顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

高舘山の麓、西明寺  (益子町)

2017年09月13日 | 歴史散歩

西明寺城(高館城)は平安時代後期頃、紀貫之の子孫が宇都宮氏の家臣としてこの地で益子氏を名乗り、標高301.8mの高館山に築いた山城。南北朝時代には南朝方の関東六城(関、大宝、真壁、伊佐、中郡、西明寺)の最北端の城として活躍しましたが、天正17年(1589)主家の宇都宮氏などによって滅ぼされ廃城となりました。

城域は高館山山頂を中心として、北・南・西の三方に伸びる尾根に郭を設け、南西側は西明寺のある辺りまで城郭遺構が残っています。

城郭の一番下付近に位置する西明寺は、築城より300年以上前の天平9年(737)行基菩薩の草創で、天平11年(739)落慶供養が行われたと伝えられますが、たびたび兵火に遭って建物は消失しています。天文7年(1538)に益子家宗によって建立されたものだとされる三重塔は、九輪の上の水煙が独特の形をしており、関東甲信越四大古塔とされ、国指定の重要文化財なっています。

同じく重要文化財の楼門は入母屋瓦葺き、阿吽の仁王像が配置されており、明応元年(1492)の建立、室町時代の特色をよく表しています。

本堂のご本尊十一面観音立像などの仏像を納めている厨子(扉の付いた物入れ)も、重要文化財に指定されており、内部の柱に応永元年(1394)の墨書がありますので金閣寺の建てられた頃のものです。輪違い紋が所々に見られますが、真言宗豊山派の紋だそうです。

この寄棟茅葺きの閻魔堂は正徳4年(1714)建立、寛保3年(1743)再建されたもので、中には5体の仏像が並んでおり、主役の怖い閻魔様が笑っているので「笑い閻魔」として知られています。

確かに右の善童子は笑みを浮かべ、中央の閻魔大王もつられて笑っているように見えます。鎌倉の円応寺にある運慶作の笑い閻魔も有名だそうですが、西明寺のホームページによると、「閻魔の横には地蔵菩薩が立っていますが、閻魔はそのお地蔵の化身といわれます。他人のためなら地獄にも行くという、お地蔵は決して怒りません。いつも笑みを浮かべており、その真言は「ハハハ」という笑い声。だから、その化身である閻魔は笑っているというわけです。」

天然記念物の樹齢750年の高野槙や椎の古木群に囲まれた鬱蒼とした境内…、参道脇にこれも天然記念物の四角竹がありました。写真ではわかりませんが、確かに円筒ではなく角型の竹でした。

なお、ここの住職で3月に亡くなった田中雅博さんは、慈恵医大卒業、国立がんセンターに勤務、その後立正大学で仏教を学び西明寺を継いだ方、境内に入院病床を備えた診療所などを建て内科医としても働き、緩和ケアなどスピリチュアルケアを訴え続け著書も何冊か出しましたが、ご自身も癌に倒れてしまいました。