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鎌倉時代初期に常陸大掾氏一族の行方忠幹の子、景幹の4人の子が支配したそれぞれの地名を名乗り小高氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏として城を築いたのが始めとされます。この4家は行方四頭と呼ばれてこの地方を長く支配し、麻生氏も麻生城を歴代の居城として整備、拡幅してきました。
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城は南に霞ヶ浦を望む比高約20mの行方台地の先端に位置しています。江戸時代に利根川が今の流れに付け替えられるまでは、霞ヶ浦・北浦・印旛沼・手賀沼が一体となった大きな内海「香取海」に面していたので、往時は岬に突き出た天然の要害であったと思われます。
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それから約400年、戦国時代になると、常陸大掾氏の同族間での争いが起こるようになり、天正12年(1584)に麻生城は、島崎城の島崎安定に攻められ、城主麻生之幹は自刃し滅亡してしまいます。
この島崎氏もその7年後の天正19年(1591)、いわゆる「南方三十三館の仕置き」によって佐竹氏に謀殺され、城も攻め落とされてしまいます。
11年後にその佐竹氏も、関ヶ原合戦後の慶長7年(1602)に秋田に移封され、麻生城も廃城となりました。
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城址は羽黒山公園となっており、本丸下の駐車場には城閣風のトイレがありました。
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最高部にある台地は約100m×90m、その中心部がⅠ郭(本丸)と思われます。
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空堀や櫓台のような遺構が見られますが、公園化などの改変により当時の縄張りの正確な状況は、確定できていないようです。
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1郭から南方に霞ヶ浦が見えます、せり出した台地の高さに堅固な構えが実感できます。
さて江戸時代になると、この地には麻生藩ができ城の東側に陣屋が置かれました。
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慶長9年(1604)、摂津高槻から新庄直頼がこの地に3万3千石を領して麻生藩を立藩しますが、300m離れた麻生城には入らず陣屋住まいをしたのは、外様としての幕府への配慮や発布された武家諸法度によるものといわれます。
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この麻生藩は一時無嗣断絶の危機や、それによる減封を経て、関東の外様の1万石という小藩で267年一度の移封もなく明治の廃藩を迎えた特異な存在でした。
陣屋跡は麻生小学校となり遺構は残っていませんが、隣接地に麻生藩家老屋敷が残っています。
※弊ブログ(2020年2月9日)に麻生藩家老屋敷を載せさせていただきました。
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城址の南側にある麻生氏の菩提寺、曹洞宗太平山常安寺です。天文14年(1545)麻生三郎常安の開基と伝わり、もとは城域にありましたが、麻生氏の滅亡で現在地に再興されました。
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麻生城の北側には、新庄氏の菩提寺の曹洞宗大意山海了寺があります。当時は地方では稀に見る大伽藍だったそうですが、維新で領主の保護を失い縮小されてしまったそうです。
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新庄家の墓地、ここに埋葬されている藩主は第4代新庄隠岐直時だけで、他の藩主は東京駒込の吉祥寺の新庄家墓地に眠っています。