
15世紀半ば、西相模一帯を支配していた大森氏が現在の小田原城より約800mくらいの山側に築いた山城を、15世紀末になって伊勢宗瑞(北条早雲)が攻略し、以後北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力拡大の拠点の城として勇名を馳せました。

永禄4年(1561)の上杉謙信の城攻めと、永禄12年(1569)の武田信玄の城攻めも籠城戦で退け、豊臣秀吉の来攻に備えた拡張規模は、城下を囲む総延長9kmに及ぶ最大の総構えに達しました。しかし天正18年(1590)、約18万の秀吉軍に包囲され約100日持ちこたえましたがついに開城し北条氏は滅亡、これが戦国時代の終焉となりました。

その後、家康の重臣大久保忠世が4万5千石で城主になった時に、広大な城域は縮小され現在の場所に築城したといわれます。やがて改易になり小田原城は破却され幕府直轄になりますが、稲葉正勝が8万5千石で入封して再整備され、城の姿は一新されます。 貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。

明治3年(1870)に廃城となり、多くの建物は解体されました。後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年には、二の丸に御用邸が建てられました。しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまいました。

天守は、江戸時代に造られた雛型や引き図(宝永年間の再建の際に作られた模型や設計図)をもとに昭和35年に外観復元された3重4階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣で、地上38.7m、延床面積1822㎡の鉄筋コンクリート造となっています。

江戸時代に本丸を囲んでいた堀の東側の水堀跡で、幅が20m以上もあったことが発掘調査で確認されました。

本丸の正面にある常盤木門は重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固に造られていました。多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。
昭和46年に復元されました。

銅(あかがね)門は、二の丸の表門で、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことが名の由来です。発掘調査や古写真、絵図などを参考に、桝形門と呼ばれる形式で平成9年に復元されました。

この住吉橋を渡って銅門前の枡形に出ると、侵入した敵兵は銃口に晒されます。

馬出門は二の丸正面に位置する門で、馬出門、内冠木門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造で馬屋曲輪へと通じます(平成21年復元)。

二の丸隅櫓は平屋です。関東大震災で崩落し、昭和9年に再建されたもので、崩落前より石垣も3m以上低く、隅櫓も半分くらいの大きさになったそうです。

天守閣内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されています。

標高約60メートルの最上階からは相模湾や天下の険といわれた箱根の山々を望むことができます。
小田原の象徴としてのこの小田原城ですが、史実に基づいた本来の工法で再現する木造天守再建の動きもあるそうです。