますが、
後方に倒れているたれ耳

 

今見るオーソドックスなシーサーのような
ぴょこんと飛び出た耳はありません。

 

 

横から見た図。

鼻が高くて
胴長短足。

 

 

やはり外側を向いています。

 

+ + +

 

 

お次は移動して志多伯(したはく)へ。

志多伯には東西南北の4つ(5体)のシーサーがあるようでしたが
そのうちしっかりしたフォルムの
西と南に行ってみました。

 

 

南の石獅子。

これはちょっと迷いました。
※志多伯公民館の敷地内(建物裏)にあります。

 

これも基本、

まん丸い目に

高い鼻に

一直線に割れた口。

 

ただ体は後ろ足の造形がはっきりせず、
個人的には
だら~んと寝そべっているように見えます。

歩くの拒否する犬って
たまにこんなポーズするよね(笑)

 

昔はこの辺が集落の縁だったのかな?

 

+ + +

 

 

もう一つが西の石獅子。

馬場跡と、さとうきび畑の、
隅っこにありました。

 

 

これは今までの中で1番顔の造形がしっかりしてる。

口部分が突き出ている所とか。

鼻の穴もしっかり見えてるし、

首もやや上向き。

胴も短め。

 

 

ぶち柄ですね(笑)

舌を出しているようにも見える…。

 

 

ところで、
宜野湾喜友名の石獅子群の記事でも書きましたが、
村シーサーは立地とか、
どの方向に向かって置かれているのか、
が鑑賞ポイントでもあると思ってます。

造形を見るだけなら写真でもいいんだけど
立地環境を見るためには
やはり直接足を運ぶしかありませんね。

ツイッターでUPした動画→ 

 

この西の石獅子君の視線の先には
丘があって…
調べてみるとテミグラグスクでした。

 

 

+ + +

 

 

最後は小城のニーセー石。

ニーセーとは「青年」のこと。

青年を栄えさせるための守り神として置かれたものだとか。

村シーサーは基本、
村を守るためのマジムンや火除け(火返し)として置かれるものだから
このニーセー石はちょっと意味合いが違うんだろうなー、と。

そのためか、
これまで紹介した4体と見た目も違う。

 

 

立ってます。

高さも結構ある。

 


龍柱のよう。

2つ並んでいる穴は鼻の穴です。
(目ん玉じゃないよー)

 

 

後頭部は修復されていました。

 

視線の向こうには与座岳・南山グスクがあるらしい。

それと関係があるのか、
このニーセー石の背後には
南山にまつわるたくさんの拝所・墓所がいくつかありました。
(南山世按司・南山世女神とか)

 

+ + +

 

ところで、村シーサーって、
村ごとにそれぞれフォルムに特徴があるな!

っていうのが今回気づいたこと。

制作者が同じなのか、
最初に作られたのを模しているのか、
なんか似てるんです、フォルムが。

今回見た新城、志多伯の村シーサーは、

倒した円柱型。

なので各シーサートップは俯瞰図なのです(笑)

 

でも写真で見ると
東風平とかはまたちょっと違うっぽいけど。

 

 

Dee OKINAWANの記事で見た
与那原の村シーサーは

ゴリラ型

 

 

宜野湾喜友名のシーサーは…

正方形?

(でも7番だけ他の6つと違う感じはある)

 

こうやって集落ごとに
フォルムの特徴をまとめてみると
面白いかもしれません♪

 

 

八重瀬町石獅子まっぷを見ると、
八重瀬町にはまだまだたくさんのあるようなので
またいつか機会を見つけて
村シーサー巡り、したいと思います。


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