豊臣秀頼側近の優柔不断
辞書で優柔不断を調べると「気が弱く決断力に乏しいこと」とある。他人をそうだと言う前に、自分だってそれだと思うことが多い。しかしここでは豊臣秀頼に御付きの側近が優柔不断なために負けてしまった「関ケ原の戦い」について記事を残したい。
玉城というお城を西軍が造っていたと判明したことだ。このお城に秀頼が入り、西軍として東軍の徳川家康と対峙すれば西軍の勝利が見えていた。ところがまだ子供である秀頼お付きの側近が迷い、関ヶ原の戦いを秀頼家臣の、西軍と東軍との内戦にした。どちらが勝っても、秀頼は変わらぬ立場だと考えた。
関ケ原には玉城に並んで、松尾山城と菩提山城とがあり、この3城が力を合わせて、玉城の秀頼と共に徳川家康軍と対峙する。この構図がとれなかったことが敗因だと、16日のNHK番組で赤色立体地図を使い松尾山や菩提山を探って推断した。松尾山城の関ケ原側に陣を張った小早川秀秋の東軍への寝返りにより、菩提山城の竹中重門も東軍へ。玉城へ秀頼が入り、豊臣軍と徳川軍との戦いであることが明確になれば福島正則や加藤清正も豊臣軍の仲間となったであろうと考える。
秀頼の側近とは母(淀殿)も含められよう。歴史は変えられないが、秀頼側よりの視点では残念な結果となる。先を読む力があり、徳川家康をいち早く競争相手と断ずれば、この優柔不断の選択は考えられない。赤色立体地図を作る技術の開発が玉城を発見させた。そのことにより推論も拡がった。歴史を調べる面白さも広がった。