顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

小場城…三方が天然の堀

2021年02月16日 | 歴史散歩
鎌倉時代に佐竹氏3代秀義の子で南酒出義茂の子義久がこの地に館を築いたといわれます。この秀義は治承4年(1180)同じ源氏の源頼朝に攻められて敗れ、後にその麾下に入り奥州合戦にも従軍しました。

本格的な城館は、南北朝時代の貞和4年(1348)佐竹氏9代義篤が庶子義躬に初代小場氏を名乗らせ常陸太田城の西の守りとして築城したとされます。その後5代小場義忠は延徳2年(1490)山入の乱で孫根城に籠城した佐竹氏15代義舜のもとに参陣し山入氏との戦いで討ち死に、天文9年(1540)の部垂の乱では、7代小場義実がたまたま出かけていた部垂城で戦いに巻き込まれ戦死するなどしますが、佐竹氏の重臣として仕え慶長5年(1600)には、5万石で常陸小田城に移り代わりに大山氏が小場城に入ります。しかし2年後の慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封に従っていずれも廃城になりました。

なお、秋田に移った小場氏は重要拠点の出羽・大館城代を務め、12代義房のときには佐竹姓を許され佐竹西家として佐竹家を支え、明治になって義遵のとき、男爵を授けられました。

那珂川左岸の比高30mほどの段丘に築かれた平山城で、西が急な崖、南と北側は深い沢が天然の堀となる要害をなし、那珂川沿いの麓には舟渡の地名が残っているので、那珂川水運の要衝でもあったと思われます。

案内板が建っている道路脇には幅14m、深さ5mもの空堀が残っていてまず驚かされます。

本城(左側)と中城(右側)間の堀と土塁です。堀は埋められて道路になっています。

本城と御城間の堀、右手が字本城、左手が字御城の地名が残っているそうです。

本城西にある土橋、本城にある住宅地への入り口になっています。

中城跡は平坦な空き地になっています。手前の低い部分は埋められた空堀跡と思われます。

北側の天然堀となっている浸食谷の深さにびっくり、地形図で見ても深さ30m以上あります。

谷の入り口にある鹿島神社、古くは八幡神社跡となっていますので、清和源氏佐竹氏の守護神として祀られていたのかもしれません。

南西側の崖に石仏がありました。凝灰質泥岩をくりぬいた窪みに置かれた、錫杖を持った地蔵尊と授乳している子安観音でしょうか?
 
那珂川両岸の河岸段丘の特徴である、凝灰質泥岩の上部にある礫層も露頭していました。

なお、小場氏5代義忠の弟、義広が築城した前小屋城は、拙ブログ「前小屋城…佐竹氏大宮三城のひとつ」で紹介させていただきました。
山入の乱の文亀2年(1502)には佐竹義篤が籠城している孫根城に参陣して義忠、義弘兄弟がともに討死しています。