自然を尋ねる人

自然の素晴らしさ、豊かさ、人と自然の係わり合いを求めて!自然から私たちにくれる贈り物を見つけるために今日も歩く。

花と歴史

2013-10-12 11:47:42 | Weblog
石積砂防堰堤の砂留、江戸時代から現在まで嵩上げ、整備を続けており、
砂留として機能しているものでは規模もスタイルも日本一である。
中条小と御野小の生徒が不法投棄やポイ捨て防止のために植えてくれたヒガンバナ
今年植えた球根にしては紅白そろって沢山咲いてくれた。


西側が白、東側が赤


この場に紅白のヒガンバナを植えたのには理由がある。
これから歴史を調べたので報告をする。


潼々谷餘滴碑


この碑には3つの意味が隠れている。
一つは砂留の築造を始めた推定年代1738年?
潼々谷餘滴の文字はわかりにくいがこの文字は
明治2年に徳川幕府の土地は版籍奉還で明治政府が国有化した。
その後明治5年 太政官布告第50号で政府は私有権を認めた。
明治6年同114号により地所名称区別によって官有地・民有地の区別が明確になった。
民有地になると隣地と境界争いが起こる。


どこも山頂に村境石がある


堂々川の6番砂留上にあるこの碑が下御領村と西中條村の裁判に判決で決定した境である。
がこの結果が出たのは明治26年であるから約15年間尾道の裁判所で争われ、
その裁判記録が本になり、潼々谷餘滴の名がついている。


裁判記録の名が残る


この碑に刻まれている歌、
「安邦の海は彌砂の海になりにけり 川とは見えず埋る砂留
年々にかく埋も来て行く末は いかにやならんせくすべもなみ」
歌の作者は不詳とこの歌の出展と思える「西中條村誌」に記載されている


明治15年発刊 金尾直樹さん著


西中條村誌を読むと確かに作者不詳と書かれているが
この歌は金尾さんが作ったものと私は思っている。
例えば福山八景を歌ったものに同じ「安那の海」で頭だし歌があるが内容は似ている。
その歌は「安那の海は 島とたたえし しとみやま なみかせたたぬ 月を見るかな」

さて、碑の歌の読み方であるが
神辺図書館に問い合わせたところ振り仮名を振ったものが1件あるとのこと
「やすなのうみは いやすなのうみに なりにけり・・・」
出だしの部分が575の歌になっていない。
安那の読み方 やすな?あな?
安那・・穴・・婀娜(あな 古代の国名の名)婀娜から変化して安那になった経緯がある
海・・うみ? み?

私はこの頭の部分を 「あなのみは」と読んだ

次に彌砂の読みだが



堂々川の隣の川、深水川の中流にある谷これを中条では「いやすな」と読んでいる。
中条内でも2通りの読み方がある。「ヤダニ」「イヤダニ」

これにも色々な説があるが
この谷の近くに菖蒲城と云う山城があった。
その菖蒲城では合戦で使う矢をこの谷から採って作っていたようである。


矢に適した女竹が今でも豊富


矢を採る谷と云うことから室町・戦国時代からヤダニと読んでいた。
その説から彌谷は「やたに」と読んだ。

あなのみは やすなのうみに なりにけり

読めた。いやだにと読んだ人「いやだね」

このブログの最初にもどり、裁判の結果は下御領村―結審時御領村ーの意見は通らず


当時としては珍しい3次元の模型も作っているので
はいそ・・はいそうですとはいえない


補足をしておくと、この模型を現在でも保管している家は堂々川の1番砂留のすぐ下
迫山砂留を明治に築造する際の指揮を取られた人の子孫

アツチこっちとウロウロしたが結論
6番砂留の碑はこの地域のほとんどの村境石が山の頂上にあったが
この場だけは川の中央で決着している。
よって村境石は存在してなかったが堂々公園を昭和55年作った際に今は昔と築いたのだろうか。
最後の締め
中条小は白の彼岸花を植栽、御野小は赤の彼岸花を植栽。
昔源平合戦で源氏は白旗、平家は赤旗を掲げて戦い、源氏が天下を取った。
よってその歴史から山の上の境石があるはずの中条が裁判に勝訴したので白花、
敗訴の御野が赤花として植えたがこの歴史を子供たちに話したら
源平合戦・・・シラン
源氏に平家・・わからん
備後弁はよくできていて、おぼろなランの話で終わることが出来た。