今年も畑の時期が近づいてきた。昨年とても楽しかったので今年はさらに畑を広げようと思い、今までの一段下の荒地の整地に取り掛かった。
そこはススキが酷く耕すのには相当難儀である。ミニバックホーンで掘り起こしてススキを根こそぎ取り、石を除去していくしかない。
うまくいけば、昨年の3倍くらいの面積になる。まだ黒土や堆肥を入れ耕耘機で耕さなければならないのでまだまだ時間がかかりそうだがやりがいもあるので頑張れる。
さらに、今年からナメコ栽培もやろうと思っている。すでに原木200本注文した。穴を開けて菌を打つ作業もかなり大変だろう。毎年いろんな事を始めていかなければ進歩も無いというものである。
明日には中古で買った耕耘機が届く。僕の本業はなんだったか最近分からなくなってきた。
この時期は異動される方がたくさんいる。僕の入っている山岳救助隊は警察の山岳警備隊と一身一体の活動を行っている。そんな中今年、長年一緒にやってきた仲間がまた一人異動で山を離れることになり今日、わざわざ挨拶にこられた。
彼とは殆んど歳も同じで十数年間、いろんな遭難現場や訓練を経験してきた言わば同志であった。異動は警察官の宿命であり、出世する上で避けることの出来ない道であると分かっていても寂しい限りである。彼は山とはまったく別の部署へ配属されるがまだまだ山がやりたいらしい。出世してまた何年後か必ず山岳警備隊に帰ってくると言っていた。お互い成長してまた会おうと握手をして別れた。
あの年の3月18日から今年で10年が経った。とても早く感じる。
前日の夜、山岳会の知り合いの山仲間から電話がかかってき、「S谷君が乗鞍へ山スキーへ一人でいったまま帰ってこんのや」というものだった。早速次の日の18日の早朝からまず5人ほどで探しに行った。
大声で名前を呼びながら探し続けた。「どっかの雪のくぼみなどで怪我でもして動けなくビバークして助けを待っているのか」など、とにかく絶対生きていると信じて探し続けた。ガスが濃い稜線に差し掛かったとき僕が何かを見つけた。近づいてみるとS谷さんのスキーが突き刺さっていた物であった。やはり何か事故が起きたのである。しかし、本人が見つからない。日も暮れかかり僕たちもビバークを決め込んだとき後続の捜索隊から連絡がはいり「おったぞ!」というものだった。いそいでその場所へみんな駆けて行った。
残念ながらすでに息を引き取っていた。なんでこんなことに。その場で皆肩を落とした。
それから遺体をソリに乗せ下山し、麓に着いたのは午前0時を廻っていた。
何という事だろう。いろんな遭難現場へ行き遭難者を見ている僕だが、知り合いを山で亡くしたのは初めてでとても辛かった。
あれから10年。まだ幼かったS谷さんのお子さんも大きくなられただろう。ご家族を乗鞍から優しく見守っている。
以前から狙っていた焼岳黒谷を悪友と滑ってきた。悪雪に悩まされた滑りでしたがなんとか降りてきました。
出発は10時とかなり遅いが行けるところまで行ってみようと出発した。雪は少ないが林道は雪は繋がっているのでスキーを履いて歩き出す。
最後の巨大堰堤を過ぎて北面台地へ取り付いた。日はすでに高く暑く汗が噴き出す。今日は昨年滑れなかった黒谷を是非滑りたい。
1900m付近の台地最挟部を過ぎたあたりから傾斜が増してくる。斜面も固くなってきてクトーを効かせながら慎重に登った。
時間的に山頂までは行けない。でもなんとか黒谷にエントリーできそうな箇所を探して約2200mあたりまでスキーデ登りあげた。
時間はすでに2時。のんびりしていられないのでシールを剥がし下の様子が分からないが黒谷に繋がっていそうなところから飛び込んだ。
傾斜は約50度くらいありそうだ。かなり急でアイスバーンで少しビビル。悪友とジャンケンしてどっちが先に行くかを決めた。
僕が勝ったので悪友が先に行った。固い斜面をものともせず軽快にターンを決めて落ちていく。悪友の滑りを見習わなければと僕も落ちた。黒谷に入ってからは雪質が最悪であった。石のようなデブリ、モナカ雪、そして氷。この谷を快適に滑ろうと思ったら1月か2月だろう。途中水も出ていて通過には難儀した。
途中ハプニングもあったが巨大堰堤まで降りて左岸から堰堤を巻いて林道に出た。ふうー。なかなか厳しかったです。あとは林道をかっ飛ばして車に着いた。
6時間ほどの行程だったがなかなか楽しめました。
以前から弟が車の入らない時期の上高地に行ってみたいと言っていたので悪友を誘って3人で本日行ってきた。
朝6時釜トン入り口を出発。昨年はトンネル内の電灯は点いていたが今年は点いていなく真っ暗なトンネルを行くことになった。
天気は曇っていたが次第に雲が取れ穂高が見えてきた。
朝の光が焼岳、穂高に当たり始め、白い峰は輝き始めてきた。
美しい山々に弟も感激していたようだった。
雪は少なめだがクロスカントリーのスキーを使うには充分である。スキーの滑りも良く、快適に飛ばして2時間で河童橋に着いた。誰もいない河童橋の上で休憩し目指す明神へ向かった。
ここからは雪が途切れているのでスキーを担ぎ歩くことにした。1時間で明神に着いた。今年も穂高の神様にお参りすることができてよかった。昼食を取り帰路に着く。
明神橋を渡り、雪の多い左岸へ移った。下り勾配なのでスキーがよく滑る。あっとゆうまに河童橋だ。
来たときに見えた穂高はもう雲の中に隠れて見えなくなってしまった。
常さんのお墓を参りあとは帰るだけ。何人ものトレッカー達とすれ違うがスキーは僕たちだけだ。
大正池を過ぎると雪が強く降ってきて吹雪になりかけたが、今年あまり降らなかった雪を体一杯に浴びて去り行く冬をなごり惜しんだ。
やはり山は雪があるほうが僕は好きである。
往復約6時間の行程であった。速い。新記録である。今日もいい運動した。
岐阜岳連の指導員研修と雪上講習会が国立乗鞍青少年交流の家で2日間にわたって行われた。僕は昨日だけ講習会に参加してきた。
参加者は約40名で岐阜県中の山岳会員が集まっていた。講習会では雪の斜面での歩行技術訓練や危急時対策としてスノーマウントの設営などを行った。
最近、唐松岳で二人滑落し亡くなるという遭難事故が発生したが、やはりアイゼンピッケルを使った歩行技術が未熟だった可能性がある。いかに普段の訓練で習得するのが大切かを切実に講師の方は訴えていた。
へっぴり腰に気をつけよう。
午前中の約3時間で基礎を中心に講習会が行われ終了したが僕はなんだか物足りなかったので午後から指導部長のT根さんに個人的に指導を仰いだ。T根さんはヒマラヤのK2登頂やローツエ南壁の隊長を務められたすごい方である。僕の他に3人付き合ってくれた。ロープワークを中心に二分の一、3分の一の引き上げ、流動分散、インラインフィギアノット、ブリッジプルージックなど目から鱗の技をみっちり教えてもらった。さすがにすごい技術である。やはり日本でも最高の指導者からの教えは素晴らしいと感動してしまった。いろんな所に出ていろんな人と知り合い話をすることで自分を高めることできるのである。
自宅に帰り夜は山岳警備隊長が勇退されるのでその送別会が開かれた。42年の間にいろんな事があっただろう。第二の人生を楽しんでください。
奥飛騨で最近話題の特産、奥飛騨軍鶏(シャモ)を是非使ってみたいと弟が言い出したので、早速生産者のエージ君の所を二人で訪ねてみた。突然の訪問にもかかわらず、エージ君は快く迎えてくれ、シャモに関するお話を聞かせてくれ紅茶までご馳走になった。元々鶏が好きなエージ君が十数年かけて奥飛騨を代表する特産品を作り出したのである。
このシャモ、普通のブロイラーとは全く別物である。僕は生きているシャモは見たこと無いが、解体された物は明らかに大きさが違う。出汁用にもらったモミジは恐ろしいほど大きいくゼラチン質たっぷりである。1羽分買って帰り夕食に水炊きとして食べた。なるほど、走り回って育った肉質は締まっていて歯ごたえがあるほど固い。その分旨みが凝縮さて鶏の味が濃くとても美味しい。
帰りに貴重な玉子まで頂いた。使うのがもったいないくらい鮮度抜群でこれまた味が濃い玉子であった。
ちと高価だが、地元特産品としてウチでもお客さんに提供していけたら喜ばれると思う。
ソースもシャモの出汁からとってます。