水戸藩では9代藩主徳川斉昭が、鉄製の大砲鋳造をするために、安政2年(1855)に大型の金属溶解炉の反射炉2基を建造しました。当時、全国に公営・民営あわせ十数箇所建造されたといわれていますが、佐賀藩、薩摩藩、幕府の伊豆韮山に次いで全国4番目の建造で、モルチール砲(臼砲)、カノン(加農)砲を鋳造しました。 しかし、元治元年(1864)の藩内抗争元治甲子の乱(天狗党の乱)の際、破壊されましたが、昭和12年(1937)12月、跡地に崩れ落ちた煉瓦の一部も使用してほぼ原形どおりに復元されました。 最初は鉄の質が悪くて苦心したようですが、南部藩から良質の銑鉄が供給されるようになると、臼砲だけでなく大型のカノン砲の鋳造にも成功しましたが、期間が短かったので破壊されるまでに20数門が造られたようです。現在、反射炉前に真っ赤に錆びた鉄製のカノン砲が飾られていますが、これは40年程前に製作されたレプリカだそうです。 1200度から1400度に耐える反射炉に使う耐火レンガを40,000枚も焼成したという登り釜の復元模型です。藩領の馬頭小砂で焼かせたということも聞いたことがありましたが、陶土を小砂や水戸の笠原から舟で運んで来てここで焼いたと説明板には書いてあります。 反射炉のある高台への入り口にある山上門、水戸藩小石川上屋敷の正門右側にあった、江戸時代後期に勅使奉迎のために特に設けられた門を昭和11年に移設したものです。小石川藩邸の唯一残存する建築物で、薬医門という形態の重厚な門構えです。 門と袖塀の鬼瓦には葵の門が付いています。柱の下部の補強とかいろんなところに後世の手が加えられた痕が見えますが、佇まいはさすがに風格を備えています。 南方には那珂川の湊大橋と遠くに筑波山が見えます。元治元年(1864)3月、この筑波で挙兵した天狗党の一派は、藩内での抗争を続けた後10月にここ那珂湊を撤退して、大子を経て越前への悲劇の行軍の途につき、敦賀にて幕軍に降伏、353人もが斬罪に処せられました。
討つもはた 討たるるもはた 哀れなり 同じ日本のみため(みだれ)と思えば (総大将武田耕雲斎の辞世の句)
この反射炉以前の水戸藩の大砲製造では、天保11年(1840)斉昭は水戸の神崎に溶鉱炉4基をつくり銅製の大砲を作りはじめ、当初は失敗続きで銅も足りなくなり、藩内の仏像、梵鐘などの仏具を鋳潰して、それも原因の一つとなり弘火元年の斉昭自身の幕譴、蟄居に至りました。
その時の大砲について、山川菊栄の「幕末の水戸藩」に「ごろり二分」という記載があります。(一部略、年号追加)
「斉昭が領内の梵鐘や金銅仏を鋳潰して作り上げた大砲は見かけ倒しで実戦の用には立たなかった。何分大きくて重いので運ぶのに大勢の手間を要しごろりと一回転させるのに金二分はかかるというので民間では「ごろり二分」と呼んだという。ペリー来航(1853)のとき、幕府の要請で七五挺とか、この大砲を江戸まで送り込んだものの実戦がなくてボロを出さずにすんだものがもうけものだったと古老は語った。(常磐神社に残る太極砲のことか?75門のうち幕府に納めたのは74門とされていますが。)
「子年のお騒ぎ(元治甲子の乱1864)」のときは、幕府は外国から買い入れた優秀な軍艦を持ち、外国軍人に仕込まれた熟練した砲手もいたので、そういう軍艦がただ一隻那珂湊の沖にあらわれ、武田耕雲、藤田小四郎の連合天狗勢に向かって砲撃を開始するや一発の無駄もなく目標に命中して修羅場をくり広げた。しかるに天狗党の方は烈公様の化身のようにあがめ神通力と信じていた「ごろり二分」は何たることかやっとの思いで海岸まで運び出しても、敵の砲丸が目にも見えずに飛んでくるにひきかえ、こちらの弾丸は砲身を離れることは離れても、赤い色をして人目にわかるほどゆるゆる回ったかと思うと、目の前の海にボチャン、ジャボンと飛び込んでしまう。何発うっても同じこと、そうそうは弾も続かないうちに、敵の方は息もつがずに撃ちまくりこちらの砲も人間も吹っ飛んでしまう…。」
天狗党がこの戦いで負けたのは、あの軍艦一隻が大きく、その後の敦賀への西上になったと書いてあります。 結局15年後の安政3年(1856)に神勢館構内に溶鉱炉を移すまで、この神崎の地では実に大小合わせて291門の大砲が造られたといわれています。
ごろり二分