16世紀半ば中国では明が滅亡して清の時代になったことで、明の遺臣や僧侶たちが数多く日本に亡命してきました。東皐心越(とうこうしんえつ)禅師も延宝5年(1677)曹洞宗寿昌派に伝わる品々や書や琴などを携えて日本に渡ってきました。しかし当時は黄檗宗が勢力を伸ばしておりその讒訴により長崎で幽閉されていたのを、水戸藩第2代藩主徳川光圀公の口添えで解放され、天和元年(1681)水戸藩上屋敷に迎えられました。
(祇園寺総門の前の戒壇石には、お定まりの「不許葷酒入山門」の文字が刻まれています。)
その後天和3年)1683)水戸に移住した心越禅師のため、光圀公は佐竹氏の菩提寺であった天徳寺を明代の寺院様式に改築し、元禄5年(1692)に開基徳川光圀、東皐心越禅師を開山として、寿昌派岱宗山天徳寺の開堂式を1700人もの僧侶を招いて盛大に行ったといわれています。
(水戸葵紋の掲げられた総門は、薬医門形式です。)
心越禅師は元禄8年(1695)の入寂までこの寺で過ごし、正徳2年(1712)には曹洞宗寿昌派総本山祇園寺と改称し、末寺三十余を誇る大寺院となり、曹洞宗天徳寺は河和田村(現水戸市河和田町)に移転しました。
穢積(えしゃく)金剛尊天堂は、心越禅師が中国から持参した金剛像を祀るために光圀公が元禄7年(1964)建立した当時の建物です。穢れ(けがれ)を取り除いてくれるというこの金剛尊は日本ではあまり馴染みがありません。
光圀公が心越禅師に心服したのは、禅宗の高僧であると同時に、篆刻、絵画、書、詩文、琴(七弦琴)など一流の中国文化を伝える技術を持っていたからといわれます。特に篆刻については、「日本篆刻の祖」といわれ、その作品が各地に残っています。(心越禅師の廟)
元禄6年(1693)7月当時55歳の心越禅師は治療に訪れた那須温泉の帰りに立ち寄った黒羽城主大関氏の菩提寺、黒羽山大雄寺の総門に掲げられた心越禅師の書「霊鷲(りょうじゅう)」の扁額です。
佐竹氏の支族 長倉氏の居城であった長倉城跡の一郭にある曹洞宗の古刹、南嶽山蒼泉寺の山号扁額も心越禅師の書です。
前述の天徳寺は寛正3年(1462)、佐竹義人が夫人を弔うため太田に創建し、水戸城進出に伴い水戸へ移転しますが、佐竹氏の移封により秋田に移り佐竹氏代々の菩提寺となっています。
その際衣鉢を受け継ぎ水戸で天徳寺を名乗った寺は、その後河和田(水戸市河和田)に移転し今でも佐竹の紋を付けた曹洞宗の寺として残っています。
また、心越禅師が日本に渡来するときに航海の安全を祈って持ってきたという天妃尊(媽祖)像を、光圀公は3体作らせ、領内の航海・漁業の要衝に守護神として祀らせました。大洗町の那珂川河口の天妃神社、北茨城市の磯原海岸に突き出した天妃山の弟橘媛神社、小美玉市小川の大聖寺の3カ所です。
(大聖寺天妃尊廟の案内板写真です)
拙ブログ「天妃尊と東皐心越 2020年12月21日」で紹介させていただきました。
境内にある「恩光無辺の碑」です。
祇園寺開山の約200年後の幕末、水戸藩は門閥派(諸生党)と改革派(天狗党)による激しい藩内抗争により多数の犠牲者を出しました。水戸市内では天狗党の慰霊碑が多い中、明治以降は逆賊の立場に置かれた諸生党殉難者525柱の名を記し、昭和10年(1935)に境内に建てられました。
立場や考え方の違いはあったにせよ、同じ水戸人として維新の嵐の中に散った反対派の殉難者も供養しようという気運も高まってきて、「幕末維新水戸有志を偲ぶ会」という組織も生まれています。
門閥派の領袖、市川三左衛門の墓所です。藩の大寄合頭、執政等の要職を歴任し天狗派を弾圧、維新後は自派を率いて越後、会津戦線に参戦、会津落城後水戸に戻り水戸城を攻撃、二人の息子弘継、安三郎も戦死する激戦に敗れ、後に捕縛され水戸郊外にて逆さ磔の刑に処せられました、享年54歳。辞世「君ゆえにすつる命はおしまねと忠か不忠に成そかなしき」が残っています。
同じく執政として門閥派政権の中枢にあった朝比奈弥太郎、市川三左衛門と行動を共にし、弘道館敗走後の千葉県八日市場の戦いで養子の泰彙と共に戦死しました、享年41歳。
直ぐ近くにある久木直次郎の墓所です。慶喜公の幼少時の馬術の師匠で側用人などを務め、藤田東湖の妹を娶り、後には門閥派の首領、結城寅壽を長倉陣屋で処刑したとされる神道無念流の剣客でした。
主義主張は違っても、今は五輪とコロナで騒がしい令和の世の中…、静かな墓地の一画で仲良く墓を並べていました。