今帰仁村運天にある源為朝上陸の碑から少し下ると
百按司墓(ももじゃなばか)があります。
その名の通り、百(たくさん)の按司の墓
という意味。
よって一人の墓ではなく、
たくさんの人が葬られていた風葬墓です。
どんな人たちが葬られているのかは諸説あって、
「沖縄拝所巡り300」(比嘉朝進著)によると、
①
羽地按司(※=怕尼芝。攀安知のじいちゃん)に滅ぼされた中北山の戦死者の墓
②
後北山が尚巴志に滅ぼされた時の戦死者の墓
③
尚巴志王統が滅び、その看守たちの墓
④
尚徳王の悪政についていけない貴族たちが遁世した墓
⑤
薩摩軍の攻撃で戦死した北山看守たちの墓
などで、一時代の一集団の墓ではなく
いくつかの時代をまたいだ墓だろう
とのことでした。
それだけの規模なのです。
漆塗りの木棺や
また三つ巴の施された木棺も見つかっており、
とりあえず、身分の高い人が葬られていることには間違いなさそう。
ちなみにここで見つかった三つ巴は左三つ巴で、
弘治13年(1500年)と書かれていたと「球陽」にあります。
この弘治13年っていうのは単なる言い伝えじゃなくて
ちゃんとそう書かれていたということが
戦前にも確認されているみたいですね。
『琉球の研究』(加藤三吾/1906年)
『沖縄県国頭郡志』(島袋源一郎/1919年)
『南島風土記』(東恩納寛惇)
…1500年、尚真がアカハチ討伐した年だ。
百按司墓と三つ巴。。。
謎は続く。。。
っていうか、いまだに大北墓碑の右三つ巴が気になる…。
何度も訪れて何度確かめてもやっぱり右↓
やっぱり単なるミスなのか…!?
琉球の三つ巴紋でこの大北墓以外に
右のものって見つけられるんだろうか…。
見たことがある方、是非ご一報を…。
悶々
おっと脱線した
ちなみに百按司墓の漆塗りの木棺は現在は修復され、
今帰仁村歴史文化センターでみることができます
参
『沖縄の拝所300』(比嘉朝進/2005)
『百按司墓木棺修理報告書』(今帰仁村教育委員会/2004)
'10.6に書いた三つ巴を考えるシリーズ、
いまだにこのブログの人気記事にランクイン中…
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