第一尚氏最後の王、尚徳。
21歳で王位につき、
29歳の若さで急死。
その直後(または直前)に起こったクーデターとの関係で
毒殺されたとも、
自殺したとも言われています。
第一尚氏各王の遺骨は
元の天山陵から離散したとはいえ、
それぞれの場所で各王の墓として今に伝わっています。
→ 第一尚氏墓リスト
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/7f/1a6fe114d31f11342de7d7cf393fcd6a.jpg)
現在、識名に
「尚徳王陵墓跡」というものがあります↑
これは尚徳の養育役であった安謝名が
識名・上間地区の支配者であったため…
という由来だそうです。
(参/那覇市観光資源データベース)
安謝名が尚徳の遺骨を持って逃げて、この地に安置した…
とか、そう説明は無いんだけど、どうなんだろう。
なぜここが尚徳王陵墓跡になっているのか
いまいち腑に落ちない気もします。
別説では
尚徳王の王子の守役の安座名大主が
クンダグスクから王妃や王子(世子)など
7体の遺体を運んできて葬った場所…
なのだとか。
参/『琉球王国の真実』(伊敷賢著)
どっちにせよ、
尚徳本人ではないよね…?
そもそも尚徳は病死・毒殺・自殺ではなく
実は生きていて逃亡したとの説もあり、
遺骨があったのかも謎なので、
この王陵もあくまで伝承の範囲。
まぁ、それはいいんですが、
この識名の陵墓跡については、石碑が折(ら?)れていて
いまだにそのまま…という因縁じみたものを感じて
これがまた奇妙なんですよねぇ…。
なんなんでしょうねぇ…。
さて、その死が謎なら、
その墓についても一筋縄ではいかず、
尚徳王の墓とされているものは
ここ以外にもあるのです。
そう、
舜天王統最後の王、
義本の墓が複数か所(★ ★ ★)に伝わっているように、
第一尚氏王統最後の王、
尚徳の墓が数か所に伝わっている。
そのこと自体、
穏やかではなかった王の最期や、
時代の空気を感じさせます。
+
今回は、色々ある中の一説をご紹介。
クーデターが起きたとき、
北に逃げた尚徳は、そこで病死し、葬られます。
その場所は、奄美群島、
喜界島。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/cb/758d2ae8848957f433725460235f94a4.jpg)
…に、行ってきました。
訪問に際して
喜界島に伝わる尚徳の墓の場所を調べましたが、
事前に分かったのが志戸桶という地域であることと、
実際のお墓の写真のみ。
……とりあえず、志戸桶に行ってみよう。
で、あとは地域の人に聞けばなんとかなるだろう…。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/ec/6aa07ae0704d8724bb5077b78b906844.jpg)
しかし、全然人と出くわさない。
これは難航するか、
はたまたたどり着けないことも覚悟しつつ、
島の外周である喜界島循環線を走らせていると、
墓地が。
現代の墓地なので、私はなんとも思わなかったのですが、
(私は尚徳の墓は他の王墓と同じように単独であるイメージがあった)
オツレサマがビビビッと来たらしく、Uターン。
墓地に入ってみると……
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/0d/4ace5d814fcc7bb8c77753f211de0da2.jpg)
ん、ん、ん……!??
あの花ブロックは……!!
なんと迷うことなく、一発でビンゴ!
階段を登って、1番奥、1番高い所に
それはありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/24/ebfd33ab203667b7b9592af9719abd3a.jpg)
手前には由来の石碑。
要約すると、
尚徳は喜界島征伐をして帰る時、
当家(※孝野家)の娘・カミーを妻を連れて帰り、妻にした。
3名の子を授かったが、クーデターが起き、
妻(カミー)と長男は喜界島に逃げる途中、
船が転覆して、長男は死亡。
(カミーは一命をとりとめたが、辺士名ノロとなる)
前後して、次男と三男が、
そしてその後、尚徳も喜界島に到着した。
しかし、尚徳は疲労と病に倒れ、数か月後に亡くなった。
尚徳の遺言により、墓は首里を向いて建てられた
と。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/fc/e623848f24b8b666266d2d5fd85c9233.jpg)
カミーの実家(孝野家)には後継ぎがいなかったため、
尚徳王次男が養子になって、
子々孫々現在まで続き、
この石碑を建てた孝野武志氏は
その27代目にあたるのだとか。
尚徳の墓の手前には孝野家の墓があり、
27代目孝野武志氏も
数年前にお亡くなりになっていました。
合掌。
+ + +
う~む、妻(側室)の故郷とは言え、
自分が張り切って攻め落とした島に、
そして島人に相当恨まれているであろう、そんな場所に、
都を追われて、満身創痍で逃げてこれるもんかなぁ…?
(しかも肝心の、妻・カミ―は帰郷してないし…)
普通に考えたらちょっと厳しい気もするけど……
とはいえ、尚徳に限らず
古琉球のお墓は伝承によるもの、
物的確証がないモノがほとんど。
長い間、そう伝わり続けて
今、それとして存在していることには
なにかしらの意味があるのだと、
私は思います。
+
≪追記≫
ちなみに、
『月代の神々』(當真荘平著/1985)に
筆者が喜界島を訪れた際、孝野氏とのやり取りが記録されています。
以下、抜粋↓
骨壺の中の御骨は尚徳王のものであると決定するまでは
首里から漂流してきた偉い人の御骨だ、と
先祖から言い伝えられてきたという。
系図は木製の箱に納められていたが、製本されてなくバラバラになっている。
筆法は確かに、首里・那覇泊系の系譜と同じであるが
どこにも第一尚氏とのかかわりのある名前は探りだせなかった。
首里王府より下賜された辞令書や男物のかんざし、
女物のぢーふぁーも保存されている。
和紙に書かれた家譜には世系図は見当たらない。
辞令書や家譜にも王府の印は押されていない。
(※印入りの辞令書も存在している→★)
(筆者の同行者が)
「尚徳王の御骨であるという物的証拠もありますか」と質問すると、
「記録はないが、私が確信したのは、
お墓参りをして白紙に神酒をかけて、
尚徳王の御骨であれば赤く染まって下さい、
でなければ黒くなってくださいと合掌したところ、
赤く染まっていました」
「これが尚徳王の御骨であるという証拠で、
25年前に決定(=断定)しました」
……とのことです。
とりあえず真意はどうあれ、
そういう経緯があったらしい、
ということは一応書いておきます。
※ここは正式な文化財指定などはされていません。
ただ、『第一尚氏関連写真集』(佐敷町教育委員会/1996)には
孝野氏の話と共に掲載があります。
+
とりあえず、
喜界島の尚徳の墓(伝)、
実際に訪問することができてよかったです。
尚徳にも、もっと光が当たるといいな。