陸奥国への街道の要衝、額田(茨城県那珂市)の地に築かれた額田城は、340年の歴史を持つ中世城郭です。前半の170年は佐竹氏の分家が、後半の170年は佐竹家臣が宗家に従属して治めましたが、独立志向が強く城域を拡大しながら大きな勢力を維持してきました。
鎌倉時代の建長年間(1249~1256)に佐竹氏5代義重の二男義直が築城し(前期額田氏)、10代義亮の時、佐竹宗家と対立し、応永30年(1423)佐竹13代義人に攻められて落城し滅びます。
その後、義人の家臣小野崎氏が城主となり(後期額田氏)、江戸氏から養子を迎えるなどして以後7代照通まで続きますが、「照通に異心あり」として攻められ落城しました。
戦国末期に伊達政宗と内通して宗家に攻められた後半の城主小野崎氏は、弊ブログ「伊達政宗の起請文…額田城主小野崎氏宛 2021年12月24日」で紹介させていただきました。
標高約30m比高約15mの額田台地の南北に有が池と久慈川の天然掘を配した連郭式平山城です。その総構えは南北に約800m、東西に約1200mで約960,000㎡、東京ドーム約20個以上の広さでした。しかも現在残っている本丸跡が約16,000㎡、二の丸、三の丸の堀と土塁まで含めた総面積は約77,000㎡、中世の城跡としては県内でも有数の規模です。
阿弥陀寺からの本丸方面に向かう遊歩道は、天然の堀らしき沼沢地で川が流れています。 上記額田城主郭航空写真 ◎1
郭間の空堀は幅約20m、深さ9mの大規模なもの、右が本丸、左が二の丸です。 写真 ◎2
右手が二の丸、左手が三の丸間の堀です 写真 ◎3
三の丸は住宅地や畑になっていますが、土塁や空堀跡が散在します。 写真 ◎4
二の丸から三の丸への土橋です。 写真 ◎5
広い二の丸、随所に詳しい案内板が建てられています。本丸、二の丸はほぼ完全な姿で残っているのが魅力です。 写真 ◎6
本丸北端の堀には水が湧き出しています。何か所かの湧水も見られ、当時は一部の堀は水堀であったともいわれています。 写真 ◎7
平坦で広い本丸はなんと16000㎡もあります。この一帯は民有地でしたが、最近市で買い上げて歴史公園に整備すると近所の方に聞きました。ぜひあまりいじらないで遺構をしっかり残してもらいたいとその方も話していました。 写真 ◎8
本丸土塁の上は銀杏の葉が散り敷かれていました。右手が二の丸との間の空堀です。 写真◎9
この大規模な城の最後の戦いは、小田原を征圧した豊臣秀吉から常陸国の所領を安堵された佐竹義宜が、翌1591年に額田城主に異心ありとして攻めたものでした。
近隣では群を抜く強力な兵力といわれた額田700騎で分かるように、当時の戦いは数百人規模のものであったかもしれませんが、結局この堅固な城は、宗家佐竹氏の攻撃だけでは落とすことができず、太閤秀吉の名で退城勧告を突きつけられて、城主小野崎氏は城を退去したと伝わっています。