叡山電鉄「八瀬比叡山口駅」に降り立つ。
何年ぶりのことか。
以前は駅名が
「八瀬遊園駅」だった。
八瀬遊園跡地は
会員制ホテルになったらしく
八瀬遊園があった痕跡が
おどろくほどに なにもない。
唯一、
遊園地からいちばん奥のプールへと続いていた長い橋が
その会員制ホテルの敷地内に今もあるのを見つけた。
それ以外は
見事にほぼ痕跡がない。
駅名まで変わっているのだから
一瞬、ここに本当に八瀬遊園があったのだろうかと
マボロシだったんではないかと思ってしまったくらいだ。
いやいや、マボロシであっては困る。
八瀬遊園、のちに「スポーツバレー京都」という名前になったが
スポーツバレーは私のロックのはじまりの場所だからだ。
スポーツバレーで私は
高校1年から3年までバイトをしていた。
はじめてしたバイトがここだった。
入学した女子校がほんとうに肌に合わず
エネルギーを持て余した16歳の私は
高校一年の夏休み、学校で禁じられていたアルバイトでもしようと思った。
フロムAを買ってきた。
どこでもいいから、せーの!で開いたページに載っている場所に
面接を受けに行こうと決めた。
そして、開いたのがスポーツバレーのページだった。
夏休みは毎日
ウォークマンで
Tレックスの「ゲット・イット・オン」
「テレグラム・サム」
「ジップガン・ブギー」なんかを聴きながら
蝉しぐれの中をチャリンコで修学院駅までぶっとばし、
そこから叡電に乗り通っていた。
売店で焼そばをやいたり、
フライドポテトを揚げたり
レストランでランチを作ったりしていた。
けだるくて
でもやはりけだるくはなかった夏の日々。
そしてスポーツバレーが
私のロックの入り口になった。
スポーツバレー内には
「ロック天国」というライブハウスもあり
夏休みにはプロのバンドも来て野外ライブが開催された。
エックスや、ガーゴイルなんかがライブをしてた。
そして、スポーツバレーには
アマチュアバンドを売り出す事務所もあった。
当時の京都の勢いのあったアマチュアバンドのなまえ、今でも覚えている。
ミスキャスト、チェリーキャッツ、アルバトロス…
そして遊園地の従業員には
ロックやってる人が多かった。
↑上記の有名だったバンドのメンバーも働いていた。
有名じゃなくても、これから有名になったろぅというロック少年や
高校生バイトの中でもバンドやってる子や
バンドずきな黒い口紅のおねえちゃんなんかも働いてた。
そんなところと知らずに偶然入った私もまた
ギターを買ったばかりのロック好きな女子高生だった。
スポーツバレーで働いている間
いろんなバンドの人の
ステージではなく、普段の姿をたくさん見た。
高校を卒業してフリーターをしながら
趣味のバンドではなく、メジャーを目指す本気のバンドをしてる男の人たちの日常を。
ステージでは爆発している髪の毛が
ふだんはぺったんこなこと。
メイクをしていない素顔は、意外と幼いこと。
ステージで夢みたいなこと歌ってる人が働いているときはすごく勤勉なこと。
普段着はとてもとても地味なこと。
そんなことなんかを、女子高生の私は知った。
お金がなくても全然平気で笑ってたな。
そんですごく痩せてたな。
私は当時、ギターは持っていたがバンドはやっていなかった。
高3の頃は半年ほど、スポーツバレー関係のバンドのスタッフをしてた。
地方のツアーにも同行したりした。
ドラムセットの組み立てや、ギターのエフェクターのセッティング、
お客へのアンケートの印刷や、メンバーのパシリ。
バンドをやってなかった私は
そこでいろんな景色を見て、
半年でスタッフは辞め、
当たり前のように、自分もバンドを組むようになった。
スポーツバレーは
跡形もなく消えた。
あの頃の若くてとても痩せたロッカーたちが
どうしているのか知らない。
プロのバンドマンになったって話は
たったひとりだけ。
ほかのみんなは何か仕事を持って京都で働いているのだろう。
わたしもそう。
スポーツバレーでのことを
思い出すことなんてほぼないけれど、
あの、冬はヒマだったスポーツバレーの
雪にしんしんと閉ざされて
お客なんてほぼ来ない冬の午後のうららかさの中で考えていたことは
歳を重ねても、
就職しても
ひとの親になってもなお
今も基本的に変わっていない。
そして今もバンドをやり続けている。