顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

弘道館本開館日は、161年前の5月9日

2018年05月09日 | 水戸の観光

当時最大規模の水戸藩の藩校、弘道館は177年前の天保12年(1841)に仮開館し、さらに施設や教育制度を整えて、161年前の安政4年(1857)5月9日に本開館しました。本開館式では、鹿島神宮から弘道館鹿島神社への分祀遷座と、孔子廟へ孔子神位を安置する祭式が行われた後、正庁で教職や学生が集まり、教授頭取の青山延光が読み上げる「弘道館記」を拝聴したとされています。

今日は161年後の5月9日、本開館の日を記念したイベントが雨の中行われました。
105,000㎡(32,000坪)の弘道館敷地の真ん中に置かれた八卦堂には、建学の精神を記した斉昭公の撰文、書による弘道館記碑が納めてありますが、通常非公開の内部が公開されました。

弘道館記碑は、久慈郡の真弓山から採れる水戸藩の御用石で大理石の一種寒水石ですが、昭和20年の水戸空襲で覆堂の八卦堂が燃えた時に傷み、さらに東日本大震災では崩壊してしまいましたが、文化庁が半年以上かけて破片をつなぎ合わせた痛ましい姿で建っています。

当時の藩校には付きものの、学問の神様「孔子」を祀った孔子廟も内部が公開されました。孔子の故郷山東省曲阜を向いて建てられ、正門の戟門は創建当時のもの、両側にある楷の木は、曲阜の孔子の墓から種子を採取したものといわれ、会津藩校日新館から寄贈されました。

孔子神位を中心に、右に願子、子思、左に曾子、孟子が祀られています。屋根に置かれた架空の動物、鬼犾頭(きぎんとう)と鬼龍子(きりゅうし)が孔子廟の特徴です。

建学の精神「文武不岐」と「神儒一致」を象徴する鹿島神社でも月次祭が行われていました。空襲で焼失後、昭和49年(1974)の伊勢神宮式年遷宮の際、別宮「風日祈宮(かぜひのみのみや)」宮殿一式が譲与されたものです。そのため武の神、建御雷神に似合わず内削ぎの千木と6本の堅魚木になっています。

弘道館正庁には、本開館式の鹿島神社遷宮式で奏上された祝詞が特別展示されていました。撰者は青柳村の小川修理、奏上は静神社長官の斎藤監物で末裔から寄託されたものです。斎藤監物は、この7年後に桜田門外の井伊大老襲撃に加わり、重傷を負いながら老中脇坂邸に訴状を提出し数日後亡くなりました。39歳。辞世は「君がためつもるおもひも天つ日にとけてうれしき今朝の淡雪」です。

弘道館で学んだ斉昭公の七男で最後の将軍徳川慶喜公は、150年前の明治元年に新政府に恭順の意を表してここ至善堂で謹慎をしました。その模様を羽石光志画家が描いた時の下絵がこのたび遺族から寄贈され、肖像画とともに展示されています。