津賀城は、鎌倉時代中期より戦国時代末期の城郭で、津賀氏の居城でした。ただその津賀氏についての詳細は不明で、案内板でも近くの津福寺過去帳に「大安全切居士 永禄十一年(1568)戊辰三月二十日 津賀大膳」の記述がある、また「鹿島治乱記」に大永年間(1521~1528)に津賀大膳、天正年間(1573~1591)に津賀大炊介の名が登場し、大永四年には(1524)には津賀大膳が高天原で鹿島城の宿老松本備前守尚勝と戦いこれを破ったと記されているとしか載っていません。
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中世のこの地方は鹿島氏、嶋崎氏など「幹」という通字を持つ常陸大掾系の一族が支配していましたので、その庶流か家臣、あるいは土着の在郷勢力でしょうか。いずれにしても城の規模から見ると相当の勢力であったことがうかがえます。
(なお2017.6月号の「常陽藝文」に、佐竹氏の「南方三十三館の仕置き」で滅ぼされた領主に津賀氏の名前も出ていましたが、常陸大掾系とはされていません)
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350m西南に北浦を望む標高約40m、比高35m前後の高台が城址です。
津賀城址公園として駐車場とトイレも整備されており、目の前に圧倒するような高さで城址が迫っています。頂上の主郭を取り巻く土塁と周りの腰櫓が分かるでしょうか。
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駐車場から南東方面に進むと城址に上る階段と案内板があります。
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階段脇には青紫のウツボグサ(靫草)の群生が迎えてくれました。弓矢を入れて武士が背中に背負った靫という道具に似ているので名が付いたシソ科の多年草です。
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主郭の土塁をぐるりと取り巻く腰郭があり、南方に日本で2番目に広い霞ヶ浦の一部、北浦が見下ろせます。右側は主郭の土塁です。
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主郭の虎口への土橋です。左右に土塁と手前に堀があります。
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高さ2mくらいの土塁に囲まれた主郭は、約100m×35mの平坦な一画、真ん中にも土塁の一部が残っていて、主郭内部は二つに区切られていたようです。
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主郭南端には小さな展望台が建っていました。
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展望台からの眺め、北浦の涼しい風が上がってきます。多分この城は、一帯の水運を掌握する拠点だったのかもしれません。
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南東の台地にも2郭があったという説もありますが、道路で掘削されたりして地形は大きく改変されてしまっているようです。主郭から2郭へは堀が二重になって土橋が架けられています。
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2郭入り口には枡形らしきスペースがありました。
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腰郭にナツハギ(夏萩)が咲いていました。夏萩は種類でなく夏に咲く萩のことで、歳時記には夏のうちから花が咲く萩、山萩、宮城野萩があると載っています。仙人の印象でも、この地方の山萩は、6月頃と9月に二度咲くと思っていました。
夏萩や枯れたる花もうち交り 高野素十
燃ゆるもの身に夏萩を手折りけり 桂信子
夏萩や湖を見下ろす城の跡 顎鬚仙人