マクロレンズで練習写真。
これ
な~んだ
まるで
バラのよう。
食用菜の花…のような。
答えは、
すべて紫陽花の断片でした。
先の記事はケータイ写真だったので、
デジイチ写真で満開のよへなあじさい園。
しとしとと雨が降ったり止んだりの
なかなか風情のあるお天気でした。
数日前の、晴れの日が続いた影響で
所々こげて傷んでしまった紫陽花も・・・。
訪れるなら、今かも。
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雨の日の写真が撮りたくて、
午後、いそいそと近くの公園に出かけたけれど、
途中、どしゃ降りになって雨の日散歩、失敗
(足元、背中、肩、ずぶぬれになっちゃいました)
夕方、しとしと降りになったところを、
マクロレンズを持ち出して
庭先の植物を撮ってみたりする。
マクロ…難しい…。
なかなか思ったところにピントが合ってくれなくて、
距離感もまだうまくつかめなくて
ピント合わせに時間がかかる・・・
現在のところ、
1センチまで接写可能なコンデジCX1のほうが
まだ使い勝手がいいです(笑)
(ああ、でもボケ具合はやっぱりマクロレンズには敵わないか…)
マクロレンズ、一筋縄ではいかなさそうです(笑)
明日は早起き、
できるかな。
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さ、百十踏揚行脚。
第6代王・尚泰久
↓
第7代王・尚徳
と続きまして、
お次はクーデターを起こして第一尚氏王統を滅ぼし、
第二尚氏王統を立ち上げた「金丸」の話。
尚泰久王の頃からの臣下であり、
王の右腕として絶大な権力も誇っていた金丸。
しかし、若く、血気溢れる尚徳王との衝突により
一時、王府から身を引き隠居します。
■内間御殿■
(手に負えぬ・・・・・・)
金丸は、砂を噛むような気持ちで口を噤むほかなかった。
金丸のような老練な政治家と、
若く才気に溢れた青年王では、
意識に大きな落差が生じるのは避けがたいことであった。
(遠ざけられる……)
金丸には、自分の手を離れて自立してゆく青年王の凛然たる姿が見える。
しかしそれは、金丸に対しては逆に冷然たる姿である。
(誰のお陰で、王になったのだ)
「百十踏揚 625-」より (与並岳生著/新星出版)
金丸と尚徳王の衝突は、
王の久高島行幸で決定的となる。
「これほどまでに申し上げておりますのに、
敢えて典例を壊すをなされると仰せならば、
お諌め申したこの金丸めも、覚悟がございます。
どうぞ、この金丸めをお斬りなされて、
しかるのちに籠をお立てくださりませ」
金丸もこの頃には、尚徳王に見切りをつけ、
ひそかな野心を胸に沸かせつつあったと思える。
だからこそ、恐れることなく、
むしろ群臣に、「さすが――」と思わせるようなパフォーマンスをして、
ここぞとばかりに、執拗な「哭諌」を演じてみせたかもしれない。
この“与那原事件”の後、
《王、暴虐日に甚だしく、金丸しばしば諌むれども聴かず》
――という、(金丸の側からは)手に負えない状態になっていった。
金丸は、天を仰いで嘆息し、ついに致仕して、
領地の内間村に隠れた。
これが成化4年(1468)戊子8月9日、
金丸54歳の時である。
金丸のこの「隠棲」が、クーデターの引き金で、
その8ヵ月後に、尚徳王は「遽焉として薨逝」した、
というわけである。
「百十踏揚 639-」より (与並岳生著/新星出版)
クーデター派は、世子と王妃、王母をはじめとする王族、
そして近臣を殺した後、
王の乗り物たる鳳輦(ほうれん)を担ぎ、
龍衣を捧げて金丸の隠棲する内間村に向かった。
しかし、金丸は、さすがに老獪である。
表面「大いに驚」いて曰く―――
《臣を以って君を奪ふは忠なるか。下を持って上に叛くは義なるか。
爾(なんじ)等、宜しく首里に帰りて、貴族賢徳の人を択びて君と成すべし》
そのように言って、はらはらと涙を流した。
しかし、この時の金丸の「涙」はいかにも嘘っぽい。
要するに「演技」的なのだ。
自分ではなく、首里に帰って、貴族賢徳の人を選んで立てよ
――などと、あたかも尚王統に忠義てするかのような
謙譲さをみせていくわけである。
しかし、そのように「前」王統に対する忠義の心らしく見せながら、
玉城に隠棲する金橋、多武喜王子(※)らの名前は、示唆していない。
金橋や多武喜は、れっきとした尚王統の後嗣であり、
本来なら、金橋王子こそ、
王になるべきであったはずなのだ。
(※ 尚徳王の異母兄。尚泰久王の正妃の子、百十踏揚の兄)
金丸は王位に就くことを固辞し、
海岸に逃げ隠れる“演技”までやってみせる。
茶番もいいところだ。
群臣は「逃げる」金丸を追いかけて行き、
懸命に請う。
追いすがられて、金丸は、
隠居の普段着を仕方なく脱いで、
龍衣(王衣)を着て首里へ登り、玉座に座った、
というわけだ。
そして、
「尚円王」
―――と名乗るのである。
「百十踏揚 646-」より (与並岳生著/新星出版)
引用がかなり長くなってしまいましたが・・・
こちら、内間御殿は隠居したいた金丸の住居、
そしてここに、王衣を携えて臣下がやってきた、
というわけです。
ここ、内間御殿は西原の住宅街の中にありますが、
フク木で囲まれ鬱蒼とした雰囲気を漂わせておりました。
この内間御殿の存在は、実はワタシも今年になって初めて知りました。
知るきっかけになったのは、こちら。
今年の2月に起こった地震です。
この地震は勝連城跡をはじめ、
ここ内間御殿、
糸数城跡など様々な史跡に被害を与えました。
石垣全体的に傾いて、
ロープや鉄筋、シートでガードされておりました。
おとといくらいも夕方に地震があって。
大丈夫だったかな?
さて、金丸(尚円王)。
この後、百十踏揚の後夫であり、自身の忠臣「大城賢勇」も討つことになります。
以後、現在に続く「琉球文化」を花開かせ、
400年あまり続く第二尚氏王統を築き上げた偉大な王・金丸ですが、
「肝高の阿麻和利」でも策士として裏で王府をあやつり、
小説「百十踏揚」でもフォローなきその黒幕悪役っぷり
歴代の王が短命で次々と代わり不安定な王統の中で、
護佐丸、阿麻和利、金丸、大城賢勇と、
誰もが野心を抱いたあの時代。
歴史は、勝者によって書き記されるものですが、
はてさて、その真意はいかに。
あなたはどのように考えますか?
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予報どおり、朝からの沖縄です。
雨音と、ひやっとした気温が心地よい。
雨が降ったら早起きして出かけよう…と思ってましたが、
昨日の会合で寝るのが遅かったので
早起きは無理でした…
明日、がんばります(笑)
さて、手ぬぐい紹介。
「そ」で購入した桔梗手ぬぐい。
かまわぬ謹製、注染。
ぼかしもない、昔ながらのシンプルな柄ですが、
浴衣みたいだなと思って購入。
沖縄に、桔梗の花はないことはないですが、
一般的にはあまり見かけません。
桔梗のつぼみってすっごいかわいいんですね!!
去年初めてみて(識名園で)、びっくりしました!
ぷく~っと。
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第一尚氏王統、最後の王様、
尚徳(しょう とく)王の陵墓跡です。
実はこの写真は去年の5月中旬に撮った写真。
識名園に行く途中で偶然出くわした史跡です。
住宅街の、道路沿いにポンっと立っておりました。
尚徳王はワタシのブログにしょっちゅ~出てくる
阿麻和利の時代の尚泰久王(6代王)の第3男児(側室腹)。
21歳で即位し、29歳で急死します。
この急死こそが、第一尚氏王統最後のミステリーなのですが…
というわけで、百十踏揚行脚。
■尚徳王陵墓跡■
尚徳王が薨じたのは、成化5年(1469年)4月22日(太陽暦六月2日)である。
在位9年、寿29という若さであり、
その死は、明国皇帝の勅書にも
〈遽焉として薨逝〉
とあるように、いかにも「急死」の印象がある。
王府正史を読むと、彼は「暴虐王」として口を極めて罵られ、
そのしつこいまでの書きぶりから、
「殺された」印象が強い。
琉球王府四史書は、筆をそろえて尚徳王の“悪政”を
激しい語調で罵っている。
*
前王をこのように悪し様にこき下ろし、
代わった王の徳を賛美するのは、易姓革命の常であるが、
とはいえ、尚徳王に対するしつこいばかりの悪罵は極めつけといえる。
もちろん、それら王府史記のすべてが、
尚徳王を滅ぼした金丸―――尚円王統下に編纂され、
金丸(尚円王)の「徳」を称えるために、
その対極に尚徳王を置いているわけである。
したがって、尚徳王の業績は覆い隠されてしまっているわけだが、
しかし、尚徳王の治世で特筆すべき業績も多かったのである。
この点、見落とすべきではないだろう。
「百十踏揚 631-」より (与並岳生著/新星出版)
今では、尚徳王暗殺説が一般的なような気がします。
尚徳王の父、尚泰久王の右腕として知恵と権力を誇っていた金丸は
尚徳王と対立し、内間村に隠居します。
そして、尚徳王薨去直後に金丸(派)によるクーデターが勃発。
尚巴志に始まった第一尚氏王統は終わりを告げ、
血のつながりが全くない金丸が「尚円王」と名乗り、
第二尚氏王統をスタートさせてゆくのです。
どうしても尚徳王の急死は、金丸(派)によるもの、
という感が強いですね。
7代続いた第一尚氏のお墓。
2代尚巴志~4代尚思達のお墓は読谷村の佐敷森、
6代尚泰久のお墓は玉城の冨里、
7代尚徳のお墓はこちらの那覇市識名、
三山統一の実行者・尚巴志が父をたてたゆえの、
1代目尚思紹のお墓は佐敷にある佐敷ようどれ(※未体験)、
・・・…あれ?
第5代の尚金福王のお墓はどこだ…?
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つ、ついに手に入れてしまいましたっ!!
ワタシのデジイチ君、LUMIX G1用のマクロレンズ、
LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm F2.8 ASPH.
た、高かった・・・けど奮発してしまいましたっ
このレンズの半額のパンケーキレンズとも迷いましたが、
カメラ屋さんでいろいろ聞いて、やっぱりこのマクロレンズに決定。
価格.comで、定価の約6.5割で買えました(送料込み)
早速デスク上で試し撮りをしてみると、
ピント合わせでレンズがウィーンウィーン言ってる(笑)
おお、メカって感じ。
たくさん撮って早く慣れたいです
さ、週末はマクロレンズもって どこ行こう?
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暮れ行く青に包まれて、
群青色に染まる、
残波岬の灯台。
こちらは夕日を浴びた灯台。
ピンク色のラインと、
藤色のコントラスト。
(尚、真っ白の灯台はこちらから)
撮影/コンデジRICOH CX1
ああ、今日は疲れた…
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「手ぬぐい日和」で手に入れた紅型デザイン手ぬぐいその2。
(その①はこちらから)
ヤギセイ謹製。
これは風呂敷用のデザインをアレンジしたものですね♪
本当の紅型染めだと、型染めではなく筒引きという手法を取ります。
型紙を作らずに、
ケーキのクリーム絞り袋みたいなものに糊を入れて
直接糊で柄を描いていきます。
なので、型染めに比べて
太くて勢いのある線の表情と、大柄で大胆なデザインが特徴。
もちろん、注染っ
本当は松なんかだと、角隈っていって
葉の中心を分断するような隈が入ったり、
笹の葉や梅なんかも、中心だけじゃなくて
先にも隈が入ったりするんですが…
ま、注染じゃ無理ですがね(特に角隈)
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今日の龍馬伝のコーナー。
武市さん、泣かす……
人間くさい武市さんが見れて良かった。
今日の龍馬伝はいろいろな人の葛藤ぶりがあってよかったです。
弥太郎から龍馬に長次郎さんに金八先生(笑)、お富さんも。
誰が世の中を動かしているのか。
世の中の流れが変わると、以前の英雄が罪人になる。
「わしらはなんも、まちがっちょらん!」
本当は分かっているけれど、それを認めれば
これまでの生き様を全否定することになる。
侍の生き様。
なんか、色々と考えさせられました。
*今日の一言*
「おまけとは、物じゃのうて、人の心じゃ」(BY弥太郎)
でも、ラスト1分に出てきた新撰組ーっ!
ちらっと出てきた原田泰造の近藤勇…。
ごめん…ちょっと笑えた(笑)
やっぱりどうもコスプレ感が…(笑)
※原田さんは好きですよ。
原田さん若いからかなーって思ったけど、
原田さんの今の実年齢のほうが当時の近藤勇より上か!
うはっ!∑(゜д゜;
写真は「龍馬歴史館」より牢獄の武市瑞山の図。
今日もご訪問ありがとうございます。
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どうもその時々で偏るこのブログ
ここ数日は「カメラ女子」&「手ぬぐい」モードで
琉球史から遠ざかっていましたので…
「テンペスト」でも「百十踏揚」でもないグスクめぐりの記事を。
南城市大里にあります、大城城跡です。
GWの時に行きました
大城城跡は特に行きたかったというわけではなく、
車を走らせてたら表示があったので行ってみようか、と。
急な坂道を車でえんやこらと登りきると、
山の頂上の原っぱに着きました。
立派な城壁が残っているわけではなく、
ここら一帯が大城グスクとなります。
さて、最後の大城城主、真武のお話。
時は14世紀後半。
まだ三山が統一される前の話。
当時、島尻一帯で勢力を誇っていたのは
島添大里按司、汪英紫(おおえいじ)。
しかし、隣に位置するほど近い大城按司、真武だけはは汪英紫に従わず、
独立した勢力を誇っていた。
汪英紫は大城城を手中に収めようと
何かといろいろとふっかけて来る。
いちゃもんをつけてくる汪英紫に正論で返す真武。
怒った汪英紫は
戦仕度を整え、大城グスクを攻めた。
汪英紫の動きを察知した真武も兵を出し迎え撃つ。
両軍の武将同士の激しい戦闘の末、
勢いをつかんだのは大城グスクの真武軍だった。
汪英紫軍を蹴散らし、勝ち鬨をあげた。
しかし、喜び踊るあまり、
大城陣営の旗手がうっかりつまずいて軍旗を倒してしまった。
さて、大城グスクに残って遠目にことの成り行きを見ていた真武夫人。
彼女は戦にでる真武とある約束をしていた。
「勝ち戦なら軍旗を高々とあげ、負け戦なら軍旗を倒す。
もし、軍旗が倒れたら城に火をつけ、子どもをつれて逃げよ」
倒れた軍旗を見た夫人は、
「もはやこれまで」
と、城に火をつけた。
勝ち戦から帰路についた真武は、
城が燃えていることに気づき、自刃して果てた。
参考文献/「第一尚氏物語」(大盛永意著)
こらーっっ!!∑( ̄д ̄;)
・・っていいたくなるエピソードですが…。
さて、その真武の子ども。
一説では琉球を統一した尚巴志王の、祖父・佐銘川大主の妻になっているとか。
(※先代大城按司の妹だという説も。「第一尚氏物語」では妹説)
まー
とにかく、尚巴志と大城按司とは繋がりがあることは確かなようです。
さて、大城グスクをあっちゃこっちゃ探索してると、
古いお墓がたくさんありました。
手を合わせて、うーとーとー。
ちなみに、大城按司(真武)のお墓ではありません。
大城按司の墓は「ボウントゥ御墓」と呼ばれ、
独特な形をしている(BYガイドブック)のですが…
・・・…探せませんでした
標識は見つけたんだけどな~。
またいつか、リベンジ。
グスクを体感して知識を得る。
知識を得てからグスクを体感する。
知識と体感が一緒になって初めて、歴史は楽しくなりますね。
今日もご訪問ありがとうございます。
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琉球史跡関連記事は同ブログ、『テンペストを読ム』『百十踏揚を読ム』カテゴリにも多数ございます。
まあ、昨日にも増していいお天気!
スカッと真っ青な空です。
風もあるし、湿気も昨日ほどベタベタ感じないので
今日こそ「手ぬぐい日和」ではないですか!
日焼け止め対策、しっかしりておでかけくださ~い
うう~、こんな天気ならワタシもお出かけしたい!
でも今日は掃除と持ち帰ったシゴトday…。
…
…
…
午前中で終わらせて午後は遊ぼう!!(今日チャレ宣言☆)
よーし、がんばるぞ~
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