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鎌倉時代初期に常陸大掾氏一族の行方忠幹の子、景幹の4人の子がこの地方に配され小高氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏を名乗り行方四頭と呼ばれました。
この地には治承年間(1177~1181)に四男四郎幹政が配され、玉造城を拠点に歴代城主が約400年この地を治めました。
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しかし天正19年(1591)の小田原戦の後、秀吉に常陸国領土を安堵された佐竹義宜により、15代玉造重幹はいわゆる南方三十三館の領主ともども常陸太田城で謀殺され(一説では日立の正伝寺で自害とも)、すぐに玉造城も攻め落とされてしまいました。
以後佐竹氏の支配下に置かれた玉造城も、関ヶ原戦後の佐竹氏の秋田移封により廃城となりました。
旧玉造町教育委員会資料(1991)です。
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比高約20mの台地先端部にある連郭式平山城で三方は湿地に囲まれ、それも当時は香取海だったとすれば半島先端のさらに要害の地になります。比高約15mの台地を腰曲輪とし、その上に比高約20mの3つの郭が並んでいます。(旧玉造町教育委員会資料より)
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約80m四方のⅠ郭が本丸で、その北側に急峻な切岸が残っています。周りを囲む帯郭は民家の敷地になっています。
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南側の帯郭の幅は約23m、その一画に玉造郷校跡の案内板が建っています。安政5年(1858)に開館の水戸藩の郷校で、郷士、神官、農民など300人以上が通い、天狗争乱の時には尊王攘夷派の拠点になっていたため討伐により焼失してしまいまいました。
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本丸と二の丸間の深い空堀跡です。
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本丸の土塁、本丸一帯は生い茂った藪になっています。
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玉造城の東南麓には、水戸藩の大山守や、水戸御留川の川守、霞ヶ浦48津の北津頭などを勤めていた大場家の屋敷が残っています。この大場家は玉造城の家老を勤めていたという説もあります。
左の長屋門は藩主専用で通常は開かずの門、右手の薬医門を通用門として用いていたといわれます。
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寛文期(1661~72)に初代水戸藩主・徳川頼房公の領内巡視の際の宿泊所として、また水戸藩南部の藩政所として建てられ、以後歴代藩主が利用しました。写真は藩主専用の数寄屋造りの御殿の一部ですが、現在コロナ禍により休館中なので5年前に撮ったものです。
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城址の麓にある玉造氏の菩提寺、玉松山一閑寺は曹洞宗の古刹で、大場家の菩提寺でもあるそうです。
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本堂には、宗紋である五七の桐と久我竜胆が左右にあり、中央には水戸徳川家の葵紋が付いています。周りの彫刻の見事さに眼を奪われます。
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不動明王堂の前に建つ敬信講の石碑は勝海舟の書、伯爵勝安房篆額と刻まれています。