顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

築城詳細は藪の中…大館館と小館館 (大洗町)

2019年01月14日 | 歴史散歩

大洗町成田町の涸沼東岸に中世の城館跡が藪のなかに埋もれています。
大館館は標高約5mの湖岸にある比高20m前後の平坦な台地上に位置し、対をなす小館館はその北隣に位置し、同じく比高20m前後の舌状台地の先端にあります。

築城者や時期などは不明で、南北朝時代までに使用された城郭遺構という説や、この地区を領した江戸氏の涸沼の水運支配の拠点などいろんな説があり、裏付ける記録や古文書などが見つかっていないため詳細は歴史の闇のなかに眠っています。

右が大館館、左が小館館です。
館と城の違いはよくわかりませんが、館は近世における権力者の居館のあるところが時代とともに必要に応じた一定の防御力を備えたもので、戦闘を意識したつくりの城と同じ規模になっても名前は館で通したところも見られますので、明確な区別は難しいようです。




大館館の郭部分は農地になっていますが今は殆どが休耕地で藪のなか、踏み入ることも困難です。空堀や土塁は確認できますが、全体の区画は確認できず、茨城城郭研究会の「図説茨城の城郭」掲載の縄張り図を大まかに引いてみました。

小館館は小規模な単郭で出城か見張り櫓の役割を担っていたと考えられます。遺構は大館館よりははっきりと分かり、周りに空堀を巡らした主郭は土塁で囲まれています。
大館の間にある谷津は涸沼からの船着き場跡と思われるという説もありました。
築城者も時期もよくわからず、幽かな遺構だけの城跡は県内にまだまだ残っているようです。500年以上前のその場所で密かに空想に遊ぶしかありません。

すぐ近くの涸沼湖畔には「夕日の郷松川」という交流体験施設があり、筑波山の見える美しい夕日が評判をよんでします。
この涸沼は涸沼川により太平洋とつながっている汽水湖で、最大水深は6.5m、平均2.1mと浅く、湖沼水面は海面と同じで、標高(海抜)は0mだそうです。