昨日、2/28(金)の沖縄タイムスの見開き特集
「首里城 時代の地図②」は
第一尚氏王統について、でした。
15世紀後半、
志魯・布里の乱で首里城が消失した後に再建され、
なおかつ、尚泰久王・尚徳王・尚円王時代の
首里城正殿のイメージ図を、
様々な資料を元に描きました。
このイラスト、もともとは
10/2に行った桜坂劇場×ボーダーインクでの特別講座用に
描き下ろしたものです。
今回の特集に際してお声かけいただき、
一部加筆修正を加え、掲載と相成りました。
(講座参加者さんは
どこが変わったのか「間違い探し」してみてくださいね(笑))
ビジュアル化に伴って参考にした資料は
主に「朝鮮王朝実録」にある来琉した朝鮮人による目撃証言記録と、
実際の発掘調査報告書。
イラストと一緒に提供した
パーツごとの作画根拠メモ。
これらのメモは記者さんが整理して
掲載してくれましたが、
せっかくなので
スペースの都合上カットとなった部分や
解説の補足をしてみたいと思います。
まずは大きさ比較。
平成復元の首里城正殿(→以下「今の正殿」と表現させていただきます)と
同アングルで重ねてみたの図。
15世紀後半の正殿は、
発掘調査で建物の礎石や基壇の遺構が出土していて
それによると、
今の正殿のひとまわり小さいくらいです。
なお、正殿の位置は、今の正殿と同じで西向き。
ですが、6メートルほど奥に引っ込んでいたようです。
(※上の重ね写真は大きさ比較のためだけのものなので
奥には引っ込めてはいません)
参/『首里城跡―正殿地区発掘調査報告書―』
(沖縄県埋蔵文化センター/2016)
基壇の遺構については
出土した通りの雑石積なのか、
それとも出土したのは裏込め石で、
実際はきれいな布積みだったのか、
判断が分かれるところです。
(布積みだったとすると、じゃあ階段との接合部分はどうなるのか
…という問題も出てくるようですが…)
参/『首里城正殿基壇の変遷(首里城研究NO.2)』
(安里進/1996)
掲載イラストでは安里先生の見解を採って布積みにしましたが、
実は出土した状態のままの
雑石積バージョンも描いていたのでお披露目。
こんな感じ。
だいぶ雰囲気が変わりますね。
発掘された基壇は70~80度の勾配もあったようなので
雑石積バージョンではそのようにもしていましたが、
きれいな布積みに変更するに際しては、
傾斜も敢えて垂直に直しています。
なお、出土した階段部分はきれいな布積みの状態で残っていたため、
石の大きさや積み方はこの階段に合わせて描きました。
(…が、もうちょっと大きな石にしてもよかったかもしれないな)
布積みと一言で言っても色々ありますからね。
今の正殿の石積みとも、またたちょっと変えてあります。
+
次に、屋根について。
首里城の屋根はずーっと赤瓦なのではなく、
その前は灰色瓦、さらにその前は板葺き、
…という変遷があることは、
だいぶ色んな所で語られるようになったので
知っている、という人も多いはず。
今回の筆頭参考文献の李朝実録の目撃証言では、
屋根について、こう書いてあります。
参/『朝鮮王朝実録 琉球史料集成 訳注編』
(池谷望子・内田晶子・高瀬恭子編・訳/2005)
証言1 梁成ら(1456年漂着、1461年送還)
「その閣は覆うに板を以てし、板上は鑞を以てこれを沃す。」
屋根は板葺きで、
「板上」は鑞(金属塗料。錫か)がかかっていた。
この表現から、
板葺きの屋根全体が金属塗料でおおわれていた
とも読めます。
実際、そう解説している本もあります。
でも、私は
屋根全体をシルバー(金属塗料)には描きませんでした。
なぜか。
証言2を見てみましょう。
証言2 肖得誠(1460年漂着、1461年送還)
「その閣は皆、丹雘を着け、覆うに板を以てこれを沃す。
毎鷲頭に鑞を以てこれを沃す。」
板葺き、というのは同じですね。
しかし、「鑞」については、
「(毎)鷲頭に」としています。
鷲頭とは、
殿閣・門楼など大建築の大棟の両端の飾りのこと
『朝鮮王朝実録 琉球史料集成 訳注編』
いわゆる、日本でいうと鬼瓦のこと。
それを知ると、
証言1の「板上」というのも、
板葺きの屋根そのものの上(表面)、ということではなく、
板葺き屋根の、上の部分、つまり「大棟」を指している
とも読めます。
実際、板葺き建築の様式を見ても、
大棟(及び鬼瓦)は灰色瓦であり、
この灰色瓦の光沢を、朝鮮人らが「鑞」だと
勘違いした可能性は大いに考えられます。
参/『沖縄の名城を歩く』(上里隆史・山本正昭編/2019)
少なくとも、
板葺き建築上、他に事例がない、
「屋根全体を金属を塗った板葺き建物」
というものよりは現実的です。
というわけで、
「板上に鑞」は
大棟を指していて灰色の棟瓦、
という解釈で描きました。
+
さて、先ほどから「板葺き」と言ってますが、
板葺きについて。
板葺きには
「檜皮葺(ひわだぶき)」
と
「杮葺(こけらぶき)」
があります。
素材も違いますが、
檜皮葺のほうが目が細かくて密度があって
「高価」な屋根になります。
詳しくはこちら!
全国社寺等屋根工事技術保存会
じゃあ、首里城の板葺きはどっちだ?!
ヒントとなったのが「玉陵」です。
玉陵は創建(1501年)当時の
首里城を模したのではと言われています。
(なので大棟の造形も玉陵のものを参考にさせてもらいました)
玉陵、墓室の屋根です。
う~ん、見上げる感じだとよくわかりませんね。
では、空から見てましょう。
この形状は明らかに檜皮葺ではなく杮葺!
杮葺き決定!
ところで、
杮葺の首里城……
実は、写真に残ってるんです。
いや、マジで。
それがこちら!
(「首里城復元期成会会報第10号」より)
そうです。
実は、平成の復元の時、
正殿屋根は杮葺で作られていたんです!
今回の復元工事では屋根荷重の軽減や
耐久性を高める目的で、
下地は椹板を竹釘で留める杮葺とし、
その上に土を使わずに瓦を葺く
空葺工法を取り入れた
参/『首里城の復元―正殿復元の考え方・根拠を中心に―』
首里城公園友の会編/海洋博覧会記念公園管理財団(平成15)
杮葺の首里城が現代によみがえっていた!
というわけで、
色的にも、きっとこんな風に木肌の色だったはずです。
もちろん経年変化で茶にはなっていっただろうけど。
+
この時期、唐破風はまだありませんが、
中央部が張り出した「向拝」形式だったのでは、
との見解もあります。
向拝とは、例えばこういうの。
ですが、朝鮮人の「勤政殿の如し」に従って
ここではひとまず、向拝なしを採用しました。
+
正殿周辺の建物について。
どうやら、周辺に建物はあったらしいことが
うかがえます。
証言2では
「廊廡は、周回連接し」
とあります。
廊廡とは、
正殿に付属した細長い建物
『朝鮮王朝実録 琉球史料集成 訳注編』
ということで、
イラストにも描いています。
また、南殿の発掘調査でも
この時代に相当する遺構がでています。
参/『首里城跡―南殿・北殿跡の遺構調査報告―』
(沖縄県教育員会/2015)
「南殿」は薩摩侵攻後に造られたとされていましたが、
それ以前の15世紀から、
何らかの建物があったことが分かっています。
ただ、残念ながら建物の姿かたちは不明。
なお、南の建物は正殿に対して
90度に建てられていたようです。
ということでは
御庭も今みたいに歪んではいなかった、
ということも分かりますね。
北殿に関しては、
発掘調査でも
遺構の損傷が激しくて
よくわからなかったようです。
一応、北殿の創建は
尚真代の1506~1521年頃とされているようですが
(『首里城の復元―正殿復元の考え方・根拠を中心に―』)
はっきりしたことは分かってないようです。
尚真王代の最盛期、16世紀に入ると
首里城にどんどんリフォームが加えられていきます。
正殿も、欄干や龍柱の付き、
城壁も拡張(→外郭)されます。
1534年の冊封使・陳侃による記述も加えていくと
この首里城イメージ図もまた少し変わっていきます。
実はそれバージョンも少しあるのですが、
落書きメモ程度なのでここでのお披露目は控えます(^^;)
そのうちに…、とは思っているので
どうぞお楽しみに。
(と言ってもいつになるかは不明(^^;))
+
今回15世紀後半の首里城正殿イメージ図として
ビジュアル化してみたものの、
もちろんこれが「絶対の正解」ではありません。
文献や発掘も含めた資料の解釈も色々あるし、
今後新たな発見や見解も出てくることでしょう。
絵として至らない点も多々あるかと思います。
なので、あくまでもこれは
現時点での「暫定イメージ図」であることは
ご了承下さい。
資料解釈に誤りや不十分な点があれば
ご教示いただければ幸いです。
作画するにあたって
たくさんの方々の研究を参考にさせていただきました。
文献の編訳、
発掘、資料整理、編集はもちろん、
それら文献や報告書を
分析・研究し発表された先生方などなど、
首里城研究に携わってきた全ての方々に敬意を表します。