
この展示は1月31日まででしたが、コロナ感染拡大による県独自の緊急事態宣言により期間途中の1月18日で休館になってしまいました。
最近では、撮影禁止の展示以外は写真撮影が許可されていますので、せっかくの企画展の一部を紹介させていただくことができました。

「弘道館種痘の通達」 水戸藩では天保13年(1842)から、斉昭公が医師本間益軒、養子の玄調に命じ種痘の普及につとめましたが、接種に対する恐怖心からなかなか普及せず、斉昭公や玄調が我が子にまず接種させたと伝わります。
通達には、種痘を希望する者は毎月1、15日朝五つ時に弘道館へ来館するか、5、10、20、25日に本間益軒または本間玄調宅で種痘を行う通達。遠方の場合は医師を派遣し、いずれの場合も費用は藩で負担するとしています。
何かコロナワクチン接種の現代に共通するものがあります。

書「神武而不殺」 那珂湊の木内家に伝来した斉昭公の書 出典は易経の「繋辞上伝」で、神のような武勇を備えながら人を殺さぬ威徳という意味、尊王攘夷の最終目標は国を閉ざすことでなく海外進出としていることが明確であると解説に述べられています。

「常磐村御縄打図」 嘉永7年(1854)検地の縄打(計測)の状況と、常磐村名主(山横目)桜井源右衛門の屋敷が描かれています。作者は藩の絵師、萩谷遷喬に学んだ亘喜左衛門(遷幽)です。

「慶喜、弘道館謹慎の達」 慶応4年(1868)4月11日 上野寛永寺で謹慎していた15代将軍徳川慶喜が、水戸に下り弘道館で謹慎する旨、郷士たちに知らせた達です。
江戸城開城の4月11日、慶喜は水戸へと出立しました。

「茶説」 天保11年(1840)好文亭の茶室何陋庵(かろうあん)の待合に掲げられている斉昭公の書、茶器の得難きを競うのではなく、礼や誠などの精神が大事であると説いています。

書「徳」 那珂湊の木内家に伝来した斉昭公の書。豪商の木内家は水戸藩をはじめ多くの大名に貸し付けを行い、反射炉建設にあたっては5000両の用立てをしたと伝わります。

「新井源八宛書状」 嘉永元年(1848) 斉昭公が水戸で養育させていた子息たちの教育方針について教育係の新井源八に指示したもの、七郎麿(慶喜・15代将軍)、八郎麿(昭融・川越藩主)、余一麿(昭縄・木連川藩主)それぞれに細かい指示が書かれています。

三公園選定の由来 「国民高等小学読本 巻一 明治43年(1910)」 偕楽園、兼六園、後楽園が三公園と称されるようになった理由は、明治天皇と皇后の行幸啓地であったという説があります。その三公園が印刷物で初めて世に出たのがこの教科書といわれています。

ところで、歴史館の構内には明治14年(1881)に建てられた旧水海道小学校本館が移設されています。
最初は町民有志が寄付5000余円を集め、建てたのは地元の宮大工羽田甚蔵、横浜の外国人居留地に通って図面を書いたといわれています。女優の羽田美智子の高祖父になることがNHKファミリーヒストリーで紹介されたそうです。

屋根中央の鼓楼といわれる八角の塔、この中央に太鼓を吊るし時刻や授業開始を知らせたそうです。正面ベランダの上部の破風には、ピナクルという飾り塔、柱の装飾など…随所に明治10年代の洋風建築の特徴をあらわしています。

内部に展示室を設け、教育資料及び水海道小学校関係の資料が展示されています。同校から寄贈された慶応元年(1865)スタインウェイ&サンズ社製造のピアノの置かれた部屋は、保存環境保持のため開放されていませんでした。
なお、茨城県立歴史館は、2月9日より開館されています。