がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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喜界島の勝連屋敷

2019年05月25日 | ・琉球歴史/文化風景

以前、喜界島のリーダー、
勘樽金を描いた記事でも書きましたが
昔、喜界島は勝連とのつながりが濃かったことが伺えます。

 

そんな史跡がこちら。

 

その名も、勝連屋敷(跡)。

 

 

勘樽金の父=勝連親方(=阿麻和利??)の子孫が
荒木からここ白水に移って来た、との口伝もあるようです。

とすると、その勝連親方子孫の屋敷跡、
ということになります。

 

 

また、

"城を作るために勝連親方は、
白水村の勝連屋敷に若い人たちを集め、
力石を持ち上げさせた。
それで力の強い者だけを人夫に選んで送った。"

という伝承も。

その力石というのが、
この石垣の上に乗っている2つの石なのだとか。

 

この伝承で言う城づくりというのが、
伊平屋の田名グスクなのか、
それとも勝連グスクの改築補強工事なのか、

それとも阿麻和利とは関係のない
全く別のグスクなのか…。

 

勝連親方というのが、阿麻和利より後の時代の人物だとすると、
尚真代の首里城増築での動員で…って想像もできますね。

 

 

はるか昔のことはさておき、
この勝連屋敷に住んでいてた「勝家」の人たちは
昭和初期に大阪に移住してしまったとのこと。

その際、名字が「勝」一字では変だから
「勝崎」に改めたのだとか。

一族は他にも、
勝田、勝原、勝山、勝部、勝谷などの姓があるらしいですよ。

 

「勝〇」という二字姓の人は
もしかしたら勝連親方の子孫かも…!?

 

 

立派な門構え。

敷地もかなり広い様子でした。

 

 

これはヒンプンかな?

真ん中の文様が城門のように見えます。

 

 

ところで、
尚徳の喜界島遠征の時、
闇夜に紛れて島の背後に回り込んで上陸したという地
が、
荒木ではなく早町港あたりだった、との説もあります。

早町港はこの勝連屋敷のすぐそこなので、
(荒木出身で白水に引っ越していた)勘樽金
ここで迎え撃ったとも想像することもできますね。

 

参/『真説 阿麻和利考』(高宮城宏著)


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ワット・ポーの琉球人像

2019年05月22日 | ・琉球歴史/文化風景

 

 

タイ・バンコクで最も古いとされている寺院、
ワット・ポー。

ここに、琉球人の像があります。

男性像と女性像。

確かに琉球は大交易時代にシャム(タイ)と
頻繁にやり取りをしており、
シャムで琉球人が見られることも少なくなったでしょう。

 

ということは、
この像は大交易時代の琉球人の姿!?

 

 

先に結論を言うと、


否。

 

ワット・ポーはアユタヤ王朝末期の
ウラペートラチャ王代(1688~1703)の創建で、
ラーマ三世(1824~1851在位)が17年かけて改修した寺院。

ラーマ三世は、シャム(タイ)と交流のあった
諸外国人の石造を刻ませ、
それぞれに簡単な銘文をつけて
建立させたといいます。

そんなワット・ポーにあるであろう琉球人像を、
最初に調べ、著書(昭和16年)で発表したのが
東恩納寛淳。

彼によると、
この像は、近世、19世紀くらいに、
中国装束をさせられて江戸上りした
琉球人行列図を写したものではないか?

男性像の頭部は
ハチマチ+髷+簪だ、

とのこと。

 

でも、今、実際にその像の写真をみると
男性の頭部はどう見ても帽子なんだけど、

制作時に参考にした絵図の
ハチマチ+簪+髷が、
帽子的なものに解釈されて
作られてしまったりしたのでしょうか?

 

 

琉球人像の写真
こちらのブログ記事がおすすめです。

 

こちらの記事の写真を参考にして、
琉球人像をポップにアレンジして描いてみました。

 

いつかタイで、実物も見てみたいですね。

 

参/『走れ思徳』(与並岳生著)


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おきなわ石獅子マンガ(8)

2019年05月19日 | ・村シーサー/おきなわ石獅子マンガ

おきなわ石獅子マンガ、
ふぇ~ぬ新城くん8本目。

 

ツイッターで、
梅雨入り直前にUPしたネタです。

 

うりずんとは、
旧暦の2~3月から梅雨入りまでをあらわす季節の時候。

今年は旧暦4月に入ってしばらくしても
なかなか梅雨入り発表がなく、
やきもき?しましたね。

 

今日は梅雨入り発表(5/16・旧4/12)があってから
最初の日曜日。

お洗濯日和でした


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おきなわ石獅子マンガ(7)

2019年05月18日 | ・村シーサー/おきなわ石獅子マンガ

おきなわ石獅子マンガ、
ふぇ~ぬ新城くん7本目。

前回のつづきです。


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義珍の拳

2019年05月17日 | ・和心な本、琉球な本

 

先日、図書館の文庫コーナーで目に留まった一冊、
『義珍の拳』。

作者は今野敏。

以前読んだ『武士猿』と同じ作者です。

 

表紙からわかるように、空手を題材にした小説で、
主人公は船越(冨名腰)義珍。

船越義珍は、
就職試験(一般教養(沖縄))の受験勉強で、
"空手を本土に広めた人"
として琉球史にハマる前から名前は知っていました。

でもそれ以上の知識はありませんでした。

 

そんなワタシにとって、この小説は、
とても勉強になる1冊でした。

 

王国時代、秘儀として秘密裏に伝承されてきた唐手(とぅーでぃー)を
沖縄で、そして本土で、公に、一般に広めていくことに尽力した義珍。

本土で、沖縄のカラテが高く評価されることの喜び。

と同時に生じる「カラテの本質」が薄れていく危機感や葛藤、
「君子の武道」であるはずのカラテが
実践や勝負に価値を置く「スポーツ」として広がっていく失望感。

廃藩置県、太平洋戦争、戦後と
時代の移り変わりとと共に、
カラテに生涯をささげた義珍の一生が描かれています。

空手の歴史、
名だたる先人たち、
同時代に活躍した空手家たち、
空手の精神や本質にも触れることができます。

 

 

「空手に先手なし」

 

沖縄空手会館の展示室入口のパネル、
中央に大きく書かれているのが
義珍のこの言葉です。

この本を読んだ今、
改めてここを訪れたくなりました。

(空手会館初訪問の時の過去記事 

 

 

実はYouTubeに義珍の動画がちょいちょいあるんですよね…。

ちょっと貼っておきます。

Gichin Funakoshi - 1924 Vintage Footage


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組踊300年もうひとつの“おもてなし”

2019年05月15日 | ・琉球歴史/文化風景

今日、たまたまつけてた夕方のニュース番組、RBC ザ・ニュース。

その中の特集が組踊300年に関連したものでした。

初演の時の舞台(設置)の様子や、
冊封使たちへのもう一つの「おもてなし」、
テレビ初撮影の『火花方日記』など、
見てて、へぇ~!なことが多くて面白かったです。

動画を探したらあったので、シェアします

8分弱くらいの特集なので是非見てみて下さい。

 

RBC NEWS「沖縄大好き再発見 組踊300年もうひとつの“おもてなし”」2019/05/15

 

この花火、復元されたら是非みたいなぁ

願わくば、設置も同じく御庭でやってほしいけど、
火器だからダメかな(-_-;)


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<図解>考古学からみた南山+α

2019年05月12日 | ・琉球史散策/グスク時代

三山時代の南山は
北山、中山と比べてなんだか複雑。

謎も多く、色んな解釈があって把握しにくい…
というのが根強い印象。

一応、

・南山は王を頂点とするピラミッド型の社会とは少し違う
・南山按司連合の代表が王となる、というイメージ
・南山は更に2つの勢力に分かれていた(島添大里・島尻大里)
・尚巴志はそのうちの1つ(島添大里)を先に滅ぼして拠点とし、中山へとコマを進めた

という具合に、ある程度は把握できたものの(→)、

それでもまだ人物関係などではもやもやした部分もあり、
分かっているような、わかっていないような…。

 

そんな中
『考古学から見た琉球史(上)』(安里進著/ひるぎ社/1990)
を読了。

その中で、南山の歴史に触れた箇所があり、
私的にとてもスッキリした部分が多かったので
復習も兼ねて図解してみました!

 

+

 

まず、南山の区分について。

 

 

ザックリ言うと、
考古学的に、出土した土器などの特徴を元に地域分けするとこうなる、
という図です。
(▲はグスク)


豊見城・糸満あたりのD類主体圏(緑エリア)
玉城・具志頭あたりのA・C類主体圏(赤エリア)
そして大里・知念あたりのB類主体圏(黄色エリア)

 

ここでのポイントは、黄色エリア。

このB類主体圏は南風原まで、
つまり中山のエリアまでつながっているのです。

 

ということは、考古学的に見ると、

島添大里や佐敷は南山ではなく、中山だった!

 

はっきり「中山」とは言えずとも、
南山と中山の境界線で、所属があいまいな(ゆるい)エリア、
というのはあるかもしれない。

そう考えたら

・尚巴志が島添大里按司を倒しても南山王とはならない(島添大里グスクは南山王の居城ではない)
・尚巴志が島添大里按司を倒しても南山は特に動いていない
・尚巴志が島添大里按司を倒した後、南山(島尻大里)ではなく中山にコマを進めた
・尚巴志が中山王・武寧を倒した時、そこを南山の領土拡大とするのではなく、そのまま「中山」とし、中山王を踏襲した

というのは確かに合点が行きます。

 

でも、一方で
グスクの規模的に大きな力を持っていたであろう島添大里グスク・按司が
全く存在感がなくなっているのがひっかかりポイント…ではあります。

また、この解釈(島添大里や佐敷は中山)は現在は一般的ではありません。

 

これに関してはまた後で振り返ります。

 

+

 

次に、緑エリア赤エリアの権力者について。


 

文献から見える、南山最初の権力者の名前が2つ。

・1つめが、南山王・承察度(しょうさっと)
・2つめが、南山王叔・汪英紫(おうえいし)。

 

支配エリアに関しては、

承察度はウフサト(大里)と読めることから緑エリア、
汪英紫はエージ(八重瀬)と読めることから赤エリア、

ではないかというのが本書の主張。

 

承察度は島添大里グスク関係者だと思っていたので
これまた真逆の展開…。

 

島添大里グスクが南山ではないという前提になると、
承察度は島尻大里から、糸満ということになる。

(でも島尻と島添の語意からすると、島尻<島添という気もするけど…)

 

とりあえず、
南山にはこの2大勢力があった、と。

 

ふむふむ。

 

+

 

では次に南山王の系譜図。 

 

 

本書では、
考古学的に緑エリアと赤エリアの違いは部族の違いであり、
王叔などのように血のつながりがあるような記述は擬制的関係なのだろう、
としていますが、
この図では敢えて文献記述に基づいた線で結んでみました。

中心になるのは文献に最初に出てくる南山王・承察度

彼を中心に、王叔(汪英紫)、王子、と見て行ってください。

 

南山王・承察度の朝貢と同時に、王叔・汪英紫が朝貢している。

・この二重外交の例は他でも見られ、王位継承者(後継者)の証、特権である

・三山時代、王位継承者は一定期間、二重外交をした後で王位が継承されるのが原則であった

・よって、承察度の後継者は、汪英紫であるはずだった。が、まだ正式な「世子」までは行ってなかった

・そのうち、承察度汪英紫ではなく、我が子の承察度(Jr)を王位継承者にしたくなった

そこで汪英紫承察度(Jr)と王位継承をめぐって対立し、結果、承察度(Jr)は朝鮮へ亡命する(『李朝実録』)。

(この時、中山王察度が、汪英紫に味方して協力している)

・王子亡命後もおそらくいさかいが絶えず、南山王・承察度(温沙道)自身も追われて朝鮮へ亡命する(『李朝実録』)。

(この時も、中山王察度が、汪英紫に味方して協力している)

・ライバルを追放し、晴れて王位につけることになった汪英紫だが、病気かなんかで死去する。

・よって、汪英紫の子・汪応祖が南山王を引き継ぐことになった


という流れ。
(その後の達勃期、他魯毎に関しては割愛)

(王と世子による二重外交のシステムに関しても興味深いので
この点に関しては是非本で読んでほしいです)

承察度の朝鮮亡命が色々謎ポイントで、
王子は存在せず王そのもの(同一人物)なのだとか、
温沙道と記述されているのは承察度ではなく上里按司だとか、
色々解釈があって取っ散らかっているのですが、

私は今回のこの展開が1番腑に落ちてスッキリしました。

 

 

さて、
最初の南山勢力図で、
承察度の勢力は豊見城・糸満エリアで
汪英紫の勢力
は玉城・具志頭エリア
とありました。

でも、
汪英紫の子の汪応祖は豊見城グスクと関係があるし
やっぱり規模的にも、
島添大里グスクが南山権力闘争とは全く関係ない只のグスクとは思い難い…。

 

とすると、

 

承察度を追い払いつつあった汪英紫が、
次第に勢力を拡大して行って
自分の子ら(汪応祖やその兄弟)を豊見城グスクや島添大里グスクに配置していった…

というのは考えられるな。

参/『新 琉球王統史2』(与並岳生著/新星出版)

 

島添大里や佐敷は中山(もしくはあいまい)領域だったというのも、
昔はそうだったとしても、
次第に汪英紫が影響を広げていって
南山色が濃くなっていった…とか、ね。

 

でも、そう(島添大里按司=汪英紫の子)だとしたら、
尚巴志が島添大里按司を滅ぼした時、
一族で繋がっているはずの南山王から
何もアクションがなかった…というのは妙な話ですね。

とするとやはり、
島添大里グスク(按司)と南山は関係がない、
というが自然なのか!?

 (RBCドラマ尚巴志では、汪英紫一族同士で仲たがいしていたという設定でしたね)

 

 

う~む、堂々巡り。

 

 

+

 

ところで、この本では出てこなかったけど、
三五郎尾も図に入れておきました。

承察度とは叔父と姪の関係。

「姪」と書かれてはいるとは言え、ここでは「甥」と言う意味
というのが一般的でしたが、

言葉通り「姪」、つまり、女性だった!

というのは
古琉球 海洋アジアの輝ける王国』(村井章介著/角川選書)』より。

と言うわけで髭無しの中性的にしてみた。

女性外交官・三五郎尾もそのうち描いてみたいと思います。


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おきなわ石獅子マンガ(6)

2019年05月11日 | ・村シーサー/おきなわ石獅子マンガ

おきなわ石獅子マンガ、
ふぇ~ぬ新城くん6本目。

前回のつづきです。

 

 

 

 

円柱の証拠写真がこちら。

 

 

後ろ(お尻)側から見た図。


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奄美大島のゴーパチ

2019年05月05日 | ・琉球歴史/文化風景

GW中の渋滞ポイントと言えば、

北谷や名護(許田、数久田、世冨慶)。

それらに共通している道が
国道58号線。

通称ゴーパチ。

沖縄の西海岸南北を繋ぐ大動脈、
沖縄県民のメインストリートです。

 

ゴーパチ沿いには繁華街や観光スポット、
リゾートホテルが多くあり、
活気に満ちています。

沖縄の道と言えばゴーパチ。

ゴーパチと言えば沖縄。

 

だと思っていたのですが……

 

 

そのゴーパチが奄美大島にも!

調べてみると、
国道58号線は鹿児島市が起点で
海をまたいで種子島、奄美大島、そして沖縄本島奥へと続き、
那覇市の明治橋の所が終点。

「道路」なのに、海を渡る不思議。

そのため、その長さ約880キロ(海上部分含む)!
日本最長の国道なのだそう。

 


※ウィキペディアより(クリックでジャンプ)

 

起点の鹿児島市は西郷隆盛像の所らしい。

昔、行ったことあるのになー。
ゴーパチには気づかなかったな。

残念。

 

 

沖縄のゴーパチは復帰前までは
「1号線」と呼ばれていました。
(軍道1号→琉球政府道1号)

それが復帰して、
新たに58号線としたそうなのですが、

なぜ新しい通し番号などではなく、
鹿児島から繋がる「58」にしたんだろうな?

同じ番号にすることで
敢えて本土との「つながり」を作ったんだろうか。

 

興味深いです。

 

 

 

 

*オマケ*

 

 

飛び出し注意の道路標識。

耳が短いアマミノクロウサギ。


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公設市場で海の幸を買って2階で食べるレポ

2019年05月04日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

老朽化による建て替え工事のため、
現在の場所での影響を一時終了する 
牧志公設市場。

 

<沖縄タイムス>
一時さよなら「牧志公設市場」来年6月16日終了
那覇の名所、仮設は7月オープン


 

無くなるわけではないとはいえ、
この歴史を感じる、古い味わいを楽しめるのは
あとわずか一か月余り。

 

 

那覇市民でもないワタシは
本土の友人を観光案内をしたことはあるものの、
市場で海の幸を買って2階で調理してもらって食べる…
という体験はまだしたことがありませんでした。

いつかはやってみたいなと思いながら、早、幾歳。

どうせ行くなら、
歴史が味わえる今の建物の時に行っておかねば!

ということで、
「公設市場で海の幸を買って2階で食べる」を
初体験してまいりました!

 

 

やはり、今や地元客というよりも
観光客でいっぱいの公設市場。

中国人観光客に合わせて、
売り子のお姉さんも中国人が多い様子。

日本人、しかも沖縄人であることをやや珍しがられつつ、
いよいよ2階に初潜入!

 

2階はフードコートみたいに色んなお店が入っていて
特に1階で何も買わなくても、
普通に食堂として利用できます。

 

 

お店の通常メニューを追加注文して、
それらを飲み食いしながら待っている間に
1階で購入した海の幸がお造りになって届くシステム。
(調理方法はお造り以外にも色々選べます)

新鮮なお造りはもちろん(身がぷりぷり!)、
お店の通常メニューもどれも美味でした♡

お造りにしてもらって
飾りとして乗っかっていた「お頭」は
お店の人に頼んで〆の「味噌汁」に♪
(これは是非忘れずに頼んで!)

 

 

「公設市場で海の幸を買って2階で食べる体験」。
気になった方は、大人1人当たり5000円程度を目安に
是非チャレンジしてみてください。

複数名で行って、
色々買ってシェアするのが吉ですよ!

 

 

もちろん、食べるだけではなく
「観る」ことも忘れずに。

古い看板やポスター、装飾、
公設市場の歴史が分かる写真などもあって、
意外と見どころ満載です。

 

 

↑は那覇市の文化財を紹介しているコーナー。

首里城などの写真があるのですが、
どれも戦前の姿のもの。

おそらく、この掲示物を貼った時は
首里城が復元される前だったのでしょう。

今となっては、むしろ、
復元されたきれいな首里城写真を掲示するよりも価値があります。

 

天上や窓や柱や壁など、
色々細かいところも見ながら
戦後沖縄レトロ感を楽しんでください♪

 

 

 

\合わせて寄りたい/

 

那覇市歴史博物館では
「那覇の市場」をテーマに企画展を開催中!

詳しくはコチラから!

今なら国宝である王冠や、王様の唐衣装も見れますよ


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おきなわ石獅子マンガ(5)

2019年05月01日 | ・村シーサー/おきなわ石獅子マンガ

おきなわ石獅子マンガ、
ふぇ~ぬ新城くん5本目。

前回のつづきです。

 


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