
水戸藩3代藩主徳川綱條の時代、藩政改革のため宝永3年(1707)から他藩の改革に実績のあった松波勘十郎を起用し、江戸に至る物資輸送ルートの運河を掘削した勘十郎堀は、「紅葉運河」と「大貫運河」の2つの大工事でした。

そのうち「大貫運河」は涸沼川を太平洋へ直接繋ぐ長さ約1キロの工事で、宝永4年(1708)11月7月に着工、ここはかって自然の河口だったので掘りやすく11月中には海と繋がりましたが、暮れには海口が砂で埋まってしまい、改修工事をしてもすぐ大波で砂が押し寄せ、舟が入ることは出来なかったようです。写真は、現在残る堀の一部で、向こうは涸沼川です。

昭和50年頃までは、上記地図のA地点からB地点までは運河が残っており、堀河(ほっかわ)と呼ばれ親しまれてきましたが、今は海に向かう4車線の道路となり、名前だけ「大貫勘十郎堀通り」として残っています。
結局この勘十郎堀は、もう一つの長さ約10kmで深さも最大30mにもなったという「紅葉運河」が難工事で、一揆まで起きる始末になり宝永6年(1709)に中止、松波勘十郎は追放された後に捕らえられ、宝永7年(1711)に赤沼の獄にて獄死したそうです。

なお、この地区は小説「侍ニッポン」でお馴染みの作家、郡司次郎正が育ち、晩年釣舟店を営んでいたところで、堀入り口の涸沼川畔には現在も郡司釣舟の看板が上っています。

大洗駅近くの花池寺墓地には北条八十作詞の映画主題歌「人を切るのが侍なぁらぁばぁ♪恋の未練がなぁぜぇ切ぃれぇぬ♬…」の歌碑が建っています。作曲の松平信博は将軍家の始祖系の松平郷松平家の第20代当主だそうです。