三山時代の南山は
北山、中山と比べてなんだか複雑。
謎も多く、色んな解釈があって把握しにくい…
というのが根強い印象。
一応、
・南山は王を頂点とするピラミッド型の社会とは少し違う
・南山按司連合の代表が王となる、というイメージ
・南山は更に2つの勢力に分かれていた(島添大里・島尻大里)
・尚巴志はそのうちの1つ(島添大里)を先に滅ぼして拠点とし、中山へとコマを進めた
という具合に、ある程度は把握できたものの(→★)、
それでもまだ人物関係などではもやもやした部分もあり、
分かっているような、わかっていないような…。
そんな中
『考古学から見た琉球史(上)』(安里進著/ひるぎ社/1990)
を読了。
その中で、南山の歴史に触れた箇所があり、
私的にとてもスッキリした部分が多かったので
復習も兼ねて図解してみました!
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まず、南山の区分について。
ザックリ言うと、
考古学的に、出土した土器などの特徴を元に地域分けするとこうなる、
という図です。
(▲はグスク)
・豊見城・糸満あたりのD類主体圏(緑エリア)
・玉城・具志頭あたりのA・C類主体圏(赤エリア)
・そして大里・知念あたりのB類主体圏(黄色エリア)
ここでのポイントは、黄色エリア。
このB類主体圏は南風原まで、
つまり中山のエリアまでつながっているのです。
ということは、考古学的に見ると、
島添大里や佐敷は南山ではなく、中山だった!
はっきり「中山」とは言えずとも、
南山と中山の境界線で、所属があいまいな(ゆるい)エリア、
というのはあるかもしれない。
そう考えたら
・尚巴志が島添大里按司を倒しても南山王とはならない(島添大里グスクは南山王の居城ではない)
・尚巴志が島添大里按司を倒しても南山は特に動いていない
・尚巴志が島添大里按司を倒した後、南山(島尻大里)ではなく中山にコマを進めた
・尚巴志が中山王・武寧を倒した時、そこを南山の領土拡大とするのではなく、そのまま「中山」とし、中山王を踏襲した
というのは確かに合点が行きます。
でも、一方で
グスクの規模的に大きな力を持っていたであろう島添大里グスク・按司が
全く存在感がなくなっているのがひっかかりポイント…ではあります。
また、この解釈(島添大里や佐敷は中山)は現在は一般的ではありません。
これに関してはまた後で振り返ります。
+
次に、緑エリアと赤エリアの権力者について。
文献から見える、南山最初の権力者の名前が2つ。
・1つめが、南山王・承察度(しょうさっと)
・2つめが、南山王叔・汪英紫(おうえいし)。
支配エリアに関しては、
承察度はウフサト(大里)と読めることから緑エリア、
汪英紫はエージ(八重瀬)と読めることから赤エリア、
ではないかというのが本書の主張。
承察度は島添大里グスク関係者だと思っていたので
これまた真逆の展開…。
島添大里グスクが南山ではないという前提になると、
承察度は島尻大里から、糸満ということになる。
(でも島尻と島添の語意からすると、島尻<島添という気もするけど…)
とりあえず、
南山にはこの2大勢力があった、と。
ふむふむ。
+
では次に南山王の系譜図。
本書では、
考古学的に緑エリアと赤エリアの違いは部族の違いであり、
王叔などのように血のつながりがあるような記述は擬制的関係なのだろう、
としていますが、
この図では敢えて文献記述に基づいた線で結んでみました。
中心になるのは文献に最初に出てくる南山王・承察度。
彼を中心に、王叔(汪英紫)、王子、と見て行ってください。
・南山王・承察度の朝貢と同時に、王叔・汪英紫が朝貢している。
・この二重外交の例は他でも見られ、王位継承者(後継者)の証、特権である
・三山時代、王位継承者は一定期間、二重外交をした後で王位が継承されるのが原則であった
・よって、承察度の後継者は、汪英紫であるはずだった。が、まだ正式な「世子」までは行ってなかった
・そのうち、承察度は汪英紫ではなく、我が子の承察度(Jr)を王位継承者にしたくなった
・そこで汪英紫は承察度(Jr)と王位継承をめぐって対立し、結果、承察度(Jr)は朝鮮へ亡命する(『李朝実録』)。
・(この時、中山王察度が、汪英紫に味方して協力している)
・王子亡命後もおそらくいさかいが絶えず、南山王・承察度(温沙道)自身も追われて朝鮮へ亡命する(『李朝実録』)。
・(この時も、中山王察度が、汪英紫に味方して協力している)
・ライバルを追放し、晴れて王位につけることになった汪英紫だが、病気かなんかで死去する。
・よって、汪英紫の子・汪応祖が南山王を引き継ぐことになった
という流れ。
(その後の達勃期、他魯毎に関しては割愛)
(王と世子による二重外交のシステムに関しても興味深いので
この点に関しては是非本で読んでほしいです)
承察度の朝鮮亡命が色々謎ポイントで、
王子は存在せず王そのもの(同一人物)なのだとか、
温沙道と記述されているのは承察度ではなく上里按司だとか、
色々解釈があって取っ散らかっているのですが、
私は今回のこの展開が1番腑に落ちてスッキリしました。
+
さて、
最初の南山勢力図で、
承察度の勢力は豊見城・糸満エリアで
汪英紫の勢力は玉城・具志頭エリア
とありました。
でも、
汪英紫の子の汪応祖は豊見城グスクと関係があるし、
やっぱり規模的にも、
島添大里グスクが南山権力闘争とは全く関係ない只のグスクとは思い難い…。
とすると、
承察度を追い払いつつあった汪英紫が、
次第に勢力を拡大して行って
自分の子ら(汪応祖やその兄弟)を豊見城グスクや島添大里グスクに配置していった…
というのは考えられるな。
参/『新 琉球王統史2』(与並岳生著/新星出版)
島添大里や佐敷は中山(もしくはあいまい)領域だったというのも、
昔はそうだったとしても、
次第に汪英紫が影響を広げていって
南山色が濃くなっていった…とか、ね。
でも、そう(島添大里按司=汪英紫の子)だとしたら、
尚巴志が島添大里按司を滅ぼした時、
一族で繋がっているはずの南山王から
何もアクションがなかった…というのは妙な話ですね。
とするとやはり、
島添大里グスク(按司)と南山は関係がない、
というが自然なのか!?
(RBCドラマ尚巴志では、汪英紫一族同士で仲たがいしていたという設定でしたね)
う~む、堂々巡り。
+
ところで、この本では出てこなかったけど、
三五郎尾も図に入れておきました。
承察度とは叔父と姪の関係。
「姪」と書かれてはいるとは言え、ここでは「甥」と言う意味
というのが一般的でしたが、
言葉通り「姪」、つまり、女性だった!
というのは
『古琉球 海洋アジアの輝ける王国』(村井章介著/角川選書)』より。
と言うわけで髭無しの中性的にしてみた。
女性外交官・三五郎尾もそのうち描いてみたいと思います。