顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

筑波海軍航空隊 (笠間市旭町)

2016年08月03日 | 日記
昭和9年開設の筑波海軍航空隊は日本最大規模で現存する戦争遺構であり、戦争末期に陸海軍が行った体当たり攻撃(特攻)の実行が最初に決められた地、すなわち特攻の悲劇が生まれた地になります。(パンフレットより)
初めは戦闘機の搭乗練習が目的でしたが、戦局の緊迫化に伴い昭和19年以降は防空実施部隊となり、末期には特別攻撃隊を編成し、沖縄方面の特攻作戦などで多くの20代前半の若い隊員が戦死しました。

グラウンドに残る号令塔と後ろに旧司令部庁舎(現在は記念館)、夏空の下「気をつけ~!」の号令が聞こえてくるようです。

最初は通称赤トンボという練習機でしたが、昭和19年春から実用機「ゼロ戦」を使っての実戦訓練になりました。ソロモン諸島で回収されたゼロ戦の後ろの部分の展示、ラバウル航空隊所属の機という説明文です。

ここからフィリピン戦線に進出した神風特別攻撃隊金剛隊25名の寄書きです。当時の司令官以下佐官クラスの幹部たちは、特攻は戦闘機乗りの本分ではないと反対しましたが、全軍特攻化は避けられず、ほとんどが学徒出陣の予備士官上がりの隊員が散っていきました。

藤田少尉の遺書(上段)は、パイロットが首に巻くマフラーに書かれています。 遺書の最後に”睦恵(婚約者)さらば”とあり、それが今生で最後のことばになりました。

屈託のない笑顔の隊員たち、その後どんな運命を辿ったのでしょうか。まもなく戦後71年、豊富な物に囲まれて漫然と過ごしていますが、戦争の記憶を語り継ぐこういう施設があるからこそ、改めて平和のありがたさが実感できるわけで、期間限定での一般公開でなく永久保存を検討していただきたいと思いました。

竹とんぼ飛ばす空あり終戦忌  うだつ麗子
夏空や筑波海軍航空隊  顎髭仙人